Re: 第九回SS大会 お題「白」 投稿期間 1/21~2/21 ( No.430 )
日時: 2013/02/21 23:46
名前: Lithics◆19eH5K.uE6
参照: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Claude_Monet_011.jpg

奇想『日傘を差す女』 

 O.Claude Monetに寄せて――



 絵画とは魔法だ。
 光も風も、あるいは時間でさえも、一本の絵筆で真白いカンパスの中に閉じ込めてしまう。太古の昔から人間が描かずにはいられなかったものとは、きっと、そんな刹那に過ぎてしまう一瞬なのだろう。
 だが私は、それが時に残酷なものだとも思うのだ。

 何故なら。それはどこまでも虚構でありながら、見る者によっては真実に近すぎる。
 そこには、失われてしまったはずのモノがいつまでも鮮明に残されてしまうのだから。
 
○○○

 ふと、カリカリという音が止んだ。
 何という事はない、私が鉛筆を削っていたナイフの動きを止めただけの事だ。あまりにも無心になって削っていたからか、芯の先は針のように尖っている。ここまでやってしまうと却って折れやすく、使いものにならない。これは詰る所、数時間前からこっち、ほんの少しも構想が浮かんでいない事から逃避した結果なのだった。
 ひとつ、肺を絞るような溜息を吐いて。こんな時は、そうだ、早々と諦めてしまうのに限る。

「はぁ……そうだな。今日はこれまでにしよう」

 曰く、思い立ったが吉日だ。急くようにイーゼルの前から離れ、パレットと絵筆を放り出して。うずうずとした衝動のままに薄暗いアトリエを飛び出し、黒鉛と油絵具に塗れた両手を洗い流したなら……さぁ、私は自由だ!パリで得た画家の名声も、普仏戦争の記憶が生々しいロンドンでの日々も、このフランス北西の街――アルジャントゥイユでは意味を持たない。此処ではサロンの顔色を窺わずに好きなものを描き、それにも倦み疲れたなら、こうして気ままに筆を擱くことが出来る。どうせ暫くすれば自然と絵筆を執ってしまうのだから、思い切って休んでしまえば良い。
 そして私はこんな時、決まって我が家の小さな庭へと足を運ぶのだった。

 ――そう。光溢れる午後の庭は、きっと私の幸福そのものだ。

 初夏の薫りを胸一杯に吸い込んで、服が汚れるのも構わず芝生の上に寝転ぶ。眩い太陽の微笑みに軽い眩暈がして。思わず右腕を翳して真白い光を遮った先には、息を呑むほど高いアルジャンの青空が広がっていた。

「ははっ……」
 頬が緩むのはきっと、私が今、とても幸せだからだろう。
 セーヌの流れで冷やされた風は涼しげに吹き渡り、遠い教会の鐘の音を届けてくれる。するとそれに合わせるように、妻と息子の戯れ唄が屋敷の中から聴こえてきた。妻であるカミーユの声は透き通った美しいソプラノで、五歳になる息子ジャンは勇ましくも微笑ましい腕白な声。彼女たちの不揃いな合唱は鐘の音が止んでも途切れず、次々と曲を変えて私の耳を楽しませてくれる。

 V'là l'bon vent, v'là l'joli vent
(ごらん、良き風が吹いている。ほら、なんて素敵な風だろう)

 そんな多幸感にほだされて、ついつい同じ唄を口ずさんでみたが……やぁ、我ながらなんと音痴であることか。やっぱり絵以外には才が無いらしいと再確認できたところで、私は苦笑したままで瞼を閉じた。
 こうして光と風の祝福を受けながら、ゆったりと日が暮れていくのを待つ時間は、私にとってまさに至福の時だ。敬愛するニッポンの人々は悲しいときに笑うと聞くけれど、私はやはり幸せな時にこそ笑わなければと常々思う。そうだとも、フランス人が滅多に笑わないのは、希少な幸せの価値を知っているからなのだ。思えば妻も息子も、アルジャンに引っ越してからは笑顔が絶えず、唄声は弾んでいる。ならば、この美しい街こそが私たちを幸せにしてくれているのだろうと、そんな事を思ったりもした。

 さて。心が満たされたなら、その隙を狙うように眠気がやってきた。
 日が落ちるまでには時間があるし、此処で昼寝をしても風邪を引く心配はないだろう。御近所の目は気に成るが、この心地好さには到底抗えない。せめて日陰がある庭木の下まで行こうかとも思ったが、躰はもう既に動こうとはしなかった。
 そんな葛藤は一瞬だけで。不意にくらり、と意識が芝生の中へ沈み込んでいくような感覚。妻たちの唄声が遠くなっていく気がして、私は浅く微睡むような眠りに落ちていった。

