【夢のモーニングコール】>>264-269
昔、どこかで見たことがあった。
それはどこで見たかは覚えていない。しかし、頭の中で確かに覚えていた。
ただ、思い出せないだけ。ただそれだけのことで、記憶というものは記憶と呼べない。心の奥底、記憶の中に眠る大切な人は――
いないことになっている。
――――――――――
小さい頃から記憶にあるのは、子供の頃はよく外で遊んだということだった。
ブランコが特に好きで、いつも一人だけでも漕いでいた。友達と漕ぐのが本当は楽しいんだけど、ブランコ自体が楽しいから一人でも漕げた。
特に友達がいなかった、というわけでもない。どちらかといえば、友達は多かった方だろう。人気者、と言われるのかといえばそうだとは言い切れない。
ブランコを漕いでいる時、何だか空を飛んでいるような気分になる。それがどことなく気持ちがよかった。
その気持ちよさが心の中を洗い流し、何も考えずに高く、高くと何も無い虚空へと目掛けて足を折ったり伸ばしたりを繰り返すのだ。
不思議に感じた。こうして力を出して踏ん張れば、空にこんなにも近づけるんだ、という気がした。
ただ、実際は空の中でも少しの虚空でしか行けずに、必死で空へと上がろうとしてもがく、飛べない鳥のようだと今なら思えた。
「はぁ」
ため息が混じる。そんな昔のことを思い出したところで、どうにもならない。
あの頃はよかったなァ。あの頃は楽しかったなァ。思い返せば返すほど、カフェに漂う甘い香りの混じったこの虚空は変わらなかった。
「お待たせしました」
気付くと、定員さんが僕の隣にいて、アイスコーヒーを乗せた黒い御盆を持っていた。
僕が気付いたのとほとんど同時に、定員さんはアイスコーヒーを僕の目の前に乗せた。その時、ふわりと漂う綺麗な香りで女性の人だと思った。
「ごゆっくりどうぞ」
まるでそう言え、と決められたかのような口調で営業スマイルに顔を変化させ、言った。勿論、お辞儀も忘れずに。
僕はその定員が去っていく様子を見ていた。背中姿がまっすぐに伸びていて、礼儀正しいと誰が見ても思える。そんな風に思っていた――その時、目の前にそれを遮った。
何だと思い、見てみると、それは白いワンピースのお腹の部分辺りだった。ボタンが見える、そして上へと顔をあげていくと、見事な凹凸が見え、そして――
「来て、くれたんですね……あの、待ち……ましたか?」
「……いや、特に」
僕は素っ気無く答えたつもりだったが、目の前にいた少女は笑顔で「よかった」と笑顔で返してきた。
この少女は、特に知り合いでもなかった。いや、知り合いではないと僕の中では認識していた。勿論、これからもそうだと思っている。"今の時点"では。
目の前の椅子に座ると、ふわりといい香りがした。少女は見たところ、普通の女の子よりも可愛く、清楚な感じがした。魅力的だ、というのは嘘ではなくなる。スタイルもそうだし、この少女はどこかモデルかアイドルかをしているんじゃないかとも思えるほどだった。
「いらっしゃいませ」
すると、僕が気付かない内に先ほどの女性定員がやってきていた。さすがに慣れているのだろうか。笑顔はピタリとも崩さない。純粋に凄いな、と僕は思った。
少女はチラリと僕の目の前においてあるアイスコーヒーを見ると、少し緊張した感じでアイスコーヒーを注文した。
手を重ねて、少し遠慮気味にしている。長い黒髪が艶やかに光り、とても綺麗に思えた。
こじんまりとしたカフェではあったが、無論僕達の他にも客はいる。その客達が目の前にいる少女に視線を投げかけたりしている為からだろうか。
「あの……」
少女が突然呟いた。それは僕に向けて言ったものだろうが、視線は下に向いていてよく表情は分からない。どうせ、気まずいような表情をしているのだろう、と主観的に察したつもりでいることにした。
「何?」
「えっと……覚えてません……よね?」
今度は顔を上げて言った。その表情は、僕が予想していた気まずいような表情ではなく、とても強気な眼というか、決意を示したような眼だった。
「……あぁ、覚えてないな」
「……そう、ですか」
しかし、僕の言葉でその表情も冷めさせることとなった。
仕方が無いだろう。本当に覚えていなかった。脳内のどこかに少女の記憶があったとしても、それを思い出さなければ記憶にはなりえない。そして今の僕の状態を簡単に言い換えると――
忘れてしまっているのだ。
「あの……」
「何?」
再び、少女が呟いたことに対して今度は早くに返事を返すことが出来た。少女は、両手を握り締めるかのように肩を強張らせた。そして、言い放った。
「私、優衣(ゆい)って言いますっ。あの……よろしくお願いします、何て、何かおかしいですよね……」
「……おかしいかもしれないけど……僕は上林 湊(かんばやし みなと)。よろしく」
「あ、ありがとうございます……」
