『休暇』
――私は、ずっと貴方を待っていたいのです。
そう言って泣き崩れた彼女の姿を、私は生涯胸に抱いて生きていくのだろうか。
時間とは実に不可思議で、そして残酷なものだと思う。十年という巨大な時間の壁によって、私はあの時、私を思って涙を流した彼女の姿しかまともに頭の中に思い描くことができないのだから。他にも、例えばたくさんの笑顔を見せてくれたはずなのに、その中の一つすら思い出すことができない。あの泣き崩れた時の映像のみを残して、他のものはさっさと荷物をまとめて頭の中から出ていってしまったかのように。
それ故に、だ。もう彼女に会うことができないのだと知った時はそう、体中から力が抜け、情けなくもその場に崩れ落ちたのを覚えている。が、一滴の涙も頬を伝い落ちることが叶わなかった。“悲しかった”のではなく、ただただ無念でならなかったのだ。
私は閉じていた目をそっと開き、実家からそう遠くはない河原の草むらに腰を下ろしたまま、頭上に広がる澄んだ空を仰いだ。久しぶりに見た故郷の空は悲しいほどに青く、ほんの少しの間とはいえ、ここに帰ってきた私を温かく迎えてくれているようにも見えた。じっと見つめていると急に胸の奥が熱くなったので、少々躊躇ったが、私は再び目を閉じた。何故か、暗闇の方が心底落ち着くのだった。
どこか遠くから聞こえてきた、子供たちの無邪気な笑い声が耳を通り抜けていく。
待ち望んでいた夏を歓迎するようにして鳴く、蝉たちの声に混じって。
嗚呼、どこにいても見れそう、聞けそうなその全てが愛おしくてたまらない。
できることなら暫くの間、実家で伸び伸びと暮らしていたいものだと切実に思う。しかし、あまり時間が取れず、今日中にはもうここを発とうと思っていたので、「残念ね」と項垂れる母に向かって謝罪の言葉を繰り返して家を出てきたわけなのだが、今更ながらにそれを後悔した。恐らく、明日の早朝に発っても滑り込みで間に合っただろうに。とはいえ、彼女の話を聞いた後にあの家にいても、ただ気まずいだけなのだろうとは思うが。
「もう、行くか」
あまり長居すると、それこそ向こうに戻れなくなりそうなので、私は目を開けると、ゆっくりと腰を上げてズボンについた草を払い落とした。自分でもどうしてなのかよくわからないのだが、その行動すら、大切な思い出を払い落としているようで何だか無性に切なくなる。思いを振り切るよう深く息を吸い込んでみると、空気は爽やかな夏の味がした。
「……さよなら」
ふっと頬を緩めてそう呟いた時、先程まで私を取り巻いていた子供や蝉たちの声がはたりと止んだ。突然誰かにスイッチを切られてしまったかのように、何の前触れもなく。
私は急にそれが恐ろしくなり思わず身を固めて辺りを見渡した。実際に目にしてみて気がついたのだが、私が今体験していることは非常に不可思議なことであった。それはただ音がないだけで、周りの景色は今までと何一つ変わらずに動きつづけていたのだ。例えるならそう、音量をゼロにしたままテレビを眺めている時と同じ。
どうすれば直るのか全く見当もつかないので、耳に手を押し当ててみたり離してみたりを繰り返していると、やがて、すぐ近くから草を踏み締める音が聞こえてきた。それと共に、先程まで姿を消していた音たちが雪崩れ込むように私の耳に飛び込んでくる。
思わず勢いよくそちらへ顔を向けてしまう。音の主は驚いたらしく、少々後ずさった。
しかし、正直、相手の顔を見た私の方が驚いたと思う。
白いブラウスにこげ茶色のスカート。背中に届く長さの黒髪。大きな麦わら帽子。
この女性は驚くほど、“彼女”にそっくりだった。
しかし、彼女にしては様子が変だ。彼女だったら、真っ先に私の名を呼んでは嬉しそうに駆け寄ってくるはずなのに、この女性はまるで私を恐れるかのように距離を取り、不安げにこちらを見つめているだけ。私が今、身につけているのが軍服だということもあるのだろうが、彼女だったらそんなことは絶対に気にしない。
別人か。胸の奥で広がった期待を粉々に粉砕された私が肩を落とした時、
「――あのう、」
