[母の面影]
ある冬の朝、目覚めるとベッドの脇に人影があった。
あまりにびっくりしたもので、僕は声も出ず叩けば音が出るくらいに固まって動けなくなってしまった。
僕は数年前から一人暮らしであった。故に、家に誰かがいるという状態は、異常事態なのだ。
人影は、固まった僕のことを少し笑って、おはようと言った。言ったような気がした。
影には、口はもちろん顔すらなかった。
「……お、おはよう」
ぎこちなく挨拶を返す。
彼女は女の子だと、ふと、ごく自然に理解できた。僕より少し、年上くらい。
果たしてそれを人影と呼んでよいものか、僕は悩んだ。真っ黒な影がそこに確かに存在するのであれば簡単だったのだが。と、いうのも、僕の目には、いつもと変わらぬ僕の部屋以外のものは映っていなかった。
彼女はどこにも居ないのである。けれどもそこには、不確かで曖昧で不安定な彼女は、居る。僕には分かる。大変な矛盾であるが、そうとしか言えないのだ。
思い出したように、目覚まし時計が騒々しく鳴り出した。慌てて、止める。五時三十分。どうやら、アラームのなる少し前に目覚めたらしい。
早起きだね。彼女は言った。
「まあ、朝ごはんとお弁当、作らないといけないから……」
ふうん。彼女は関心した様子であった。
僕が朝食を作ろうと階段を降りると彼女も、てとてとと足音を立ててついて来て、僕の料理の様子をまじまじと観察し、テーブルに並べられた簡単ではあるが見栄えの良い小皿と、カラフルな弁当を見て、また感嘆の声をこぼした。
僕は少し得意になる。これまで、どんなに上達しようが料理の腕を自慢するような相手は居なかった。
彼女は、その日一日僕について回った。
気さくな彼女は授業中であっても話しかけてくるため、少し困りものだったけれど、僕が小声で彼女と会話をしていようとも誰も何も、言わなかった。
僕には友達が居なかった。友達はおろか友達以下の、少し話す程度の人も、居なかった。
そうやって、誰とも目も合わせぬように生活をしてきた。
別に、コミュニケーション恐怖症なわけでも人間不信なわけでもなく、望んで、そうしてきた。強がりでも無い。
だから、僕が見えない誰かと話しているのが聞こえようとも、誰も不思議には思わないのだ、と、そう思う。
僕は彼女が見える訳ではなかった。それ以上に、僕ではない人たちは彼女を感じる事すらできなかった。彼女は僕ではない人にとっては、一切、何もない、からっぽであった。
*
今日もいつもの如く、終業のチャイムがなると足早に図書室に向かい、鞄を乱暴において読書を始める。
日が暮れる頃。これもまたいつもの如く司書の女性が部屋を出て行く時間だ。
「じゃあ……戸締り、よろしくね……?」
はれものに触るかのような、慎重な、怯えた声。
司書の女性が図書室を出て行こうとする時、僕は読みかけの本を机に叩きつけた。
女性は悲しそうな顔をして、図書室を出て行った。
僕の隣に座っていた彼女も、びくりと肩を跳ねさせ、驚いていたので僕は少し申し訳なく思い、謝る。
「いつもこうやって、威嚇をするんだ。僕に話しかけると怖いぞ、って。驚かせてごめんね」
彼女は、そっか、うん、分かった、と言った。
僕は本を持って読んでいたページを再び開き、栞をはさんで、また置いた。今度は静かに。
「いつもはここでずっと本を読んでいるんだけど……今日は、君がいるから」
彼女が大きな瞳で僕を見つめるから、僕は目をそらして少し微笑んだ。
「折角だからちょっと、話をしようか」
*
僕は非常に読書家だと、思う。
家事と勉強以外には、読書のほかに趣味は無いから、あるだけの時間を読書に費やした。
子供の頃に、僕と同じように読書が好きだった母は僕に、本を沢山買い与え、読み聞かせ、考察をし、面白さを熱弁した。僕が字を読めるようになると、母は喜んで更に本を与えた。感想を聞かせるたびに、また、喜んだ。「本を沢山読めばえらい人にも頭のいい人にも、優しい人にもなれるのよ」、っていうのが、口癖。
僕は母が好きだった。言う通り、沢山読んだ。
僕はそれを今もなお重んじている。人の命は有限だ。死ぬまでにどれだけの量が読めるか。内容を理解でき、尚且つなるべく速く読めるように、訓練を積んでいる次第だ。
僕は、本の内容にはあまり興味は無い。
僕の日課は、放課後に図書室で学校にいられる限界まで本を読むことなんだ。
でも、図書室には当然人がいる。委員会の人、司書の人、利用者。本を借りたり読んだりするには当然、事務的な会話は必要だね。
