「夢路は遠くにありて」
例えばこんな話がある。
実はあなたは、身体と切り離されて脳だけは特殊な液の入った水槽に入れられているのかもしれない。又、それは脳波が操作できる高性能な機械につながれていて、つまり今あなたが体験しているこの世界は、水槽の中の脳が見ているバーチャルリアリティに過ぎないのだ。
最初にこの話を聞いたとき、私は思った。そんな馬鹿げた話があるか、と。しかし今よくよく考えてみると、もしかしてそうなのかもしれないと思う。というか、そうだったらいいな、とさえ思う。だって、自分自身でそうでないと証明することはできないし、そして何より私は、この退屈な日々に何とかして風穴を開けたいと強く望んでいるのである。
私は平凡だ。家族は父と母と姉と私の四人で、小さなマンションの一室に住んでいる。生活は貧乏な方かもしれないが、かといって今日の夕飯のおかずに困るほどの物凄い貧乏ではない。普通に、というか質素に暮らしている。人並みに友人もいる。付き合っているわけではないけれど、いいなと思う男の人だっている。
私の一日は、淡々と過ぎていく。大きな事件が起こるとか、そんなことはまずない。私たちは時計に縛られているというけれど、本当は自分自身が時計そのものではないかと思うときがある。毎日毎日、ただひたすら同じような動作を繰り返し続けて。電池が尽きるまで、ずっとずっとずっと。
ただ私は、このまま電池が尽きることが怖いのだ。だから、何とかして今のつまらない日常から抜け出したい。なのに、抜け出す方法が分からない。
「葛城ってさ、なんかいつも平和そうだよね」
ほとんど人のいない昼休みの図書室で調べものをしていた私に、深山(みやま)さんは言った。
彼は、私が所属している美術部の部長さんである。学年はひとつ上で本来なら深山先輩と呼ぶべきなのだけれど、本人が何故か先輩と呼ばれるのを嫌うため、このような呼び方になっている。
「心外な。こう見えても、色々抱えてるんですよ」
「ふうん」
私が思うに、深山さんは変な人だ。
例えば廊下ですれ違うとき、部室の前を通るとき、自転車置き場で遠目に見かけたとき、彼はいつだって複数の友人たちとの会話の中心にいる。不特定の女の子たちと話しているのも、何度か見た。なのに、昼休みの大部分をあまり人気のない図書室で、しかも基本的に一人で過ごす。まるで逃げるみたいにして。
何の気無しに、目についた本を手にとってパラパラとめくってみる。かなり細かい字で埋め尽くされていて、読む気が失せた。本を元の場所に戻し、深山さん。と声を掛ける。
「聞きたいですか? 私の悩み」
口に出してから、自分でも妙な言い方をしたな、と思う。
「いや、遠慮しとく」
「あの、今物凄く誰かに話したい気分なんですよ」
彼は苦笑した。
「じゃあどうぞ」
図書室は、今日も静かだった。時々、ページをめくる音やささやかな話し声が聞こえるくらいで。しかし、騒がしいともいえる無数の笑い声や話し声が絶えず部屋の外から聞こえてくる。学校内で、ここだけが取り残されているような感覚に襲われた。
私は顔を上げ、口を開く。
「今の日常を、終わりにしたいんです」
一瞬、全ての話し声がやんだ、ような気がした。
「…………そうなんだ」
深山さんは声の調子を変えずに言う。私は普段思っていることを全て、一気に吐き出した。話しているうちに心が軽くなっていくとか、どうでもいいことに思えてくるとか、そんなことはなかったけど。
言いたいことを全て吐き出すと、私は深く息を吸った。
「すみません。なんか、長々と」
「俺が思うに、」
それまで腕を組んで静かに私の語りを聞いていた深山さんが、口を開いた。
「はい」
「非日常的な出来事って、意外と近くで起こってたりするんじゃないかな」
意外と近くで、と深山さんの言葉を心の中で繰り返してみる。
「そんなもんですかねえ」
「そんなもんだよ」
そう言って深山さんは優しく笑う。
やっぱりこの人は変わっている。
