【翼】
この国に来て数か月にもなるが、相変わらず歴史というものが色濃く迫ってくるのが、彼には感じられた。建国から二百年弱しか経っていない祖国と比較して、心の隅に小さな嫉妬を覚える。それはすぐ治まった。比べてもしょうがない。代わりに、合理的な気風と馬鹿でかい領土があるじゃないか。宥めるように、男は心中でつぶやく。
洒落た通りを歩きながら、行き交う人々を横目で観察する。ビジネススーツ姿の男。デジタルカメラを持った観光客。短いスカートを穿いた艶やかな女性。横を通り過ぎていくにつれ、それらは自身のなかで忘却されてしまうのだと男は思った。所詮、人間には接点の限界があって、それを越えたらもうどうしようもない。まるで蠅と人間の攻防だ。
――くたびれたグレイのコートを躰に巻き付けながら、男は空を見上げた。憎たらしいほどに澄み切った青空に、数匹の鳥が飛び交っている。冷たい風が男の顔をさらりと撫でた。男は一度睨み付けるかのような感じでジッと空を見つめたが、すぐに目尻を落とす。どうしようもない。
街並みに紛れるようにして存在していたカフェを見つけると、男はドアベルを鳴らしながら、足を踏み入れた。清潔感と暖かさがある店だ。愛想の良い女性店員がこちらを見ている。男はカウンターへと近寄ると、メニューからカプチーノとクロワッサンを頼んだ。穏やかな声でレジスターを打ちながら、店員が値段を示す。男は紙幣を数枚出すと、釣りを受け取った。注文されたものが出来上がるのを待ちながら、左腕の時計に視線を移動させる。
約束の時間まではまだ余裕がある。男が店内を注視していると、店員がトレイに乗ったクロワッサンと容器を差し出した。男は頷くと、トレイを持って店の外にあるテラス席へと進む。外に出ると、乾燥した空気と先ほど感じた風に吹きつけられる。少し眉を顰めながら、空いている席へと腰を落ち着けた。
一息付いて、懐から文庫本を取り出す。黒い表紙に薄い幾何学模様。白文字で『連綿するミーム』と表記されたその本を、男は数秒注視すると、不意に空を仰ぎ見た。鳥はもういない。代わりに千切れた雲がのったりと空を滑空している。男は半ば哀しみと驕りを込めていった。
「人は重力に縛られるのさ」
鮮やかな陽光に照らされる白亜の塔。その堂々と屹立するさまは多くの人々に威圧と畏敬、そして何よりも恐怖を与えてきた。それは牢獄だった。それは死と弾圧の象徴だった。人々はただ、地上から伸びあがる王の権威を無力さをもって眺めることしかできないのだった。
そして、この雲を突くような塔の天辺に、閉じ込めれている二人の男がいた。名をイカロスとダイダロスという。時の王、ミノスの怒りに触れたダイダロスは嫡男のイカロスとともにこの鉄壁の牢獄へと幽閉されてしまったのである。
白い胸壁が辺りを包み込んでいる。抜けるように広がる晴天が、イカロスにとっては妙に腹立たしかった。彼は石畳の地面をせわしくなく歩き回りながら考える。あの暴虐なる王の頬を平手で打ってやるには果たしてどうしたらいいだろうか。空想のなかでそれを実行し、喜びの唸りをあげるイカロスを見かねて、壁へと寄りかかっていたダイダロスはいった。
「少し落ち着けばいい。我が息子よ」
イカロスは一度ため息をつくとゆっくりとダイダロスの方向へと振り返った。彼は言い返した。
「そうしたらこの唾棄すべき邪悪な塔から逃げられるとでも? 父上」
「息子よ。何事も平静で臨むことだ。そうすればニーケーも舞い降りてくださるだろう」
殉教者のような眼差しを歪めて、ダイダロスは諭すようにいった。イカロスは難しい顔をしながらその場へと座り込む。息子は父親とは対照的だった。溌剌とした双眸。感情の豊かさを表すように上下する口角。精気に溢れた物腰。口髭を撫でながら、ダイダロスは素直に従った息子に頷いた。
「まずは良く冷静になって考えるべきだろうな」
イカロスは肩を竦める。そして珍しく深刻そうな表情を顔に張り付け、つぶやいた。
「ここで死ぬとは考えたくありませんよ、父上」