僕が言ったことに対して、優衣は頭を下げる。何だ、この違和感のあるやり取りは。僕は知らないのに、向こうは僕のことを知っている。この状況のおかしさがどうにも僕には違和感にしかならない。
「お待たせいたしました」
と、ここで定員がアイスコーヒーを持って来た。僕のアイスコーヒーよりも少し早くに持って来たような気がした。
優衣の目の前へとアイスコーヒーを置いた。そしていつものように「ごゆっくり」と言い残して店の奥へと去っていく。
どうにもこうにも、何故僕が知らない相手とこうしているのか。
それはとある非通知の電話からだった。
非通知はいつもとらない主義だった。しかし、携帯にかかってくる非通知は初めてのことで、特にこれといって違和感もなく、僕はとってしまった。
かけてきたのは向こうからで、こちらからもしもし、と言いたくない気分だったので、少しの間、無言で黙っていた。
そうしていると、ゆっくりとした口調で声が聞こえてきた。
「もしもし……?」
それが優衣の声だったのだ。
何故僕の番号を知っているのか。そんな質問を投げかけていたと思う。
すると、優衣はこう言ったのだ。
「私は、貴方を知っています。上林 湊さん……ですよね?」
怖気がした。どうして僕のことを知っているのか。ストーカーなのだろうか、もしかすると。
問い詰める気もなく、僕はだんだんと恐くなってきて、通話を切ろうとしたその時――
「貴方は、私のことを覚えていませんか? 私は、覚えています。湊さん、昔に私と一緒に遊んでいました。そして、私は――」
「いい加減にしてくれ。君はストーカーか何かか?」
言い放った言葉はこうだった。僕は少々気を強く言ったつもりであったが、どういうわけか、少しの間黙りこんで、それから口を開いた。
「そう思うのは……当たり前、だと思います。でも、私はストーカーじゃありません。私は、その……貴方の過去を知っているんです」
「過去を知っている?」
「はい。貴方は、気づいていないのかもしれないけど……記憶がなくなっているんです」
「どういうことだ? そんなことはない。昔のことだって思い出せる。ブランコが好きで、ずっと乗っていた」
「……そうです。断片的な部分は、思い出せるはずです。けど、思い出せない部分もあるんです。それは、脳が勝手に忘れていることにしているからです。……けど、私は貴方に知って欲しいことがあるんです」
「……それは、何だ?」
「会ってお話します。……昼の1時過ぎ、○○のカフェで待ち合わせをしましょう。……時間がありませんので」
「時間がない……? どういう意味だ?」
しかし、俺の質問を遮って通話は切れてしまった。
謎の非通知の電話。携帯で初めてかかってきた非通知の電話は、思いもよらないものだった。
そういえば、そうだった。
僕は事故にあっていたらしかった。気付いた時には真っ白な部屋の中で、そこが病院だと気付く頃には何か色々なことを思い出せそうで思い出せない感じがした。
記憶喪失だ、とは思わなかった。だから医者から状態を聞かれた時にも普通に答えられたし、本当に何にもなかった。
ただ、思い出せないような感覚がそこに少々あるだけで、身の上のこととか、自分の名前とか、思い出せる。親とか、僕に兄弟がいたこととかは医者からも言われなかったからいるのかいないのかよく分からなかった。
だけど、自分の家は分かっていた。アパートだ。大学生なのだろう。大学はここだ。自分は何が好きな食べ物だった。ハンバーグだ。
そんなことを思い返すことは普通に出来る。何だか不思議な感じだな、とも思わなかった。それが普通。それが普通の生活。これが、僕なんだ。
―――――――――
少しの沈黙の後、初めて僕の方から口を開いた。
「それで……僕の記憶って?」
そう言った僕は、アイスコーヒーにミルクを入れた。次にシロップを。どちらかと言えば甘党な僕は、シロップを大目に入れた。
カラカラ、とアイスコーヒーに入ってある氷が鳴った。それを境にして、優衣は口を開いた。
「……あの、すぐに思い出せるっていうわけじゃないと思うんです。そして、私は明日にはもう帰らないと行けない、というか……その……」
なんだかハッキリしない物言いに、僕は少し片方の眉を上げて、
「ハッキリ言ってくれよ」
と言った。
その言葉に後押しされるかのように、優衣は言いずらそうな口を解いた。
「あの……今日一日、私と……私と――デートしてもらえませんか?」
「……は?」
騒々しい雑踏の中、僕と優衣はとある場所に来ていた。
そこには様々な乗り物があり、家族連れやカップル連れ等でごちゃごちゃに騒々しい。
「見てください! 湊さん!」
「え? あ、あぁ……」
詰まる所、僕と優衣は遊園地に来ていた。優衣本人たっての希望だったからだ。僕がわざわざこんなところに行こうなんていうはずがない。
