Re: 【小説的】原色のないその青を、奇跡と呼んだ【雑談】 ( No.315 )
日時: 2014/03/10 21:24
名前: 奏弥◆4J0JiL0nYk (ID: lYzqL1hI)


 私は、誰なのだろうか?
 ポケットを漁ってみても、身分が分かるような物は何も無かった。ポケットに入っていたのは、草臥(くたび)れた煙草に、恐らく安物でガス切れ寸前のライター、残りの少ないガム、何故かガムの包み紙らしきゴミの入った携帯灰皿。そして、大人の男の持ち物としては不自然な、繊細で可愛らしいリボンの髪飾り。ゴミと大差ないような持ち物の中で、そのいかにも女の子が喜びそうな髪飾りを大事に持っているなんて怪しすぎる。それに、どうしてだろうか。この髪飾りを見ていると、胸がざわつく。このままだと取り返しがつかなくなる。何故か、そんな気がする。

 ――――私は、何を失くしてしまったのだろうか。

 休日の昼下がり。長閑(のどか)な公園。辺りには子どもの歓声や、それを見守る親たちの話し声が木々のざわめきと混じり合って溢れていた。俺と彼女も平和な休日を満喫していた。
 そして、投げたボールがよく跳ねて、道路へと誘われて、それから? それだけ。

 ――――俺には、何も残らなかった。

 やけに少女趣味な髪飾りを手のひらで弄びながら、これからどうするべきかを考える。といっても、選択肢はそれほど無い。最も端的に考えれば、このまま立ち止まり続けるか、自分の内にある違和感に目を瞑って歩き出すか。何も思い出せないこの状況では、迷うことさえ間違っているのではと不安になる。
 私は何をしたらいい? 何をすべきで、何をしてはいけない?
 何もわからないのに焦りだけは確かにあって、思考は同じところをぐるぐると回り続ける。行動を起こさないといけないのは分かっても、正しい行動を取る自信が無い。ならばいっそ、何もしない? いや、悠長に構えていたら後悔することになるような気がする。
 焦りというものは非常に厄介だ。ふと気づけば傍にいて、あっという間に手も足も思考でさえも絡み取ってしまう。一度捕まえられてしまえば容易には抜け出せない。ただただ、身が焦がされる様な焦燥が思考を塗り潰していく。

 ――――私にとっての正解はどれなんだ?

 サイレンの音。痛い。誰かの耳障りな悲鳴。鉄錆の匂い。力が抜けていく。温められたアスファルトの感触。子どもの泣き声。黒いタイヤ。ひどく寒い。さみしく転がるボール。薄らと見えたのは誰かの体だろうか。眠たい。手を伸ばした。広がる赤い靄。届かない。瞼が落ちた。鉄錆の匂いが強く香る。暖かな暗闇に包まれる。息を吐き出した。もう何も分からない。

 ――――まとわりつく闇の中で、彼女の声が聞こえた気がした。

 いつ終わるとも知れない道を歩く人々。彼らは皆、何の憂いも苦痛もなく穏やかな顔をして流れていく。街中でよく見かける様な暗い顔をした人は一人も見当たらず、却(かえ)ってそのことが例えようもなく不気味だった。判で押したように同じ表情の彼らは、まるで人形か、もしくはそう。死人に似ていた。生きることへの執着といったものが抜け落ちている様で、背筋が冷える。
 だがそれでも、正直に言ってしまえば、この場所に留まるのはとても心地が良い。ぼんやりと白に染まった景色は眠気を誘い、過ぎ続ける人の流れは考える気力を徐々に奪っていく。目の前の穏やかな景色を眺めていれば、何もかもが些末(さまつ)でくだらないことの様にも思えてくる。

 ――――私は何故、留まり続けていたのだろうか。

 白い霧の中にポツリと在る道。どこから始まったのか、どこで終わりと迎えるのか想像もつかない。視界の限りにまっすぐ伸びた道。その道をどこから歩いて来たのか様々な人が歩いている。スキップでもしそうなくらいに軽快な足取りの若者。杖を突きながらゆっくりと歩く老人。触り心地の良さそうなぬいぐるみを大事に抱えて歩く少女。中には車椅子に乗ったままの人もいる。
 穏やかな表情の人々に誘われるように一歩踏み出そうとした時、頭に浮かんだのは彼女の姿だった。この場所に来る前は確かに、彼女は俺の傍らにいた。だが、今彼女の姿は影も形も無い。そもそも、どうやってこの場所に来たのかが分からない。俺は、彼女を助けようとして、飛び込んで、それから?
 頭の中がごちゃごちゃして、うまく思い出せない。彼女に、もう一度会いたい。次こそは、助ける。……次こそは? 俺は、助けられなかったのか? 分からない。もし、失敗したのなら、どうしたら良いのだろう。
 目を閉じて、ゆっくりと息を吸い込む。冷静に考えればこんなに簡単な選択は他に無い。俺の全ては彼女のためにある。分かりきっている。彼女がもう一度笑えるように、俺はすべてを投げ出そう。そう心を決めた時、後ろから声がした。振り返れば、手が差し伸べられた。

 ――――手を取ったその先に待つものは、救いの福音か、失意の堕落か。

 私は、何を悩んでいたのだろうか。思い出せない。何故、立ち止まっていたのだろうか。分からない。でも、どうでも良いような気もする。この場所にいると、何もかもが些細なことに感じる。きっと、この世界に大事なものなんてそう無い。世界の大半はくだらないことで出来ていて、人の一生はそんなくだらないものを大事だと思い込んでいる間に過ぎ去ってしまう。だから、立ち止まっていてもい意味が無い。きっと、そうだ。思い出せもしない記憶にいつまでもしがみついているなんて、馬鹿げている。
 一歩踏み出せば、髪飾りが落ちた。同時に、自分の思考に寒気を覚えた。

 ――――私は今、何を切り捨てようとした?