私に笑いかけてくれていたのは、一体誰だったのだろうか。ぼんやりとしか思い出せないけれど、おそらく何よりも大切な人。もしあの子を失うことがあれば、私は何を犠牲にしてもあの子を取り戻そうとするのかもしれない。でも、きっとこれは、辛(かろ)うじて残っていた記憶を失くす以前の私の感情なのだ。なんとなく、以前の私が戻ってくるような予感がする。
でも、その時、私はどうなるのだろうか。以前の私が戻れば、今の私は消えてしまうのだろうか。でもそれは、至極当然で正しいことなのだ。結局のところ、存在もあやふやで空っぽの私は、以前の私が戻るまでの代替品(だいたいひん)でしかない。以前の私の偽物にしか過ぎない私でも、このまま誰の記憶にも残らないまま、存在した証も無いまま消えてしまうのは、ほんの少し寂しい。それでも、これでいいと、私は正しい選択をするのだと、そう思える。
おそらく、この髪飾りは泣いていたあの子の物なのだろう。繊細なデザインもあの子なら嘸(さぞ)かし良く似合うのだろうと予想がつく。きっと、可愛らしい髪飾りを付けた君は嬉しそうに笑って、私を幸せな気持ちにしてくれたんだろう。以前の私が少し羨ましくなって、髪飾りに微笑んだ。そしてそのまま髪飾りへ、あの子に向けて、別れを告げる。
――――さようなら。一目でも良いから、君の笑顔を見たかった。
いつの間にか閉じていた瞼を開けると、長く眠っていた後のような倦怠(けんたい)感があった。手のひらには彼女の髪飾りがあって、見ていると何故か一抹の寂しさを覚えた。俺はそんなに彼女が恋しいのだろうか。いや、どこか違う気がする。俺の中に、空白の時間があるような、居心地の悪さがある。だが、不思議とこのままでも良い気がした。まだ、彼女は来ていない。まだ、猶予はある。根拠は無いが、俺は確信していた。
目の前にある景色は全く変わり映えはせず、どれほどの時が経ったのか知る術は無い。相変わらず、人々は絶えることなく流れ続けている。手のひらにある髪飾りをそっと両手で包んで、流れる人々を見つめる。彼女は、あの子は、もうすぐ、きっと。
――――その時、聞き覚えのある声が響いた。
すぐに声のした方に目をやれば、今にも泣き出しそうな声で俺を呼ぶ最愛の人がいた。髪飾りをポケットにしまい、彼女のもとへと駆け寄る。やっと、やっと俺は、彼女に会えた。
これからずっと、考えていた。俺は彼女に、最初に何を言うべきなのだろうか。また会えて嬉しい、だろうか。いや、俺がまず伝えるべきなのは、謝罪だ。俺は、彼女に許しを請いたい。それは俺のエゴでしかないし、到底許される事ではないと分かっているけれど、せめて謝りたい。そして、力の限り彼女を抱きしめて、生きている間に伝え切れなかった愛情を余ること無く伝えたい。
手を伸ばせば彼女に触れられるほどの位置に近づいて、ふと気付いた。俺には、彼女に触れる資格が無い。そうだ。そもそも彼女を助けられなかったくせに、謝罪をしたい、許されたい、もう一度抱きしめたいだなんて、虫が良いにも程がある。今更どんな顔をして、彼女に会えばいい? 伸ばしかけた手を下ろしたその時、彼女は俺に気づいて、叫んだ。
「お父さん! やっと会えた!」
――――こちらを向いた彼女は、満面の笑みを浮かべていた。
両手を広げて俺に走り寄る彼女は、心の底から嬉しそうな笑みを浮かべていた。躊躇いも無く俺に向かって飛び込む彼女を、娘を受け止めて、俺は恐る恐る尋ねた。
「なぁ、お前は、俺のこと、父さんのこと、怒ってないのか?」
俺の言葉に、娘は可愛らしく首を傾げた。そしてそのまま、嬉しそうな笑顔は悲しそうな顔に取って代わらう。
「ううん。全然怒ってないよ。それより、ごめんなさい、お父さん。」
娘の言葉に、今度は俺が首を傾げる。謝る理由は数あれど、誤れる理由は一つも思い当たらない。俺の困惑を感じたのか、彼女は辿々(たどたど)しく、補足を始めた。
「あのね、わたしね、悪い子だったの。」
そんな事はない。わが娘ながらこの子は、控えめに言っても素晴らしく良い子だ。そう思いはしたが、相槌を打って続きを促した。
「わたしがお父さんの言うことを聞かなかったから、」
じわりと浮かんだ涙を零すまいと、彼女は唇をぐっと引き結んだ。この子はまだ幼いのに、涙を抑えつける術を既に身につけている。おそらく、俺がそうさせてしまったのだろう。
「悪い子で、道路に出てっちゃったから、」
ふるふると唇も震えて、言葉を紡ぐのもやっとの有様に俺の涙腺も緩む。
「お父さん、死んじゃった…………!」
そっと頭を撫でると、とうとう彼女は泣き出してしまった。それも、ごめんなさい、ごめんなさいと謝りながら。
俺は、何に代えてもこの子を助けなければいけない。この優しすぎる娘をそっと抱き締めて、俺はゆっくりと彼女に俺の想いを伝え始めた。
「ごめんな、俺のせいでこんなに辛い思いさせて。」
しゃっくりをあげながらも首を振るのを感じながら、言葉を続ける。
「お前のことも助けれられずに自分が死んじゃうような駄目な親父だけと、俺はお前を愛しているよ。これだけは覚えておいてくれ。これからどんなことがあっても、俺はお前の味方だ。」
何かを感じたのか、彼女は涙を拭いながら顔を上げた。
「これから先、生きていく中で辛いことはたくさんある。その時は、立ち止まっても、休んでも良い。でも、諦めて投げ出すことはしないでくれ。」
彼女はしっかりと俺を見つめて、ほんの少し笑った。
「大丈夫だよ。わたし、お父さんの娘だもん。」
「よし、それでこそ、俺の娘だ。」
もう一度ゆっくりと頭を撫でて、俺は彼女から離れた。愛しい娘は、泣き止んで、それでもどこか不安そうに俺を見つめている。ふと思い出して、ポケットから髪飾りを取り出した。
「お父さん、どこにもいかないでよ。わたしを、置いていかないで。」
俺は、幸せだ。
彼女に微笑みながら首を振って、その髪に髪飾りを付ける。いつものように、よく似合っている。
「俺から、一つ、お願いだ。守れるね?」
彼女は、唇を噛みながらも、深く頷いた。
「強く、生きてくれ。」
その時、後ろから気配がして愛しい娘の姿は徐々に薄れ始めた。消えるその瞬間、娘の目には強い光が宿っていた。きっと、あの子は大丈夫だろう。強く生きていくれる。そんな気がする。
「お別れは済んだ?」
「……まあな。」
「わざわざこんな賭けをしなくても、彼女は自然に助かったかも。」
「それでも、俺が何かしてやりたかったんだ。」
「生まれ変わるのを待てば、また親子になれたかもしれない。」
「何度生まれ変わろうが、俺は何度でも同じことをする。」
「ふうん。不思議。言い残したことはない? せめて、伝言してあげよう。」
「ああ、頼む。どうか、幸せに。と。」
fin.