平凡な日常が嫌でたまらない。そんな、いかにも自己中心的な悩みを聞いて真面目に返答してくれるのは、私の知り合いの中では少なくとも深山さんくらいだと思う。普通ならば、笑い飛ばされるか、何甘ったれたことを言っているの、と叱責を受けるかのどちらかだろう。
「ていうか、たまには部活に出たら?」
思い出したように、深山さんが言う。二年の始めごろからすっかりサボり癖がついてしまった私は、もはや幽霊部員状態だった。
「今日はちゃんと出ますよ。先輩」
じゃあ教室に戻るんで、と付け足して、私は図書室を出た。
午後からの授業を何とか眠気をこらえてやり過ごし、家路についた。結局、部活はサボった。
リビングの時計は四時三十分ちょうどを指している。父も母も姉も家にはいなかった。
激しい睡魔に襲われたので、私は鞄をそこら辺に放り投げてソファの上で横になった。ずいぶんと頭が重く感じる。ついでに瞼も重い。昨日、夜遅くまで起きていたせいだ。よし、今日は塾がないから好きなだけ昼寝できる。
ほとんど無意識に目を閉じ、間もなく私は眠りに落ちていった。
────変な感覚だった。懸命に足を前へ前へと出して走っているつもりなのに、なかなか前に進まない。いくら運動音痴といえども、もう少し早く走れたはずなのだが、これでは歩くスピードと何ら変わらないではないか。
私は辺り一面緑一色の森の中で、何故か巨大なクワガタムシに追われていた。幅十メートルはあろうそいつは、青々とした木々を次々になぎ倒しながらギザギザの足を互い違いに動かし、ゆっくりと進んできた。黒々とした目は、確実に私を狙っていた。
私を捕まえて食べる気なのだろうか、こいつは。確か、クワガタムシは木の樹液が餌だったと思うのだが、巨大化して肉食にでもなったのだろうか。
そんな呑気なことをぼんやりと考えながら、なおも不自由な足で木々の間を縫って走り続けると、突然視界が開けた。
そこには一軒の家が建っていた。が、普通の家とは明らかに違っていた。というのも、この家はお菓子でできていたのである。
壁にはクッキーやらドーナツやらキャラメルやらが敷き詰められていて、ドアは一枚の大きな板チョコだった。そういえばさっきから甘い香りがする。私は「ヘンゼルとグレーテル」に出てくる、お菓子の家を思い浮かべた。
不意に板チョコのドアが開く。そして出てきたのはヘンゼルとグレーテル……ではなく、意地の悪い魔女でもなく、二人の老人だった。二人とも頭は白髪で、動作は非常にゆっくりとしたものだった。
私が助けを求めると、彼らは家の中に入りなさい、とでも言いたげに手招きをした。二人に従って家の中に入ると、外形とは裏腹に広々としたマンションの一室、といったような感じだった。全体はベージュで統一されていて、部屋の中央には大きなL字型ソファが置かれている。お菓子の家というのは、外見だけのことだったのか。何か裏切られたような気分だ。
「ジョージが、すまなかったね」
二人のうち、背の高いほうが言う。ジョージとはあの巨大クワガタのことだろうか。
「はあ」
「あいつはワシらのペットのようなもんで……、けっこう、可愛らしい顔をしているでしょう? ……まあ少々乱暴者で、ワシら以外の人間を食べようとしたり、しばしば手に負えないときもありますが…………」
────ぷつん。
糸が切れるみたいに、そこで唐突に私の夢は終わりを告げた。
※軽くグロ表現入ります。
窓の外は薄暗くなり始めていた。六時十五分前。もう部活も終わるころか。まだ夕飯まで時間がある。二度寝しようかと思ったけれど、何となくそういう気にはなれなかった。
寝転んだ状態のまま、伸びをする。変な夢を見た、とまだ充分に回転していない頭で思う。
夢は、脳が記憶の整理をしているときに見るものだ。それ故、全く無関係だったはずの情報が思いがけず結びついて、カオスな世界となり、夢に現れる。例えばさっきみたいに、巨大クワガタムシに追いかけられる、なんていう、非日常的な出来事が頻繁に起こり得る。
