お久しぶりに(と言うか第一回ぶりに)投下させて頂きます。ryukaと申します。
ちょいと短めになってしまいますがそこは御愛嬌でお願いします!
それでは、良かったら是非読んでいってやって下さいまし。
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「 ガンジスの河原 」
そう、その男が目を覚ましたのは、なんといっても眠るのに飽きてしまったからだろう。
男がまぶたを億劫に開けると、やはりそこに広がるのは無限の闇。気が滅入ってしまうくらいに濃厚な黒を映した地獄の風景は、いつ見ても酷すぎて、―― 吐き気がする。
だから、嫌だったのだ。目覚めてしまうのが。
しかし眠っていても、男には地獄以外の情景を、心に描くことさえできなかった。夢の中でも果ての無い闇に包まれ続けて、そう、嫌気が差したのだ。
夢の中でなら、と淡い希望を抱くことにも、もう飽きてしまったのだから。
つん、と鼻をつく朱い香りが漂う。
見れば、地獄の黒天の空から、血の雨が降りはじめていた。
ぽつり、ぽつりと、一粒二粒。
男の日焼けた頬を、薄汚れた赤色が染めてゆく。浅黒い肌を、しとしとと濡らしてゆく。
少し目線を遠くにやれば、鋭く光る三千の針の山が、男を誘うように怪しくきらきらと光っていた。血に濡れた針の先が、それでも錆びずに光っている。
どうしてか、その光に。
むかし、あのひとが、差していた、
銀色の髪飾りを思い出した。
◇
男が地獄に落ちる前。
そう、だからもうとっくに数百年の昔のことだろうか。
まだ、男は少年と呼べる年頃であっただろうか。
ガンジスの河原で、少年は、かの少女とはじめて出会った。
色白な肌に、見事なほど長い黒髪。それを結わえる白銀の髪飾り。ただの銀色をした金属が、彼女の黒髪にあるだけで、本当に綺麗に見えた。
そう、あの日は、やけに青く晴れていて。
ガンジスの川はいつもと変わらず、その空の青色を涼しい水音とともに映していた。
かの少女は、深い青色のサリーを纏っていて。
ガンジスの映す空に、銀色の髪飾りに、よく青色のサリーが似合っていた。
無邪気な風が、青いサリーをふわりと揺らした。
そしてたぶん、無邪気な風は、少年の冷たい心をもふわりと溶かしてしまったのだろう。
けれどあまりにも少女は清らかで。
とっくの昔、幼子のときから罪に濡れた自分とは大違いで。血の味を知ってしまった自分とは大違いで。
ただただ、少年心にも、自分には届かないことに、哀しくなったのだった。
そう、きっと。俺は。
あの時、はじめて、ひとを好きになってしまったのだろう。
◆
地獄におちた青年は、運悪く、針の山の頂きに刺さってしまっていた。
運が悪かった。このままここから動くこともできまい。
左胸の、心の臓をぶすりと貫いた白銀の針。自分の胸から不自然に生え出た銀色を見て、あぁ、とまた溜息を吐く。
ぽつり、ぽつり。
一粒二粒と、地獄の空から雨が降ってきた。
生臭い、濃密な血の香り。慣れない色をした血の雨は、青年のすべてを朱く濡らしていく。
それからしばらく経っただろうか、向こうから、足音と、荒い息遣いが聞こえたのは。
青年が首を傾けて、見ると、浅黒い肌をした男が、こちらへと向かってきていた。体中あちこちに、鋭い針に刺された跡があって、痛々しかった。
「おい、そこの!」
青年は、ここぞとばかりに声を張り上げた。すると男が気付いたように、青年の声に応えた。
「なんだ」
「助けてくれ、俺はこのとおり動けないんだ、針から抜いてくれ、頼む!」
男は、青年を見た。
年は、自分より一回り若い。無惨にも、青年の若々しい体の中心から、例の針が痛々しく顔を出していた。
「いいだろう」
男は、そう一言返して、どうにか青年の身体を針の業から救ってやった。別段、どういう目的でも無い。ただ、助けろと言われたから、そうしただけで。
「……ありがとう」
青年が、ぽっかりと穴の開いた胸のあたりを抑えながら、喘ぎ喘ぎ礼を述べた。
「ありがとう、ほんとうに。あんたのおかげで助かった」
青年は、その顔をくしゃりと歪ませて嬉しそうに笑う。こんなに無邪気な笑い方ができるのに、なぜこの青年はここへ堕ちてしまったのだろう。きっとこの青年も、どうしようもなく天から見放されて、どうしようもなく罪を背負ってしまったのだろう。堕ちるべきは、人か、天か。
そして男も、その笑顔につられて笑う。ああ、笑ったなんて、何百年ぶりだろう。
「助かったもなにも、ここは地獄だぞ。面白いことを言う奴だ」
すると青年はいいや、と首を振った。
「そうでもなさそうだぜ、おじさん。……ほら」
スッと、青年の指が黒天を指す。
男が地獄の空を見上げると、どうしたことだろう、そこから、一筋の蜘蛛の糸が男へ目掛けて垂れてきていた。
白銀の光をした蜘蛛の糸は、死んだような地獄の闇に、よりいっそう輝いて見えた。
「そら、行けよ。あれにつかまって。あれはオシャカからのおじさんへの糸だよ。きっとあれにつかまって上って行けば、こんなところから逃げられるよ。天国へ行けるよ」
男は、その糸を眩しそうに眺めた。そして言った。
「知ってるか、あれのせいで、永久に地獄に堕ちた男の話を」
「……さぁ?」
「あれに縋れば――」 男は青年を振り向いた。 「たしかに天へ行けるかもしれない。でも、俺はここが気に入っているのさ」
呆気に取られて、口をあんぐりと開けた青年を見て、男は柔らかに笑った。
「ためしに、お前も一度あの糸を上ってみるといい。……きっと俺の言った意味が分かるさ」
そう言って男は、その場を立ち去った。
最後にちらりと、蜘蛛の糸を見上げて。その清らかな美しさに、かつて恋したあのひとを思い出して。
はじめて出会った、ガンジス川のせせらぎを思い出して。
◇
後には、青年が不思議そうに、その蜘蛛の糸のきらきらとした輝きを見ているだけだ。
そして、ふと、青年がそれに触れてみると。
霧に触れたように、白銀の糸は、不思議な水音と共に、ふわりと消え去ったのだった。
(おわり)