○○
 
 絵画とは魔法だ。
 神が私に与え給うた唯一の才だ。その上で私自らが選び取り研鑽したのは、数ある絵画のスタイルの中でも孤立した、それ即ち『印象』を扱うものだった。色彩を操り、光を描く。世界の写実から一歩進み、画家の見る主題を強調する。そうして描かれたものには、『私そのもの』が封じられているような感覚さえ覚えるのだ。
 だからこそ私はかつて……きっと美しく、そして愛しいものだけを描こうと誓った。

Re: 第九回SS大会 お題「白」 投稿期間 1/21~2/21 ( No.431 )
日時: 2013/02/22 00:21
名前: Lithics◆19eH5K.uE6
参照: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Claude_Monet_011.jpg

 ふと、直ぐ傍に、誰かの温もりと息遣いを感じた。
 まだ日は高いのか、直視してしまった光が目の奥に赤々と残る。それでも、目覚めたばかりの胡乱な意識は直ぐには上手く回ってくれないようだった。
 誰か、そこに居るのか。仰向けのままで辺りを見渡しても、庭に人影はない。屋敷の方から聴こえていた唄声も、今はとうに消えてしまっていた。
 だが、不思議と愕きは無かった。その気配が傍にあることは、私にとってごく自然な事に思えたから。少しだけ働き始めた感覚が、頭の後ろに柔らかい温もりを認めて。くすくすと耳を擽る笑い声に誘われるように、私は視線を真上へと向けた。

 そこには予想通り、いや望み通りの、一人の女性の貌があった。
 
「ふふ、おはよう、オスカル。良い夢は見られましたか?」
「あぁ……やっぱり君か、カミーユ」

 ――その微笑みを形容する言葉を、詩人ならぬ私は持っていなかった。白く霞むような逆光の中で、彼女の笑みだけが確かな形をもって私を見下ろしている。そこには安心感と愛おしさと、そして空よりも蒼い瞳に吸い込まれそうな怖さすらあった。その眼で見つめられたなら、途端に私は愛を語る言葉さえなくしてしまうのだ。だから、私は最愛の妻に甘い言葉を掛けたことなど無い。その時も、私がやっとのことで絞り出したのは……いつも通りに不愛想な亭主然とした、あるいは私の嫌いなパリの紳士風の陳腐な言葉でしかなかった。
                                         
「はい、わたしです。中々起きて下さらないから、どうしようかと思いましたよ」
「む、すまない……いつ頃から此処に?」

「ええと、ジャンがお昼寝してからですから、一時間前くらいこうしてます。ふふ、やっぱり貴方の息子ですね? 二人とも、幸せそうな寝顔がそっくりです」
「ぐ…………」

 なんて事だ。私はどうも、膝枕をされても目を覚まさず、一時間も彼女に緩みきった寝顔を晒していたらしい。愕然とした私の顔を見て、彼女はコロコロと愉快げに笑った。

「あら、そんな御顔をしないで。可愛かったですよ、ジャンと同じくらい。そうそうオスカル、貴方が眠っている間にアリス……っと、こんな呼び方ではいけませんね。オシュデ夫人がおいでになられました。エルネスト・オシュデ氏の主催する展覧会のお知らせだったようですが」

「な……! マダム・アリスが? 来たのか、此処に?」

 愕然、再び。
 エルネストは私の無二の友人であり、新進の実業家であり、画業の支援をしてくれている所謂パトロンだ。その夫人である若きマダム・アリスとカミーユも、歳が近いこともあり仲が良く、昔から家族ぐるみの付き合いがあった。
 だが、だからといって、いい歳をした大人が庭で昼寝をしている図など見せていいはずがない。ましてや、妻に膝枕されているなど……どう考えても、エルネストに知られたなら暫くは画壇の笑いモノだ。少なくとも彼だけは、あの下品な声で腹を捩って笑うだろう。
 そうなれば私としては、彼の豊かな(豊かな!なんと寛容な表現だろう)体型を主題として寸分の違わぬ肖像を描いて、パリのサロンに提出するくらいでしか報復にはなるまい。フランス人……もとい、パリ人とは自由と怠惰をこよなく愛するが、見苦しい肥満は許さない人種なのである。