優衣は無邪気な子供のようにはしゃいだ様子で乗り物を指差していた。僕はその様子をただ頷くぐらいだというのに、優衣はその笑顔を失くしはしなかった。
「あれに乗りましょう!」
「あれって……メリーゴーランド?」
「……っていう、名前なんですか?」
「え、知らないの?」
優衣が遊園地と提案した時も、なんだかあまり言い慣れた様子ではなかった為、まさかとは思ったが……
「すみません……これが、初めてなんです。その……遊園地に来たのが」
元気な笑顔はその時ばかりは失くし、しょんぼりとした表情を見せた。何故か、ずっと笑顔なせいか、優衣が笑顔でない表情をしたら何か嫌な感じがした。
「全然悪いことじゃないよ。ただ、珍しいなって思ったから」
僕がそう言うと、優衣は少し呆けたような顔をした。こんな表情は今日初めてのことだったが、すぐに返事をして笑った。けれど、それはどことなく作り笑いのような気がしてならなかった。
何故遊園地に来たことになってしまっているのか。一日デートをしてくれ、と言われた僕は勿論戸惑った。一体どうして僕がデートをしないといけないのか。それに今日が初対面だというのに、何故そんなことをしなくちゃいけないんだ。
カップルとか以前に、まだほとんどお互いのことを――まあ、向こうは僕のことを知っているみたいだけど、僕は知らない。言えば、今知り合ったばかりでデートを強行されてることになる。さすがにそれは強引だろう、とは思ったが、僕自身も考えることがあった。
それは勿論、自分の記憶のことだった。
忘れているだけ、といっても、それが重要なのかそうでないのかがわからない以上はどうすることも出来ない。大切な人を忘れているかもしれないし、そうでないかもしれない。単なる気のせいで終わる可能性だってある。
しかし、この少女は、優衣は少なくとも僕のことを知っていた。そこまで詳しく、というわけではなく、単にストーカーとかである可能性も十分ある。
しかし、だ。ストーカーならば、記憶云々の事情は知らないだろう。僕だって曖昧な事実で、記憶が失ってるなんてことは思い出せるはずもない。
ただ、ただしかし。
僕の中で、何か"濁り"があった。
前々から出てきていたこと。それは、夢だった。
虚ろに見える何かが夢で実在している。それがもし僕の中に眠る記憶だというのならば、なんだろうか。思い出さないといけない気がした。
誰も僕にコンタクトをとって来なかった中、優衣だけがコンタクトをとってきた。僕の過去を知っていると。それがいくら僕が覚えていなくとも、彼女は覚えているのだ。それは事実として、今ここにある。
「でも、だからどうしてデートなんだ?」
それをカフェ尋ねると、簡単に返された。
「デートをしていただければ、思い出せるかもしれないからです」
「……君と?」
「はい」
「……僕が?」
「そうです」
こうして、僕と優衣の奇妙な一日デートが始まったのである。
――――――――――
「まもなく、発車いたします」
アナウンスが聞こえる。ピロピロピロと、音が鳴り響いた。
僕と優衣はジェットコースターに乗っていた。この遊園地で一番の人気のものだそうだ。僕自身もこの遊園地に行ったことは初めてだと記憶しているので、あまりよく分からないが。
「なんだか、緊張しますね……」
優衣が隣でそう呟いた。その表情は、確かに緊張しているような顔だった。
(顔によく出るな……感情が)
僕はそう思い、クスッと笑い声を出してしまった。
「湊さん? どうしたんですか?」
「いや、何でもないよ」
「そ、そうですか……」
「ふふっ」
「え?」
「いや、何でも」
こんな会話を続けていたら、ジェットコースターが動き始めた。ゆっくりと、ゆっくりと、上へ上へと上がって行く。
この無重力の中に浮いているような、上に上る感覚……どこかで覚えていた。そう、ブランコだ。僕は、幼少の頃ブランコに乗っていたんだ。
ジェットコースターは止まらず、ゆっくりと上へと上がって行く。目の前の線路が見えなくなるまで、ゆっくりと。
虚空の中に、無数の景色が見えた。どれも綺麗に見えて、不思議に思えた。僕はこの虚空の中にいるんだ、と。
幼少の頃の思い出。それはブランコに乗っていただけじゃなかった。
確かに友達でも何でも困らなかったはずだが――そう、"あの子"。僕は、誰かを忘れているような気がする。
「――思い出せましたか?」
その時、ジェットコースターは勢い良く下降した。僕が、優衣の呟いた言葉に眼と耳を向かせようとした、その最中のことだった。
その後も、たくさんの乗り物に乗った。僕は気兼ねなく、何故か子供の頃に戻ったような気分で優衣と遊んだ。
幼少の頃、僕はこうして遊んでいたのだろうか。誰と? いや、思い出せない。どうして? 分からない。
僕はこんな不透明で不確実な過去を持ったまま生きていたのだろうか?