「……イカロス。神々は我々を見捨てはしない。信じるのだ。自らを。私を。そして神を」
二人の間に陽光が差し掛かる。両者の視線が空へと向けられた。煌めく太陽が二人を鼓舞しているように思われた。イカロスは唇を歪ませると、首をぐるりと回す。
「出たら何をするか考えます」
「それがいい。まずはお前の嫁をどうするか、からだな」
イカロスが眉を顰めるのを見て、ダイダロスは快活に笑った。
夜の帳が降り、月は太陽と交代する。王の怒りに触れた二人は硬い地面に雑魚寝していたが、やがて光がダイダロスの顔貌へと差し掛かると、彼は大きく口をあけながら、億劫そうに上半身を立ち上げた。唐突に、騒がしい音が場に響き渡る。幾度も重なる羽音。鳴き声。ハッとダイダロスが目蓋を開くと、そこには清純な大気に舞う数十の羽根と小さな糞が丸まって辺りに転がっているのが見えた。
「これは……」
ダイダロスが呆気に取られていると、横で息子のイカロスが呻きを発しながら身じろきする。ダイダロスは迷惑そうに視線をやり――そこで脳裏に光り輝く何かが訪れたのを知覚した。
「そうだ! そうだよ!」
突然、発狂したかのように叫び声をあげるとダイダロスは隣で寝ている息子を強く揺り動かした。イカロスはねむけ眼を擦りながら、苛立たしげにいう。
「もう少し寝させてください。父上。今、良い夢を見ていたのに……」
「そんな場合ではない! 神が使者を遣わせてくださったのだ!」
「はあ?」
ついにおかしくなったかとイカロスは悲痛そうな声を出して、頭を抱えようとする。それをダイダロスが叩いた。
「ええい。この寝坊助め。さっさと起床しろ!」
「一体何だってんだ! 気狂いの相手なんかしてる時間は――」
火山が噴火したかのような憤怒を顔に浮かべて、イカロスは勢い良く立ちあがろうとし、ダイダロスの顔を見た。そして驚いた。彼の人の表情は実に活き活きしていたからである。ダイダロスはイカロスの肩を掴み、耳に口を寄せた。
「いいか、あの羽根を見ろ」
イカロスは気圧されて、思わず父が示した方向に視線を移動させる。そこにはダイダロスが見た光景があった。
「あれでな、翼を作るのだ」
「つ、翼ですって!? 嗚呼、僕の予想は正しかった。父は頭が……」
「失礼なことをいうんじゃない! バカ息子が!」
軽く頭に拳骨をくれると、ダイダロスは素早く立ち上がって羽根を拾い集めた。茫然と見ているイカロス。ダイダロスは笑った。
「私は誰だ。大工、工匠、職人。そう、神々から叡智を授かった男だ。出来ないことなどないのだ。イカロス!」
「は、はい?」
「父の眼を見ろ」
ダイダロスは首を巡らせた。イカロスとダイダロスの視線が交差する。イカロスは父の眼に光る猛々しい野心と情熱を見た。殉教者のような双眸はすでに無かった。そこにいたのは天下の牢獄に挑もうとする一人の戦士であった。イカロスは身が引き締まるのを感じる。父は狂ってなどいない。本気で翼を作る気なのだ。イカロスの眼に、徐々に若人の輝きが灯りつつあった。ダイダロスはそれを確認すると、狙い澄ましたような不敵な笑みを口元に張り付ける。
「この牢獄から脱出する。協力しろ、我が息子よ」
「……是非にやらせていただきましょう、父上」
イカロスが持ち前の自信を漲らせるのを見て、ダイダロスは満足気に頷いた。
彼らは一日一日と羽根を組み合わせていった。それこそ気の滅入るような日も、互いの意見が衝突した日も。それは神々が与えた試練のように思われた。彼らは恐らく忍耐と意志力を試されていた。加護を授けるに値する人間なのか、見極めるために。
黙々とただ一つのことを実行し続けた。羽根を蝋と糸で結び付るという単調な作業。若人も老人も、何かに取り憑かれたかのような真剣さを見せた。希望の途は遠いが、閉ざされてはいないのだった。それこそ希望は呪いではなかったか。呪いを掛けられた男たちはひたすらに熱心で有り続けた。
ある夜、イカロスはいった。
「父上、幼少のみぎりから僕は一つの夢を持っていました」
「続けろ、息子よ」
ダイダロスは作業の手を止めて息子の話を聞いた。イカロスは微笑んだ。