 閑話休題。
 まだ見ぬ屈辱とその復讐に思いを馳せている私をよそに、カミーユは悪戯をする若い娘のような表情をして。

「あ、そうですね! 折角ですからアリスにも見てもらえば良かったのに、私ったら……」
「む、彼女には見られていないのか」
「ええ。貴方は出掛けてるということにして、ちょっとだけ二人でお茶をしました。新作を楽しみにしてると伝えてくれとのことでしたよ」
「はぁ……神よ」

 知らず、ほぅと安堵の息が漏れる。
 それが可笑しかったのか、今度は声を上げて笑い出した妻の顔を見上げながら……少しだけ、もしかしたら有ったかも知れない騒動の顛末を幻視した。私とエルネストは詰まらない喧嘩をして、飲んで忘れただろう。そして彼女たちは、こんな風に笑っていたかもしれない。それはそれで楽しかったのではと考えて、やはり幸せに呆けているんだなぁと自嘲した。あぁ、なんだか可笑しくて……ガラでもなく笑みが止まらなくなった。

「……? どうしました、オスカル?」
「ははっ、なんでもない。なんでもないんだ……それよりも、なぁ、カミーユ」
「はい?」

 くい、と首をかしげるカミーユ。滅多にこうして笑わないものだから、今私が笑っている理由が解らないのだろう。その仕草がまた可笑しくて少し吹き出しそうになりながら、私は言葉を繋げた。
 

「君の……いや、今度は君と、ジャンの絵を描こう」

 ――それは私の、精一杯の愛の言葉に等しい。
 今まで幾度となく彼女の絵を描いてきたが、それは最も身近なモデルだからという理由ではなく。言うまでもないし言いはしないが、彼女が私にとって最も美しく、愛しい主題だからだ。
 もしや、その意図を知っているのだろうか。彼女は私がそう切り出す度に、珍しく照れたように淡いはにかみを見せるのだった。

「またですか? 私なんか、オスカルの絵には相応しくないって何度も……」
「そんなことはない!……ないさ、そんなことは」

 右手を上に伸ばして、彼女の頬に添える。それはまるで太陽に手を差し伸べているような温かさで……その途端、あれだけ思いあぐねていた構図のアイデアは溢れんばかりに湧き上がってきた。

「あぁ、良い季節だ、そうは思わないか? こんな陽気なら、セーヌの河畔はきっと気持ちが好いだろうな。うん、そうしよう。いいかな、河岸の草地でジャンを自由に遊ばせて、それを眺める君を描こう。君は一等綺麗な余所行きを着て――ああ、なら、この光が映える白のドレスが良いな。君は色が白いから、日焼けをしないようにしないと……」

 そうして、私はどうしてか酷く饒舌に語っていた。カミーユが珍しいものを見たように目を丸くしているのが判ってはいても、止まりそうにはなかった。その構図は見る前、描く前から目に浮かぶようで。慣れない言葉を駆使してでもその美しさを、彼女の輝くような価値を伝えたかったのだ。

「そうだ、君は日傘を差すと良い。それなら夏の光の中でも影を生かして、君を綺麗に描くことが出来る。ははっ、素晴らしい! きっと傑作になる、きっとだ、カミーユ!」

 この絵には、私の全てが込められるだろう。
 願わくは我が妻がそれを見たときに、私の想いが届きますように――
 

Re: 第九回SS大会 お題「白」 投稿期間 1/21~2/21 ( No.432 )
日時: 2013/02/23 13:27
名前: Lithics◆19eH5K.uE6
参照: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Claude_Monet_011.jpg

 
○○

 目を覚ますと、私は一人だった。
 
 あぁ、長い夢を見ていたのだ、と。
 凍えるほどに冷たい風が眠気を覚まし、その奇妙に冴えた頭で、私はあっさりと現実を受け入れた。酷い夢だったのか、懐かしい夢というべきか。それとも幸せな、良い夢だったと、そう思える日が来るだろうか。
 
「なぁ……居ないのか」

 横たわる地面の冷たさが、季節が秋の終わりであることを思い出させてくれる。木立の葉が落ち、金木犀の薫りが漂う庭は意味もなく寂しげで。それは季節のせいにしておく方が良いのだと、私はそう自分を納得させることにした。
 日は落ちかけて、空の端は深い群青に沈んでいる。この光が死んでいく時間は美的ではあるけれど、私は好きではなかった。だからこそ、かつては必ず妻がこうなる前に起こしてくれたのだった。だが、その優しさは既に無い。無いのだ。