今の今まで、僕はそのこと自体を大切だと思わなかったのだろうか?
どうして――僕は忘れてしまっているのだろうか?
「楽しかったですね」
「え?」
「遊園地」
気付くと、既に日が暮れていた。周りを見渡すと、既に来客数も少なくなっていた。僕は優衣の方へと振り向くと、笑っていた。
「どうして、そんなに……」
「え?」
「どうしてそんなに、笑顔なんだ」
僕は気付くと、そんなことを聞いていた。
どうしてこんなことを聞いたのか。何か、勝手に口が喋ったような、そんな感覚だった。
「……貴方が、教えてくれたんですよ?」
「俺が……?」
「そうです。貴方が、言ってくれたんです」
優衣は、笑顔じゃなかった。表情は笑顔だったけど、全然それは笑顔じゃなかった。
「何で、お前……泣いてるんだよ」
優衣は笑顔で泣いていた。涙が、眼から止まることもなく流れていく。そんな優衣に、僕は呆然としてしまっていた。
「あ……あれ? 泣いちゃ、いけないのにな……"湊おにいちゃん"との、約束なのにな……」
「え……?」
優衣は、そういうと、涙を拭った。そして、涙の痕の残る笑顔で、
「何でもないよ、"湊さん"」
と、言った。
最後に観覧車に乗ろう、ということになった。素直にそれに応じて、僕と優衣は観覧車に乗った。
狭い個室の中で、虚空に浮いているような感覚がする。二人だけの空間、と呼んでもおかしくはなかった。
優衣は既に涙の痕も分からないほどに、いつも通り……といっても、僕は今日で初めてだと認識してしまっているから、先ほどまで通りというのが正しいのだけど、どういうわけだか、僕は優衣のことを昔からよく知っているような感覚があった。
「……湊さん」
突然、優衣が話しかけてきた。その表情は、満面の笑みではなく、どこか優しくて、儚げな笑みだった。
優衣の方へと振り向くと、それを返事と捉えたようで、優衣は口を開いた。
日は既に落ちきっており、遊園地は夜となった。平日だからだろう。既に客数もまばらだった。都市の中に煌くビルの光やらの夜景が綺麗に思えた。
「今日、楽しかったです」
「あぁ……俺も、楽しかったよ」
「本当、ですか?」
「本当だよ」
「……よかった」
ほっとしたように、安堵のため息を小さく吐いた。
その様子を僕が眺めていると、優衣は再び顔を僕へと向けて、言った。
「私には、時間がないと言いましたよね?」
「そういえば……言っていた気がするな」
「あれは本当です」
「……どうして?」
「それは……私の口からは言えないんです」
「……どうして?」
「……すみません」
優衣は申し訳なさそうに頭を下げた。その様子からして、どうしてもいえない事情があるようだった。
どういうわけだか、疲れとかそんなものは関係無く、この観覧車に乗っている時間がとても長く感じた。まるで、時が止まっているかのように。
いつまでもこの時間が続けばいい。そう思った。僕は、どういうわけだか、この観覧車に乗っている時間が過ぎれば、もう優衣に会えないような、そんな気がしたからだった。
今日初めて会って、デートをしただけだというのに、どうしてか、懐かしさがこみ上げてくるのだ。分からない。僕はこんな時にも忘れている。こんなにも大切な人を、忘れている。
「――湊さん」
気付けば、僕と優衣だけの世界だった。優衣が僕に話しかけた時、僕はゆっくりと、鮮明に思い出した。
―――――――――
あれは、幼少の頃。
僕は、一人で遊んでいた。友達はいたが、一緒に遊んでもあまり楽しいと感じれなかった。今を思えば、凄くませているガキなのだろう。僕はそんな性格で、ブランコが大好きだったゆえに、ブランコをずっと乗っていた。
そんなある日、僕の目の前に一人の子が現れた。
「お兄ちゃん」
その子は、僕のことをそういった。僕はその子とを知らなかった。初めてお兄ちゃん、と呼ばれたこともあって、何か異様に思えた。
兄弟がいることなんて知らない。ましてや、知ろうなんてことも思わなかったからだ。