「燦々と照り続ける太陽のなかは一体どうなっているのか、とても不思議だったのです。僕はあそこに神の国があると思っていました」
「もっともなことだ。そう考えるものも、少なからずいる」
「……罰当たりな奴だろうと思われるでしょうが、僕は自力でそこへと辿り着きたいと夢見ていたのです」
「否定はしないよ。おまえらしいと思う。神々は寛容であるし、それに私は太陽はただの飾り物でしかないと思っているからな」
ははと、声を抑えてダイダロスは笑った。イカロスは肩を竦めると、苦笑を返した。
「例え神の国ではなくとも、ですよ。何か偉大なことをしたいといつも考えていましたから。芸術は僕には向かない。戦争で英雄にはなれない。父上のような才もない」
イカロスは真剣な顔つきになると、ぼんやりと穏やかな光を投げ掛ける月を見た。近づいても、離れる。手を伸ばしても届かない。
「何処か世界の果てから月に飛び乗って、太陽と交わる頃に飛び移ればいい、なんていう計画も持っていました」
緩慢な様子で起立する。そのまま腕を組んで、夜気から身を守ろうとした。ダイダロスが首を傾げる。
「それで。おまえはどうしたい、何がいいたい」
「僕はね、父上。今、すごいことを成し遂げようとしているのです。故郷の人々が聞いたら、天地がひっくり返るくらいに驚愕する、そんなことです。僕は偉大なる父の助けを借りて、人類で一番最初に空を飛んだ男になれるかも知れないんだ……」
そしてイカロスはダイダロスをしかと見つめた。切実な意思が宿る両の瞳はダイダロスを貫かんばかりであった。不意に、ダイダロスの胸中に僅かな不安が芽生える。愛すべき息子がこの場から蜃気楼のように消えてしまうような、一筋の恐ろしさが胸を打った。そんなことはない、とかぶりを振ると、ダイダロスは答えた。
「イカロス。私がお前をそうしてやる。初めて空を飛んだ男を息子に持つのだ、私は」
神々は彼らを祝福した。弛みない努力が、一見不可能と思われていたことをやり遂げたのだった。完成した二組の翼。何処かしか荘厳な雰囲気さえ感じさせるそれを目の前として、親子は欣喜した。互いに抱き合い、雄叫びをあげた。照りつける太陽と透き通る青空が二人の様子を見守っていた。
ダイダロスは早速、息子に翼を取り付ける。イカロスは腕を振った。呼応するように翼が勢いよく揺れ動く。ダイダロスはそれを見て、にんまりと笑みを浮かべた。
「いいぞ。これでこの監獄を後にすることができる」
自身にも翼を取り付けると、二人は目配せし、胸壁の縁へと向かった。鋭い風切り音がする。恐怖と不安が二人に纏わり付こうとしてくる。眼下には大海原。カモメが遠くを、編隊を組んで飛んでいた。
「腕を動かして、鳥の如く滑空するのだ……イカロス。準備は良いか?」
「いつでも。偉大なる父よ」
くしゃりとイカロスの髪を撫でながらダイダロスは眼を細める。自慢の息子だ。その息子の夢を叶えてやるのだ。神々よ、どうか祝福を。
父親と息子は胸壁から距離を取る。この蒼穹へと旅立つために――イカロスが走る。固唾を呑んで見守る父。そして――。
「おお!」
イカロスは飛んだ。そして、落ちる。父がハッと思うと、イカロスは気流に乗り、そのまま翼を動かして遠ざかっていく。イカロスが不安げに振り向いたのを合図として、ダイダロスも思いきりに走った。足が地を離れ、落下していこうとする。ダイダロスは力を込めて、両腕を振り抜いた。
風がダイダロスの頬を打つ。気流に乗って上昇。先を飛ぶイカロスの姿が見えた。ダイダロスは腕を懸命に振りながら、自身の息子へと近づく。
イカロスは目尻に涙を零しながら、喜劇でも見たかのように大笑いしていた。それを見たダイダロスも頬が緩み、やがて空中は二人の笑声で満たされた。
「すごい! なんてすごいんだ! 我が父よ! あなたは天才だ!」
「そうだろうとも! このダイダロスに出来ないことはない!」
