Re: 第八回SS大会 お題「黒」 投稿期間 10/17~11/17 ( No.397 )
日時: 2012/10/24 20:03
名前: あおい


「初恋の痕跡」


 くろいろ。白を塗りつぶす単色。全部をかきけす、強い暗色。

 ああなんて幸せなんだろう、とわたしは思った。他人を想えるって素晴らしいことね。赦されるのではなく与えられているということを人は知らない。自分が幸せだということすら知らないで失くしていくのだ。明日の未来も知らぬままに。幸せは財産だろうか、否、幸せは消費財なのかもしれない。蓄えなどできず、なくなってしまった時の保証だって無いのだ。

 暖房の効いた部屋の窓ガラスにうつる冬空は、まるで暗い。炭か灰ででも描いたようだ。雲は仄暗い太陽のひかりさえ遮っていた。曇天は雨も降りそうに無いのに、乾燥した空気を底に底に沈めていくようだった。しかしながらその濁ったせかいの景観は美しくみえた。その眺めはわたしのこころは恍惚にも似た高揚と、しあわせに似た愛しさの他に、朝もやのような鈍い痛みを覚えさせた。満たしてゆくのは、なんだろう。カレンダーをめくれば、霜月の暦。すこし雑な黒いペンで書かれた丸――今日はあの人と、逢える日だ。

「酷薄なひとって焦燥感とか罪悪感が薄いらしいわよ」
「返す言葉もないけど記憶力には定評があるよ」

 普段より少し和らいだ表情の彼が来た。時計の針は予定の時間から三十度ほど傾いていた。屋外のテラスは相変わらず冷たくそこからしこに風が吹き抜ける。

「言い訳がましい。素直に遅れてごめんなさいって言えないの?」
「全然待ってないよとか少しは気の使えた表現も「じゃあ酷薄という表現は些か不適切な気がするわね。昇任きまったからってお偉いですね、ふふ」

わたしは彼を彼の名で呼んだことがない。象徴的な代名詞でしか呼ぶことはない。きっとそのことばを口にしてしまえば、たちまちわたしを包む魔法は解けてしまうような気がするからだ。彼はいつものように左手で頬杖をつく仕草をし、わたしをみつめる。端正な顔付きの彼の瞳はまっくろで、綺麗だなと純粋に思った。なにかと似ている、と思い出そうとすれば朝の光景を見ていた時の感情とそっくりだった。そこにはないものを見ている気分だった。

「ご注文はお決まりになりましたか」
「何がいい?」

 ふと彼がわたしに訊いた。おもむろにわたしはうつむき加減のまま、珈琲がいいと答えた。外から見る店内はあたたかいひかりに包まれていて、こぼれた客が寂しそうにまばらにテラスに腰掛けている。そもそも待ち合わせだから、客の多さに関係なくとも屋外で良かったのだけれど。冷たさがむしろ心地良かった。暫くして、湯気を立てた珈琲とミルクティーが運ばれた。皿の横には砂糖とミルクが転がっていた。砂糖を入れた。カラカラとプラスチックのスプーンが音を立てる。

「よくそんなもの飲めるね」黒いカップの中身を覗いて彼が嘲笑ぎみに言うので、「うるさい」と軽口を叩いた。
テラスを覆う植木の塀の向こうに少女と青年の姿が見えた。わたしが眺めているのに興味を示したのか彼もちらりとその方を向く。が、それほど興味を持つ対象でもなかったらしい。つまらなさそうに彼は視線を変えた。少女はまだ幼く十代後半なのだろう。さらさらとした細い黒髪が揺れていた。何かは知らないが、頬を染め、男に向けて微笑んでいた。

「覚えてる?」
「なにを、」
「わたしと、わたしに関わる全部。はじめて出合った時のこと」
「もちろん覚えてるよ、だから今日呼んだんだろう?」

「やっぱりあなたって、酷薄な人ね」
本当に。こくはくな、ひと。
「本当に覚えていない?ほんとはね、」

紡ごうとした言葉の先が出てこない。冷たい日の朝のことを、あなたは覚えていない。雪のちらつく、寒い寒い朝の日を、なんともない出来事を、あなたは覚えていない。――その日わたしは、朝早く眼が覚めた。なんとなしに、高校へ向こうにはまだまだ早くて、もいちど眠ろうと布団を被れど目は冴えきっていた。朝食を食べ、それから、まだまだ時間に余裕があったため通学路をゆったりとした足取りで歩いた。肩がぶつかったのは、まっくろの瞳のひとだった。ばらばらと床に散らばった荷物より、それを片付けようという理性より、そのひとみをじいっと見入ってしまっていたのだ。あなたに恋焦がれた少女を、あなたは知らない。

 冷め切った珈琲を口に含んで、それでもなお崩すことのない彼の表情が気に食わなかった。赤いリボンのプレゼントをテーブルに置いて笑って見せた。知らないとでも思っているんだろうか。

「結婚おめでと」

そしてさよなら。
彼は驚いた顔をした。それがすこし、嬉しかった。暗い空はその色を増し、そしてわたしのこころを、朱でも藍でも白でも碧でもない、黒い何かが塗りつぶしていった。しあわせなはずの感情を、筆で平坦に、ポスターを塗るように平等に。

それでもわたしはあの日から、あなたのことが好きだったの。



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こんばんは、少し前からみなさまのSSを拝見させていただいていたのですが、今回は書かせていただきました!
また参加できると嬉しいです。