ふいに女性が口を開き、驚きのあまりに固まっていた私を見上げてくる。真っ白い手には、向日葵によく似た黄色の花が握られていた。……いや、恐らく向日葵なのだろう。が、私がよく目にする向日葵と比べて、それはとても小さかった。
「この近くに、公園はありますか?」
心細げなか弱い声であった。しかし、とても心地よい声でもあった。
そして、やはり聞いたことのある声だった。
「確か、……茶色の遊具のある公園なのですが」
女性はちらちらと私の様子を窺いながら、躊躇いがちにそう付け足す。心なしか、きゅっと手に力が込もっていた。
確かにこの近くにはこの女性の言う公園があったような気がする。まあ、それも私の記憶に間違いがなければ、或いは今も例の場所にあるのならばの話だ。今の私には自信を持って、十年も昔に住んでいた地を案内することはできなかった。
しかし、一人で心細げな彼女を安心させてあげたくて、
「ええ、そうですね。確かにありました」
と、私は自信ありげに頷いてみせた。
そして、よかったと言わんばかりに安堵の表情を浮かべる女性に近付いて微笑みかける。
「私も丁度、その近くを通るところでした。一緒に行きましょうか?」
そう訊ねると、女性は「ありがとうございます」と頭を下げた。
素敵な方だ。風で揺れる黄色の花がよく似合う、素敵な女性だと思った。顔を上げた時にふっと浮かべる笑顔には、守ってあげたくなるような愛らしさも感じる。これを世は一目惚れだと言うのだろうが、きっと、いや絶対にそうではないはずだ。その前に私は、この女性にそっくりな女性を好きになっているのだから。
まず先に私が歩きはじめると、慌てて彼女も私にくっ付くようにして歩きはじめた。私に合わせるように少し急ぎ足で。少し歩調を緩めてみれば、彼女もそれに合わせて少しだけ足を動かすスピードを落としはじめる。隣ではなく、ずっと影一つ分ほど後ろを着いてきていた。
――それが、無性に切なかった。
「……とても、綺麗な花ですね」
互いの沈黙に息苦しさを覚えはじめた頃、ふと思いついた話題にすがるように背後に声を掛けてみると、女性は「はい?」と疑問符の飛んだ声を返してきた。さては、聞いていなかったのだろうな。私は足を止めずに首をそちらへ向けて「それ」と顎で花を示し、再度「綺麗な花ですね」と言い、微笑んでみせた。すると、女性は嬉しそうに顔を綻ばせる。
「そうでしょう? 私も大好きな花なのです」
何という花なのか教えてもらおうと思ったのだが、どう訊ねればよいのかわからないまま、結局、私は前を向きなおしながら「そうですか」とだけ言って口を閉じてしまった。彼女の大好きな花でいいじゃないか、それだけでいいじゃないか。そんな気がした。
それから、何の話題も見つからず、ただ黙々と二人で歩きつづけた。
十数分ほどひたすら歩きつづけていると、茶色の滑り台が見えはじめてきた。
――あそこだ。私は額の汗を手で拭ってから、公園のことを伝えるべく女性の方へと視線を滑らせてみた。
すると、彼女は先程とは打って変わって何やら悲しそうで、口を真一文字に結んで俯いている。綺麗に切り揃えられた前髪が、彼女の目元に暗い影を作っていた。見方によっては、泣いているようにも見える。花の話題に触れた時に零れ落ちた笑顔を、知らぬ間に壊していたのではないかと自分の行動を確認してみるが、どこに落とし穴があったのかはわからなかった。また、何て声を掛けてあげればよいのかもわからなかった。
「……ます」
「え?」
微かに聞こえてきた声に思わず足を止める。声は確かに震えていた。
体を女性の方に向けた時、胸に先程まで彼女が持っていたあの花を押し付けられた。
甘いような苦いような香りが鼻孔をくすぐる。花を手にしたまま再度「え?」と声を上げる私に向かって、女性は眩しすぎる笑顔を浮かべてみせた。頬には一本の涙の跡が引かれており、涙で濡れたまつ毛はきらきらと輝いていた。
「この花を差し上げます」
受け取ってはいけない。頭にはそのような命令が出されたのだが、
「……受け取って、ください」
彼女には、勝てなかった。
