Re: 第十回SS大会 お題「罪」 投稿期間4/28~5/28 ( No.465 )
日時: 2013/05/11 00:35
名前: ryuka◆wtjNtxaTX2


お久しぶりに(と言うか第一回ぶりに)投下させて頂きます。ryukaと申します。
ちょいと短めになってしまいますがそこは御愛嬌でお願いします!
それでは、良かったら是非読んでいってやって下さいまし。


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 「 ガンジスの河原 」




 そう、その男が目を覚ましたのは、なんといっても眠るのに飽きてしまったからだろう。

 男がまぶたを億劫に開けると、やはりそこに広がるのは無限の闇。気が滅入ってしまうくらいに濃厚な黒を映した地獄の風景は、いつ見ても酷すぎて、―― 吐き気がする。


 だから、嫌だったのだ。目覚めてしまうのが。
 しかし眠っていても、男には地獄以外の情景を、心に描くことさえできなかった。夢の中でも果ての無い闇に包まれ続けて、そう、嫌気が差したのだ。
 
 夢の中でなら、と淡い希望を抱くことにも、もう飽きてしまったのだから。




 つん、と鼻をつく朱い香りが漂う。
 見れば、地獄の黒天の空から、血の雨が降りはじめていた。



 ぽつり、ぽつりと、一粒二粒。
 男の日焼けた頬を、薄汚れた赤色が染めてゆく。浅黒い肌を、しとしとと濡らしてゆく。

 少し目線を遠くにやれば、鋭く光る三千の針の山が、男を誘うように怪しくきらきらと光っていた。血に濡れた針の先が、それでも錆びずに光っている。




 どうしてか、その光に。


 むかし、あのひとが、差していた、
        銀色の髪飾りを思い出した。


          


        ◇




 男が地獄に落ちる前。
 そう、だからもうとっくに数百年の昔のことだろうか。
 まだ、男は少年と呼べる年頃であっただろうか。


 ガンジスの河原で、少年は、かの少女とはじめて出会った。
 色白な肌に、見事なほど長い黒髪。それを結わえる白銀の髪飾り。ただの銀色をした金属が、彼女の黒髪にあるだけで、本当に綺麗に見えた。


 そう、あの日は、やけに青く晴れていて。
 ガンジスの川はいつもと変わらず、その空の青色を涼しい水音とともに映していた。


 かの少女は、深い青色のサリーを纏っていて。
 ガンジスの映す空に、銀色の髪飾りに、よく青色のサリーが似合っていた。
 無邪気な風が、青いサリーをふわりと揺らした。
 そしてたぶん、無邪気な風は、少年の冷たい心をもふわりと溶かしてしまったのだろう。

 けれどあまりにも少女は清らかで。
 とっくの昔、幼子のときから罪に濡れた自分とは大違いで。血の味を知ってしまった自分とは大違いで。
 ただただ、少年心にも、自分には届かないことに、哀しくなったのだった。




 そう、きっと。俺は。

 あの時、はじめて、ひとを好きになってしまったのだろう。




      


        ◆

 


 地獄におちた青年は、運悪く、針の山の頂きに刺さってしまっていた。

 運が悪かった。このままここから動くこともできまい。
 左胸の、心の臓をぶすりと貫いた白銀の針。自分の胸から不自然に生え出た銀色を見て、あぁ、とまた溜息を吐く。

 
 ぽつり、ぽつり。
   一粒二粒と、地獄の空から雨が降ってきた。


 生臭い、濃密な血の香り。慣れない色をした血の雨は、青年のすべてを朱く濡らしていく。


 それからしばらく経っただろうか、向こうから、足音と、荒い息遣いが聞こえたのは。

 青年が首を傾けて、見ると、浅黒い肌をした男が、こちらへと向かってきていた。体中あちこちに、鋭い針に刺された跡があって、痛々しかった。


 「おい、そこの!」
 青年は、ここぞとばかりに声を張り上げた。すると男が気付いたように、青年の声に応えた。

 「なんだ」
 「助けてくれ、俺はこのとおり動けないんだ、針から抜いてくれ、頼む!」


 男は、青年を見た。
 年は、自分より一回り若い。無惨にも、青年の若々しい体の中心から、例の針が痛々しく顔を出していた。

 
 「いいだろう」
 男は、そう一言返して、どうにか青年の身体を針の業から救ってやった。別段、どういう目的でも無い。ただ、助けろと言われたから、そうしただけで。




 「……ありがとう」
 青年が、ぽっかりと穴の開いた胸のあたりを抑えながら、喘ぎ喘ぎ礼を述べた。

 「ありがとう、ほんとうに。あんたのおかげで助かった」
 青年は、その顔をくしゃりと歪ませて嬉しそうに笑う。こんなに無邪気な笑い方ができるのに、なぜこの青年はここへ堕ちてしまったのだろう。きっとこの青年も、どうしようもなく天から見放されて、どうしようもなく罪を背負ってしまったのだろう。堕ちるべきは、人か、天か。


 そして男も、その笑顔につられて笑う。ああ、笑ったなんて、何百年ぶりだろう。 
 「助かったもなにも、ここは地獄だぞ。面白いことを言う奴だ」


 すると青年はいいや、と首を振った。
 「そうでもなさそうだぜ、おじさん。……ほら」


 スッと、青年の指が黒天を指す。
 男が地獄の空を見上げると、どうしたことだろう、そこから、一筋の蜘蛛の糸が男へ目掛けて垂れてきていた。


 白銀の光をした蜘蛛の糸は、死んだような地獄の闇に、よりいっそう輝いて見えた。



 「そら、行けよ。あれにつかまって。あれはオシャカからのおじさんへの糸だよ。きっとあれにつかまって上って行けば、こんなところから逃げられるよ。天国へ行けるよ」


 男は、その糸を眩しそうに眺めた。そして言った。

 「知ってるか、あれのせいで、永久に地獄に堕ちた男の話を」
 「……さぁ?」 
 「あれに縋れば――」 男は青年を振り向いた。 「たしかに天へ行けるかもしれない。でも、俺はここが気に入っているのさ」


 呆気に取られて、口をあんぐりと開けた青年を見て、男は柔らかに笑った。

 「ためしに、お前も一度あの糸を上ってみるといい。……きっと俺の言った意味が分かるさ」


 そう言って男は、その場を立ち去った。
 最後にちらりと、蜘蛛の糸を見上げて。その清らかな美しさに、かつて恋したあのひとを思い出して。
 
 はじめて出会った、ガンジス川のせせらぎを思い出して。



             ◇



 後には、青年が不思議そうに、その蜘蛛の糸のきらきらとした輝きを見ているだけだ。


 そして、ふと、青年がそれに触れてみると。


 霧に触れたように、白銀の糸は、不思議な水音と共に、ふわりと消え去ったのだった。



                                (おわり)