『二つと一人』
気づけば彼女の心は僕に向いていなかった。
背中合わせに寝る、彼女と僕。
「お風呂に入る」
彼女が独り言のようにベッドから下り、その足を脱衣所に向けた。
僕は起き上がり、スタンドのわきに置いてあった煙草を吹かし、ため息をつく。
余りにも冷めた関係に、これ以上は長続きしないだろう、そう思った。
きっかけは、なんだっただろう。
思い出せない。
でも、彼女は僕の何かに絶望し、その心を離していく。
多分…関係の小競り合いは僕の所為だ。それだけは確実に確信が持てた。
理由やきっかけは思い出せないけれど、彼女は僕に見向きもしないのだから。
+α
彼女が出かけると言うので、僕は意味も無く付いて行こうと思った。
先を行く小さな背中を無言で見つめる。
付き合いだした頃は、並んで歩いていたな。その手も、僕は強く握っていた。
でも今はどうだろう。
彼女は手を繋がないのかとも訊いて来ないし、それが当たり前だという空気を醸し出している。
何処に行くのかと訊きたくなる、オシャレな格好。
久しぶりに見るめかし込んだ格好に、僕は胸の中に黒い何かを投下されたようだった。
「…何処に行く気なの、芽衣」
名前を呼んでみても、彼女は振り向こうともしない。
耳にはイヤフォンがあるのだから聞こえないのも当たり前か。
そうやって何度も絶望する。
解り切ってはいるものの、声を掛けずにはいられないのは、もしかしたら振り向いてくれるんじゃないかと期待しているからだろう。
心さえも遠ざかっているのに。
付いた先は何処かのファミレスだった。
…嘘。
此処は初めてデート先に選んだ、思い入れのあるファミレスだ。
彼女は何がしたいのだろう。
初心に戻りたいのだろうか。
僕と同じ気持ちなのだろうか、あの頃に戻りたい。
「カプチーノを、二つ」
彼女は席に座るなり店員にそう頼んだ。
カプチーノ。僕が恥ずかしながらも気に入られたいがために頼んだやつだ。
憶えててくれたのか…感傷に浸るも心は冷めていくばかりだ。
あの頃に戻りたいというのなら、何故君の心はこんなにも遠い。
僕が目の前に座っているのに、君はどうして僕を見ない。そんな淋しそうな瞳をする?
カプチーノを一口飲んだ彼女は、それを両手に持ち、机上に置いた。
「思い出すな…2人で飲んだ日を。あの時、私たちバカ丸出しで笑ってたよね」
コップの中を見つめながら、僕に語りかける。言われて、僕もその情景を思い浮かべていた。
…初めてのデートは、甘酸っぱい時間だった。ずっと居たいのに時間は限られていて、だから初めてのキスもその日にあげた。
「芽衣はさ…僕とどうなりたいの? やっぱり…別れたい?」
苦しくなってそう問いかける。
答えは覚悟の上。でも聞いたら絶対泣くだろうという可能性も捨てきれない。
僕は小心だから。それなのに、君を守るヒ―ロだと気取っていた。
彼女はほほ笑む。
「私はね、彼方と過ごした日々は一生の宝物だと思ってるの。だから…本当に、悲しい」
…そんなに婉曲に言わなくても。余計に苦しくなるじゃないか。別れたいなら、そう言えば良いのに。
「そっか。僕も君と過ごした日は忘れないよ。一生の宝物だ。…ありがとう」
言った途端、彼女が勢いよく顔をあげた。
その瞳は涙に濡れていて、僕の事を信じられないものでも見るように見開いていた。
少し面食らう。
変な事を云ったつもりはないのだけれど、彼女にとっては心外だったらしい。
頭を掻いた。
そんなとき。
「ごめん、遅れた」
絶望の時が来たのだろう。死神が余命を言うのなら、多分今だ。
僕の後ろから知らない声が近づいてくる。
彼女はそいつを視認すると、涙を拭いて立ち上がった。
「ううん。大丈夫だよ。それより何処行っか。まだ時間あるし」
そう言って僕の横をすり抜ける。
とても簡単な完結だった。
此処に来たのは初心に戻りたかったわけじゃなく、あまつさえ、感傷に浸りたかったわけでもない。
ただ、新しい彼氏との待ち合わせだったのだ。
遠ざかる二つの足音。軽い鐘が鳴り、店員の謝辞が飛ぶ。
僕は、目の前に置かれているカプチーノを見遣り、諦観に捕らわれた。
彼女にとって、僕と言う存在はどういうものだったのだろう。
何も答えが出ないのに、その疑問ばかりが頭を占め尽くす。
カプチーノを飲んでから店を出よう。
そう思ってカップの取っ手に触れようとした。
「…あれ?」
不思議な事。
何故か、どういうわけか、僕の右手は取っ手をすり抜けた。
目を見開く。
歯車が音を立てて僕に襲いかかった。
サイレン。赤く点滅する器械。夜の情景。
あれは…救急車だ。そしてこの記憶は、僕に真実を語ってくれた。
あの日、直ぐに帰ろうと思った。
彼女の誕生日だから。バイト代も溜まって、プレゼントを買ってたら遅くなって…。
突然のクラクション、僕の視界はライトで埋まった。
交差点で、赤信号になりかけてたから急いで渡ろうとした。
その矢先だ。
多分僕は、交通事故に遭ったのだろう。ライトの高さから、あれはトラックだ。
…なんて在り来りな事故…。
僕は不注意で人生を無碍にした。
僕は死んだのだろう。彼女を置き去りにして。
二つのカプチーノが目に入り、僕は安堵を感じた。
彼女は僕を遠ざけた訳じゃない。僕の死から決別したのだ。こういう形で。
だから、僕はこんなにも安心しているのだろう。僕の死が、彼女の重荷になっていないことに。
僕はこんなにも彼女が好きだから。僕の所為で彼女の未来を固定づけさせたくない。
これは、僕の夢だ。
まだ未練たらしい僕が、見た夢だ。
そしてこれからは見る事も無いだろう。
彼女が未来を歩きだしたのだから。