笑い合っている内に、イカロスの表情に変化が訪れた。双眸に野心の光が宿り、顔つきはさながら蛇が舌なめずりをするよう。彼の躯は若さ故の精気が荒れ狂い、まるで火山のようであった。ダイダロスはそれを仰ぎ見て戦慄を覚える。イカロスは激しく両肩を上下させると、上昇気流に乗ってあっという間に上空へと舞い上がった。ダイダロスは咆哮した。
「高く飛んではならぬ! だめだ! イカロス!」
当のイカロスは父の警告も耳に届いていなかった。彼は少壮さに支配されていた。精神が高揚し、何でもできる気になった。胸にどうにもならない、表現し辛い感情が広がり、彼は大笑いしながら叫んだ。僕は飛ぶことが叶った初めての人だ。僕は神に愛されている。手始めに太陽を征服してやろう。
場に恐ろしい人声が満ちていた。ダイダロスの怒声とイカロスの哄笑。ダイダロスは慎みを知っていた。故に慢心の報いがイカロスに襲いかかることも理解していた。
翼の蝋が、太陽の熱で段々と溶けていく。イカロスは気づかない。ドンドン上昇していく。イカロスが有頂天になろうとしたとき、それは来た。何か、巨人の手で地獄へと引っ張り込まれたかのようにイカロスは急降下する。ダイダロスが悲鳴を挙げた。イカロスは信じられぬといった風に、ただ網膜を焼くのも構わず太陽を見つめた。翼をまき散らしながら、落ちていくイカロス。それはさながら堕天だった。イカロスは状況を理解する。僕の傲慢さが神々の怒りを招いたのだ。父よ、偉大なる父よ。嗚呼……。誰か、誰でも良い。僕が空を飛んだなら、誰か続いてくれまいか。傲慢さ故に僕は死ぬ。真の勇者よ、僕の意思を継いでくれ――。
星々が煌めく夜空。柔らかな草が生え茂る丘に、小さな影が二つ埋まっていた。意思が強そうな眼差しの少年と、気弱だが温厚そうな顔付きをした少年。意思が強そうな眼差しをした少年が、もう一人の少年に何かを語っている。
「……そうしてイカロスは墜落してしまったのさ」
「死んでしまったの?」
「そう。死んじゃった」
聞かされていた少年は一度目蓋を閉じると、また開いた。その小さい唇が言葉を吐き出す。
「悲しい話だね」
「大事なのはここから何を学び取るか、だと思う」
話した少年は年に似合わず、聡明な口調で言う。彼はため息を付くと、空をジッと見つめ続けた。
「僕は、イカロスの意思を継ぎたいと思うんだ。彼が何を思ったにせよ、飛び立った勇気は本物だ」
真剣な声色で話す少年を見て、もう一人の少年が感嘆の声を漏らした。
「兄さん。今の兄さんはとってもかっこいいよ」
それを受けた少年は顔を赤くして、縮こまった。それだけは年相応といえた。
やがて歳月が経ち、少年たちは大人になった。ライト兄弟――少年の頃と変わらず、その鉄の意志を示す双眸を持つウィルバー。豊かな口髭を蓄え、紳士的な優男といった風体のオービル。彼らは今まさに、自分たちの夢を実現させようとしていた。
ノースカロライナ州キルデビルヒルズ。この人里離れた辺鄙な海岸に建造された倉庫。なかには彼らが作り上げた発明品――フライヤーが収まっている。
木造の鳥のようにも見えなくもないこの機械は、未だに人類が成し遂げることがなかった有人飛行を実現させるための道具だった。
二人は倉庫の前に立ち、潮の臭いを嗅ぐ。オービルがいった。
「やれるかい? 兄さん」
「風が強い。今やらずしてどうする」
ウィルバーは弟に向かってニヤリと笑うと、彼に指示し、二人で倉庫の扉を開いた。夢の結晶――フライヤーが露わになる。そこに風が吹き付けた。ウィルバーは眉を顰めて、抗議の意を示しながら、フライヤーに近づく。
「その調子だ、風よ。私を不機嫌にさせるほどの勢いを保て。もう少しなんだから」
「どうか吹き続けたまえ……」
兄弟は互いに祈りながら、フライヤーを倉庫の外へと出した。そこで数分待つ。風は止まない。むしろ強くなっていく。二人は視線を合わせると、力強くうなずいた。オービルは信号旗を掲げる。沿岸警備隊への合図だった。失敗を考えたくはないが、万が一の備えだ。引き続き、飛行準備を整えていると見学者が集まってくる。その内の一人がいった。
「そのデカブツをどうしようってんだい?」