でも、よく白衣を着たおじさんから言われていたんだった。
「君は、記憶がだんだんと薄れていく。まるで夢のような記憶を持っている」と。
消えていく記憶。それなのにどうして覚えようとしているのか。
大切な人を忘れてしまう。覚えていても、いずれはまた忘れてしまう。近くにいなければ、僕は忘れてしまうのだ。
そういう体質的な、病気ようなものを抱えていた僕は、この頃もその症状が出ていたのかもしれない。
けれど、それでも、僕はこの子のことを忘れたくないと思った。
「――優衣」
僕のただ一人の妹だった。ただ一人の、かけがえないのない、家族だったから。
「――思い出しました?」
いつの間にか、僕の眼からは涙が零れ落ちていた。何でこんなことを忘れていたのだろうって、僕はどういうわけか思っていた。
あぁ、僕は事故をしたのは幼少の頃の思い出。あの事故で頭を打ったせいで、僕は記憶が夢のように熔けていくようになってしまったんだった。
あぁ、そうか。優衣という妹がいたんだ。僕に、会いに来てくれた。思い出そうとしても、優衣という妹がいたということしか思い出せない。記憶はない。どこにもない。既に熔けてしまったから。
「優衣……」
僕は呟いた。
その呟いた言葉を、優衣は何も言わずに聞いていた。そして、ゆっくりとこの個室の中で、優衣は言った。
「湊おにいちゃん。ごめんね」
「……何が?」
「私の勝手で、こんなこと……」
「でも、僕は思い出せた。優衣のことを思い出せたんだ」
「……そう、だね。私は、それで十分。こうしてここにいるのは、ここが夢の世界だから」
「夢の世界?」
「そう、夢の世界。お兄ちゃんと会えるのは、夢の中でしか出来ない。お兄ちゃんは、夢のように記憶がなくなっちゃうから、私も同じように夢になるだけ。この夢の中での、私は忘れて欲しいの。……でもね?」
「でも?」
僕は優衣の眼を見つめて言った。
ゆっくりと、優衣は笑顔を作り、涙を一筋流しながら、確かに言った。
「またこうして、お兄ちゃんと一緒に話したかったんだ……っ」
だんだんと、優衣の姿が薄れていく。目の前が真っ白に変化していく。薄っすらと、何かが芽生えてくる予感がした。
そこで思い出した鮮明な記憶。目の前で轢かれた、小さな体。優衣の顔。泣いてはない、穏やかな顔で――
「湊、お兄ちゃん……」
血塗れの道路で、一人。
優衣は、小さな体で、小さな声で、僕を呼んでいた。
――眼が醒めた。
随分、長い夢を見ていた気がする。僕は、どういうわけだか、少し寝ていたらしい。
どうやら、ここは病院らしい。
「気がつきましたか?」
誰かがそう言った気がした。けれど、僕の頭の中には入ってこなかった。
僕は、夢のような記憶を夢で思い返していた。どういうわけだか分からないけど、僕はその中で優衣を思い出していた。
どうしていたんだっけ? 夢では、僕は遊園地で優衣といた。けれど、優衣は――立てないはずだった。あんなに元気なはずがなかった。事故にあった優衣は、寝たきりの状態だったから。
時刻は分からない。けれど、窓から覗いた青空はとても澄んでいた。綺麗な空だった。優衣は空が好きだった。そして僕はブランコが好きで、優衣の好きな空を僕は見上げていた。
優衣が事故をした後に、僕も事故をした。優衣の事故がきっかけというわけではなかったけど、優衣がいた病院から帰る最中に僕は事故をした。
どちらも交通事故で、不慮の事故としか言い様がない。僕は記憶が夢のように無くなるだけで、優衣は植物状態だった。
――これが、僕の忘れていた記憶。都合のいい、なんて都合の良くできているんだ。
いや、忘れていたと認識されていただけなのかもしれない。優衣はもう戻らないと、誰が決めたんだろう。
記憶は確かにここにある。そして、優衣は今も生き続けている。
気付けば、目の前に優衣の姿があった。人工呼吸器で何とか息を吐いて、吸っている妹の姿。
不思議と、声が漏れた。
「優衣」