 軋むドアを押して、暗いアトリエに入る。
 イーゼルに掛けられたカンパスは白く、穴のように夜に浮かんでいる。絵筆は乾き、生けられた花は見る影もなく干からびていた。それは一年前、彼女が生けた向日葵の花。夏を思わせる鮮やかな黄が、脳裏にはしっかりと残っている。

「あぁ……」

 そして、アトリエの奥に掛けられた一枚の絵を目にした途端、私の全身から力が抜けてしまった。日傘を差す女性と、その息子の絵。美しい絵であり、幸せな絵だ。それは『オスカル』という画家が描いた、その生涯の最高傑作だろう。私には絵の中からこちらを見つめる女性と、それを描いた男の心情が手に取るように分かった。
 そこには初夏の光が満ちていて、日傘のもたらすもの以外に影などない。なのにどうして……こんなに、儚げな風が吹いているのか。なぜ、ふと目を離せば光の下から居なくなってしまうような危うさを孕んでいるのか。描かれた当時、その絵は幸福そのものでしかなかったはず。だが、もしも時とともに絵の意味も変わるとするならば、その魔的な芸術は到底私の手に負えるものではないと思った。

「オスカル、さん?」
「……!」

 不意に背中へと掛けられた呼びかけに、私は背筋の凍る思いをした。
 振り返ってみれば、アトリエの入り口に立っていたのは……今や見慣れてしまった女性の姿。かつての友が破産し蒸発して以来、彼女はこの家で暮らしていた。

「ごめんなさい、急に声を掛けて。でも、何だか御気分が優れないように見えましたので」
 
 落ち着いた声。それは私の良く知っている声とは違うけれど、『オスカル』という響きは胸に突き刺さるような感覚がして。私は心配して歩み寄ってくるアリスを目で制して、軽く首を振った。

「いや、大丈夫だ。アリス、大丈夫だよ。ただ、いつも言っているだろう、その……」
「……ごめんなさい、クロードさん」
「ありがとう。さぁ、そろそろ夕飯だろう? 後で行くから、子供たちを頼むよ」

 はい、と返事をして素直にアトリエを出ていくアリス。その背中が、私を非難しているように思えた。許してほしいとは思わない。謝ることもしまい。だが、あの名前は否応なしに『彼女』を思い出させる。だから、私はそれを封印することに決めたのだ。オスカルという名前と、彼がかつて誓った絵画のポリシーを。

「そう、決めたんだよ、アリス」

 哀れな女だと思った。美しい人でもあった。亡き妻を重ねることなく、彼女を愛することは出来るだろう。そうする事をカミーユは望むだろうし、その道でしか、再び幸せを得ることは出来ないと判っていた。だからこそ、カミーユの面影は絵の中にしかあってはならなかったのだ。


 窓の外に白い月が昇っていた。
 しばし、その美しさに息を呑む。世界がこんなにも美しいのは、私たち人間が見ているからではないのだろう。悲しくても嬉しくても、幸せでもそうでなくても世界は輝いているのだから。 
 それが判った今、画家である私が描くべきものは一つだけ。
 かつて愛しいものを描いた結果が、この胸を掻き毟らねば治まらない痛みならば。この永遠に残る愛の面影ならば。私はそれを繰り返すべきではないと思う。それは、思い出と共に移ろい老いていく自らの心に留めるからこそ、きっと美しく在るのだ、と。
 芳しい夕餉の薫りが空腹を誘い、にぎやかなアリスの連れ子たちとジャンの声が私の心を慰めた。さぁ、私も食卓へ行こう。そして其処に幸せの欠片があるなら、私は笑っていなければならない――

 最後に。
 『光の画家』の名に恥じぬよう、クロード・モネとして誓う。
 この先、決して長くはない生涯において。私が描くのは、この限りなく美しい世界の風景だけであると。

(了)



○あとがき、解説

こんばんは。
ぎりぎりになってしまいましたが、拙筆の作を投稿させて頂きました。一枚の絵をモチーフにした実験作で、モネを主人公に据えた物語はすべてフィクションです。参照の先はクロード・モネの「散歩、日傘を差す女性」が載っています。

クロード・モネはフランス印象派の画家であり、「光の画家」と生前から高く評価された人物です。ファーストネームのオスカルと呼ばれることを嫌い、ほとんど使わなかったことが知られています。妻のカミーユ夫人は「日傘」が描かれた4年後に病死。故に、この作品に漂う不思議な雰囲気を文章化できないかということで、これを書いてみた次第です。なにが「白」であるかは、筆者からは特定しないものとします(苦笑
では、これが少しでも読んでくれた方の心に残りますように。