受け取った花を見下ろしてみると、逆にその花は私を見上げてきた。それを見て、この花、実は生きているのではないだろうか、という錯覚に陥る。風に好き勝手に揺らされているだけだというのに。そう思うと、今度は首を傾げてくる。実に可笑しな花だ。そして、それでいて――
「本当に、綺麗ですね」
素直にそう思った。
「……向こうに公園があるのがわかりますか?」
私は体を正面に向けなおして先程見つけた滑り台を人差し指で指し示しながら、「あそこです」と付け足してみる。女性は私の隣に立つと、目を細めて私の指差す方を見つめていたが、その一拍後にはどうやら見つけたらしく、「あっ」と小さく声を漏らしては無言で何度も頷いてきた。笑みが零れ落ちる。
「あ、あの公園です。どうも、ありがとうございました」
「いえ、こちらこそ」
こんなに綺麗なお花を頂いてしまって。そこまでは言葉にすることができなかった。だから、言葉の代わりに、花を大事に抱きかかえたまま頭を下げた。夏の風物詩とも呼べる蝉の鳴き声が私たちの間に落ちてくる。一生懸命に羽を羽ばたかせて鳴く蝉。その声をひどく鬱陶しがっている人もいるのだが、メスを呼ぶために必死なオスを想像すると罵声を浴びせるのが可哀想に思わないのだろうか。
――そういえば、名前。顔を上げた時にはもう、そこに女性の姿はなかった。
生温い風が頬を、汗ばんだ前髪に触れていく。引き寄せられるように花に視線を落としてみると、茎には小さな紙が巻きつけられていた。先程までは巻かれていなかったような気がするが、そういえば茎などあまり気にせずに花ばかりを見ていたので、ひょっとしたら気付かなかっただけで最初からあったのではないかという気もしてくる。よく見てみると、その紙の端には小さな文字で『啓介さん』と。私はその紙を解いてみた。
少々黄ばんだその紙には綺麗に整えられた文字で二言。『ありがとう』と『行ってらっしゃい』。上の方にはやはり、私の名が記されてあった。『啓介さん』。
どこか遠くから聞こえてきた、子供たちの無邪気な笑い声が耳を通り抜けていく。
待ち望んでいた夏を歓迎するようにして鳴く、蝉たちの声に混じって。
私は再び紙を花に巻きなおして、頭上を見上げた。
空は相変わらず真っ青で、優しく微笑んだままこちらを見下ろしている。雲はやたらゆっくりと空の中を泳ぎ回っており、大きな羽を広げて舞い踊る影はすうっとその中に姿を消す。自分の口元が緩んでいることに気が付くまで、そう時間は掛からなかった。
私は静かに目を閉じて、暗闇の中に“彼女”の姿を思い浮かべてみた。
「……ほら、やっぱり」
できるじゃないか。
私には眩しすぎる笑顔を浮かべる、“彼女”の姿を思い浮かべることが。
「――ありがとう。行ってきます」
再び目を開くと、目に入った手元の花が微笑んだように見えた。
*後書き*
…………………………、長えよこれ。
と、まあ、はい。ここまで読んでくださった方、お疲れさまでした!
前々から面白そうな企画だなあと思って影でこそこそっと見ていたのですが、第四回になったところで「受験も終わったし、僕も書いてみるか」というノリで参加させてもらいました。とっても楽しかったです、ありがとうございました。
これは僕が書いている小説の番外編なのですが、まあぶっちゃけ、読んでいなくても大丈夫じゃないかなと思います。ので、何の小説なのかは敢えて言わない← ただ、「夏」というお題でピーンときて書いただけだし。むしろ、別物。
夏が来ると僕は何だか切なくなってきます。なんででしょうねw 友人は「夏だぜ、海だぜ、あっはっはっはっは」みたいな人と「夏かよ、マジかよ……」みたいな人に分かれるのですがww あら、不思議。
書きたいものをどんどん詰め込んでいったら、何だかすっごいグダグダしたものになってしまいました。文章とかかなり読みづらい上に、話も訳わからない件について(これ、「夏」関係してるのかな……?)。そして、小説もグダグダならば後書きもグダグダっていう。すみません。これからは、読んでいて苦痛にならない小説を目指していきたいです。
それでは風猫さん、そして最後まで読んでくださった方、本当にありがとうございました!