ゆっくりと、僕の口からは声が漏れていく。
「優衣……優衣……!」
どうしてあんな夢を見たんだろう。まるで、お別れの挨拶みたいな夢を。僕は何も答えない優衣の体を揺さぶる。
「あの、落ち着いてください」
その時、どこからか声が聞こえてきたのに気付いた。よく見ると、目の前には白衣を着た医者らしき人物がいた。
「大丈夫です、お兄さん。優衣さんは――」
医者がそんなことを口に出した、その時だった。
「お兄ちゃん?」
優衣の声が聞こえた。
僕が、優衣の顔を見つめると――そこには、あの夢のように、笑顔の優衣がそこにいた。
「奇跡的です。普通なら有り得ない……優衣さんが意識を戻ったのは、湊君の看病のおかげかもしれませんね」
「僕の……?」
そう、毎日のように僕は看病していた。
優衣の意識が目覚めるように、と。ただ、だんだんと薄れていく記憶が恐かった。優衣のことを忘れていく自分が、とても怖かったんだ。
ゆっくりと、僕はおそるおそる声をかける。
「優衣……?」
「お兄ちゃん……夢で、会ったよね?」
「あぁ……あぁ、会ったよ」
「やっぱり……お兄ちゃん、来てくれたんだね……」
僕は安堵した。あの夢は、やはり繋がっていたのか。優衣は、ここにいて、僕もここにいる。
僕の様子を見た優衣は、ゆっくりと微笑えむと、眼を閉じた。
「おいっ、優衣?」
「あぁ、大丈夫だよ。少しだけ、寝るだけだから……そしたら、お兄ちゃん、起こしてね?」
「何時だよ?」
僕が言うと、優衣は小さく微笑んだ。
「夢の中じゃなかったら何時でも」
夢の世界は終わりを告げる。
その時、貴方はそこにいるのでしょうか。
きっと、貴方はそこにいてくれるはずだと、心のどこかで信じていた。
おはよう、の一言だけでどれだけ救われるのか、貴方に分かるでしょうか。
夢は終わりを告げ、少年達の人生、夢は
ここから始まってゆくのだから。
~END~
【あとがき(というか、説明)】
意味が分からない部分が多すぎ乙ってことで、すみませんでした;
このたび、再び書かせていただきありがとうございました!
とても楽しかったです。前々から書くとか言ってて、全然参加しなかった犬野郎なんですが、このたびは書かせていただきました;
なのにこの始末です。すみません、本当に……。
よく分からない部分が多すぎるので、説明等含めたネタバレを↓文章に書いておきます。
(※ネタバレです)
主人公の湊は事故によって記憶喪失。
優衣は事故によって意識不明。
この物語は主人公の湊が成長していることになっています。事故は幼少時代に起きたので、時間の経過が予測されます。
それから湊君は看病を続けてきたのですが、だんだんと優衣という人物のことは分かるのですが、その思い出がなくなってしまってきている。いえば、優衣という人物との記憶は夢だと思い込んでいるということと同じようなものになっちゃってます。
優衣は寝たきりのどうしようもない状態な為、夢でしか思い出せない湊の断片的な記憶を自分とのデートに変えてしまっているわけです。
遊園地に初めて来たというのは、優衣は幼少時代から寝たきりなので、行ったことがなかった為です。
湊は現在一応設定的に大人なわけですが、それまでの人生を歩んできたということです。しかし、それから優衣との記憶は一切で、最初の冒頭の始まり、カフェでの出来事は既に夢の中のことということになっています。
事故のせいで記憶が夢のようにうやむやになってしまう主人公はその断片的な記憶を集めたに過ぎない一日デートの夢を得て優衣のことを思い出します。
最後の台詞である「夢の中じゃなかったら何時でも」というのは、夢の中で湊は記憶を取り戻したわけですが、逆に優衣の方も意識を取り戻したわけです。
今度は夢の中のモーニングコールではなく、現実でのモーニングコールを、ということで、まあいえば、優衣ちゃん助かりました的ENDです。
……説明がいる時点で、駄作です。すみません;
ありがとうございました!