オービルは肩を竦める。代わりにウィルバーが大声で返答した。
「飛ばすのさ」
質問した彼は驚愕した面持ちでかぶりを振ると、ほかの見学者と話し始めた。兄弟は笑い合う。彼――ダニエルズは戻ってきて、いった。
「とんでもないな。だが俺はこういう馬鹿げた奴らが好きだぜ」冗談をいっているように、苦笑する。
オービルは腕を組み、それならばと三脚を携えた大判カメラが設置されている場所を指で示した。
「じゃあ記念すべき瞬間を写真に収める手伝いでもしてくれないかな?」
どうせ撮れるのは無様な瞬間だけだろうと思いながら、ダニエルズは了承する。
十時三十五分、エンジンとプロペラを回し、レールの上にフライヤーが載せられた。飛行準備が完了。オービルはフライヤーに搭乗する。ウィルバーが声を掛けた。
「今こそイカロスの意思を継ぐとき、だな。オービル」
一時も忘れていなかったと続ける兄に、オービルは微笑んだ。やってみせるさ、兄さん。人類は兼ねてからの夢を手に入れる。僕たちの下には、偉大なる先人たちの犠牲があるんだ。
腹這いになって操縦桿を握るオービル。それを確認したウィルバーは翼端を支える。エンジンが始動。着火タイミングを調整。オービルの心に細波が立つ。スタート。ウィルバーの介添えで滑らかに滑走していくフライヤー。いける。オービルは舌を噛む。四番目のレールに差し掛かった。いけ。いけ。いけ!
――兄の手を離れ、宙に浮いたフライヤー。起きるどよめき。ダニエルズは天啓に導かれるようにしてシャッターを切った。
テラス席に座る男は一旦本から視線を外した。誰かに呼ばれたような気がする。それは気のせいではないようだ。上物のスーツを着た男。宇宙船技術者の友人だ。彼に手を振りながら、向かいの席に腰を落ち着けるように促した。会釈しながら座る宇宙船技術者。彼はいう。
「良い天気だね」
男は皮肉っぽく肩を竦めた。
「しかし寒すぎる」
それから彼らは十数分も歓談すると、不意に話題は互いの近況に移る。宇宙船の打ち上げ。
「今度、ケネディ宇宙センターから新型が打ち出されるんだろ?」
「ああ、僕も関わった奴だ。火星の衛星軌道上に建設中のステーションに、物資を届けに行くのさ」
男は神妙そうな表情を浮かべると、いう。
「馬鹿なやり方だよな」
「どうして?」
「いいか。人間ってのは重力に縛られてるんだ。いくら足掻こうが、地球で生まれて地球で死ぬのさ。百歩を譲って、ステーションが完成したとしよう。その先にいけるはずがない」
「悲観主義者だな、君は。イカロスの話を知っているかい?」
男は軽くうなずくと、口角を歪めた。
「身の程知らずの馬鹿者さ」
「なるほど。そういう見方もできるな」
技術者は肩を竦めると、話を続けた。
「ではライト兄弟は知っているか? 彼らの下にはにはイカロスやジョージ・ケイリー、空を飛ぶことを夢見たすべての人たちの犠牲があったんだ」
「それとこれとは話が違うよ。できっこない」
男は唸りながら首を横へ振る。技術者はその様子を見ながら微笑んで、いった。
「違う。幾つもの失敗と犠牲を糧にして、人類は宇宙の向こうまで広がっていくだろうね。イカロスがあってその先にライト兄弟がいたように」
まだ何か言おうとした男を尻目に、技術者は手元の腕時計を見る。そして立ち上がった。
「失礼。もう時間だ。また今度に、ね。こういう議論はまたあるさ。たぶん、二百年後にも。今度はなんだろうね? 銀河系から外へ行けるはずがないとか、話し合ってるのかもな」
技術者は笑った。
【了】
【後書き】
二回目の参加となります。ランスキーです。この場でいうのは失礼だと承知しておりますが、レシラム様のご批評に対して感謝を。参考になりました。
そして今回の物語ですが……実はとある方に非常に有用な感想をいただきました。それを見て、自分の未熟さをまざまざと痛感させられたことは内緒です。ともかく、まだまだ精進、でしょうか。
あまり出来の良いものではありませんが、参加させていただいてありがとうございました。