だから、退屈な夢なんてない。少なくとも私にとっては。
のどが渇いていたので、飲み物を探しに台所へ向かった。冷蔵庫を物色すると、冷えたウーロン茶があった。私はそれをコップに注いで一気に飲む。
そういえば、こんな時間まで誰も帰ってこないなんて珍しい。いつも深夜に帰ってくるお父さんはまだしも、お母さんの仕事は五時で終わりのはずだし、お姉ちゃんだって大体このくらいの時間帯は家にいるのに。
もう一杯だけウーロン茶を飲み、ソファに座ってテレビをつける。ちょうどニュースの時間帯らしく、どの局も見覚えのある顔のアナウンサーが流暢に原稿を読んでいた。そうしてしばらくチャンネルを順番に変えていると、「速報 都内の猟奇殺人で、被害者の近所に住む男を指名手配」という大きなテロップが目についた。リモコンをテーブルの上に置き、少し見てみる。
無差別に果物ナイフで人の腕を切り落としたとして指名手配されているその男は、事情を聞こうとしていた警察官たちを振り切って逃げたらしい。画面の中のアナウンサーが何度も、どこに潜伏しているか分からないから気を付けるように、と呼びかける。気を付けると一口に言っても、どうやって気を付けるというのだ、と私は内心思った。
一方のテレビ画面には、指名手配犯の写真が映し出される。想像よりも若かった。肌が白く、丸顔で、目が大きい。まあ、何と言っても人の多い東京だし、多分すぐ捕まるだろうな。
私はテレビを消し、立ち上がる。明日までにやらなければいけない数学の課題があることを思い出した。
床に放り出されたままの鞄からノートとワークを引っ張り出して、机に向かう。
…………三問目で手が止まった。確か、この前の授業で解いたはずの問題なのだけれど、解き方が思い出せない。改めて問題文を読み返していると、ページの上のほうに「基本問題」と書いてあることに気付いた。畜生。私は基本問題にすら手も足も出ないのか。数学は得意な方だと思っていたんだけどなあ。
しばらく自己嫌悪していると、ドアが開く音がした。誰か帰ってきたみたいだ。
「おっかえりー」
私はシャーペンを机の上に置いて玄関に向かい、遅かったねと声を掛けようとした──────けれど、そこには私の家族ではない人が立っていた。
「え、」
その人は下を向いていた。Tシャツから覗いている腕には何かに引っかかれたような痕があり、つい大丈夫ですかと声を掛けてしまう。言ってから、後悔した。阿呆か私は。なんでそんなどうでもいいことを訊いたんだよ。見ず知らずの人が、家の中に上がりこんでいるっていうのに。
「大丈夫っすよ」
まるで普通の日常会話のようなトーンでその人は答え、顔を上げる────。
見たことのある顔だった。さっき、テレビで見た、指名手配犯だ。間違いない。目の下に隈が出来ているけれど、確かに同じ顔である。だとしたら、あの腕の傷は警察官を振り切るときにでも付いたのだろうか。というか、それ以前にどうして指名手配犯が私の家の玄関にいるのだ。まあ、戸締りをしていなかった私の責任でもあるのだろうけど。だって、まだ家族が帰ってきていないのに一々鍵を掛けていたら面倒とだ思うじゃないか、普通。
男が、上着のポケットから果物ナイフを出す。殺される、と思った。私も事件の被害者みたいに、腕を切り落とされちゃうのかな。うわあ、痛そう。
私の頭は冷静だった。多分、混乱という混乱を通り越してしまったんだろう。でもそれなのに、身体が思うように動かない。もし金縛りにあったとしたらこんな感覚なのだろうか。
男が、果物ナイフを持って近づいてくる。嗚呼、こんな目に遭うくらいならせめて部活に出ておけばよかった。冷静な頭で、私は今非日常的な世界にいるんだ、と思った。でも私が望んでいた非日常は、こんなものじゃなかったはず、なのに。
────早く、早く悪い夢から覚めますように。私はそう願って、目を閉じる。
(end)