【貴方と出会った海を。】
聞こえるのは、波の音と鳥の声。
蒼い地平線の向こうには、瞬く光。
そんな海を眺めながら呆然と座っていたのは、1人の女性だった。
茶色の髪が風に遊ばれている。そんな事にさえ気付かない。
女性は、震える体をぐっと抱きしめた。
『好きだよ…、愛夏』
途端に、彼の声が聞こえた。
でもそれは幻聴で、決して2度と聞こえる事のないものだった。
愛夏、それは彼女の名前で、“まなか”と読む。
茶髪の女性は、そんな名前を嫌っていた。
『ぁ…あたしは……別、に……』
嫌いだった。
素直じゃない自分。ちゃんと言えない自分。
そのせいで、最後まで彼の気持ちに応えられなかった。
好きだったのに。
好きで好きで…夜も眠れないくらい好きで。
意地っ張りな自分が嫌いだった。
“好き”の2文字も言えない自分が、世界で1番憎かった。
「バカ……あたしのバカ……」
愛夏は呟く。
バカ、バカ…バカ、と。
伝えたいのにもういない。彼はもう、何処を探してもいない。
世界中探し回ったって、彼の優しい笑顔はもう何処にもない。
彼は、この海に呑み込まれた。
蒼くて澄んだこの海の底へ…沈んだ。
海が彼を連れていった。自分への罰なんだと今更気付いた。
「海なんて…嫌いよ……っ」
彼と出会ったこの場所を嫌った。
愛夏はもう1度自分の体を抱き締める。
熱い砂の上にいたって、乾いた風を受けたって。
思い出すのは彼の笑顔だけ。思い出すのは彼と築いた思い出だけ。
自分のくだらないプライドのせいで、失ってしまったモノ。
彼が自分の名前を呼ぶ事はもうない。
そんな事、愛夏本人も分かっていた。
『愛夏って…良い名前だね』
『どうして……?』
『“夏を愛する”って……素敵だよ』
今の自分は到底自分の名前を愛せなかった。
夏に、この海で、彼を失ったから。
途端…彼女の視界は霞んだ。
何もできない無力な自分を噛み締めて、彼女は震えた。
流れたのは…そう。
海と同じ味で、海と同じ色をした雫。
会いたい、会いたい。
彼に…伝えたい。
「好きだよ……ホントはね…ずっとずっと……好きだったの…」
もういないのは分かってる。
もう伝わらないのは、分かってる。
「え…っ」
ふと…彼女の背中が熱を帯びた。
彼が後ろから抱き締めていた…あの温度と同じ。
愛夏は咄嗟に振り向く。
「…そ、っか……」
当たり前だよね。
彼の姿は何処にもなかった。
然し…それでも熱がそこにあった。
彼が後ろから抱き締めてくれたあの感覚と…同じだった。
それは太陽の熱じゃない。
愛夏は断言する。あり得なくても、信じてもらえなかったとしても。
錯覚なのかは分からない。
然し愛夏には聞こえた。
『僕も好きだよ…愛夏』
そう言った彼の声が。
気が付けば、愛夏の涙は乾いていた。
それどころか…優しく微笑んだ。
表情が綻んだのは、きっと海のおかげなんだと。
愛夏はそう思う。
そしてもう1度…海を眺めた。
蒼い地平線。瞬く光と鳥の声。
波の音が彼女の耳を、何度も何度も通る。
澄んだ水の奥に、沢山の色が見える。
貴方と私が愛した夏。
彼女は誓う。
この海を忘れないと。
彼と出会い、彼と愛し合ったこの場所を。
忘れない――――――、そしてもう1度貴方に恋をする。
愛夏はゆっくりと立ち上がる。
潮の匂いが彼女の鼻をくすぐった。
海の匂いが、彼女の心をくすぐった。
蒼い海、白い光。
紅い太陽と…黄色い砂。
全ての色を覚えておきたい。
彼女は裸足で、熱い砂の上を歩く。
1歩1歩…ゆっくりと、思い出を踏み締めて。
彼女が振り返る事はなかった。
彼女が涙を流す事もなかった。
それはきっと…この海を愛していたから。
この海と、それと。
優しい彼を――――――、愛していたから。
*end*
な、なんか…前作と同じ感じになってしまいました。
それと長い。何故こうなった。
読むのが辛いよ…うん。