それでも僕がとっても我慢をして図書室を利用しているのは、図書室には、大量の本があるから。
お金はあった。両親が遺した、大金。だけど、それを切り崩して本を買えるほど多くもなかった。
両親は焼死体になったんだよ。
山奥で、車で、事故が起きて、ガードレールから外れ、谷底に落ち、火を噴いた車の中で、あっけなく死んだ。
でも、僕はもうそんなこといいんだ。親戚もみんなそれぞれいろんな理由で、ぽろぽろ死んでいるから、お葬式も少人数で印象薄かったし。それになんだか、全然悲しくないんだ。
保険金をたくさん、自分たちにかけていたみたいで。だから、お金には困らないし。
*
彼女はこくんこくんと頷き、所々に相槌を入れながら、僕の話を聞いてくれた。面白い話でもないのに熱心に聞いてくれている事も驚きだったが、見ず知らずの彼女に身の上話をする気が起きたことのほうが僕は驚きである。
原因は彼女の暖かさであろう。彼女の息遣いや声の、体温は、遠く深く、捨てた母の思い出を掘り返させる。
*
「ねえてっちゃん」
「読み終わったのね。どうだった?」
「てっちゃんはいっぱいご本を読んで、偉くなるのよ」
「そうなったら母さん、とっても嬉しいな」
母の横顔。抱かれた手のぬくもり。愛おしさ。そして。
*
「…………あ」
彼女につんつんと僕の肩をたたかれて、記憶の波に呑まれていた僕はふと現実にかえった。彼女は心配げに、大丈夫?、と、首をかしげる。
「ごめん……なんでかな」
唇が震えて、声が震えて、ぼんやりとした感覚があとを引いた。
マフラーで顔を、涙の跡を隠し、街灯がぽつりぽつりとともる薄暗い道を彼女と歩いた。
その日は、誰もいない家に帰り、重い体を引きずってシャワーを浴び、泥のように眠った。
*
目を覚ました僕は、かすむ視界でかろうじて八時を示す時計を捉えた。
さっと顔から血の気がひく。まずい。
跳ね起きて、急いで準備をしようとすると、
「ね、ねえ!」
と声がした。更に驚いて、声のする方へ顔を向けるとそこには、セーラー服を召した二つ結びの女の子があった。
「今日は土曜日……だよ」
申し訳なさそうに微笑む彼女を見て、僕は気づいた。これは昨日の、見えない、あの、彼女である。
彼女は制服のスカートを叩いて、今度はにっこりと笑った。つられて僕も、笑いがこみ上げてこらえきれずに少し溢れる。
「……ご飯にしようか」
「うん」
とはいったものの、彼女は物を食べることができないらしかった。
僕が朝食を食べるのを見ながら、彼女は僕に言った。
「この世界のものに触れることはできない。干渉してはいけない。それが、ルールなんだ、けど……」
彼女は少し悲しそうな顔をして、それから、
「だけど、私は君に会いに来たんだよ」
にいっと笑った。
酷い目眩に襲われ。目の前の景色が思考といっしょにぐるぐると混ざって。色が、暗く汚くなっていく感覚があって。
僕の目には黒以外何も映さなくなった。
頭の中に彼女の声が響く。
「ねえ、てっちゃん」
目には何も映らないけれど、僕は、宙に浮いていた。風ではない、冷たい空気が満ちた、暗い、さみしい世界だと、僕は思った。
「てっちゃん……」
彼女はもう一度、僕を呼んだ。会話を嫌う僕を、てっちゃん、などと馴れ馴れしく呼ぶ人など僕は、一人しか知らない。
「大きくなったね?」
母親だ。
どうして気がつかなかったのだろう。思い返せば顔立ちも笑い方も喋り方も、母親にそっくりではないか。
「おかげ様で」
僕の喉から、震えた、弱々しい声が溢れた。
しゃべることは出来るらしかった。母はふふふと笑った。
「てっちゃん、覚えてる? 小学校で、ゼロを習ったときのこと」
「…………」
「『ゼロは他の数字と、ひとつだけ種類が違うんだよ。十分の一だって百分の一だって、ゼロでない限り絶対に、ちょっとだけでも、ある、んだよ。でもゼロは本当に、本当に何も無いんだよ』、って言ってたね」
「……覚えてない」
「そう、残念だわ。その後、てっちゃんがなんて言ったかも忘れちゃったのかな?」
僕は首を横に振る。
「『死んじゃったらさ、死んじゃったあとってさ、ゼロみたいなのかな』って言ったのよ。その時母さんはてっちゃんに、さあ、それは誰にも分からないわ、って返したけど」
僕の視界にすっと現れた、僕と同じように中に浮く母親の顔を見たとたん。
僕は全身が凍りついた。
冷たい汗が吹き出す。彼女は耳まで裂けた口元を釣り上げて、目を、大きく開いてこちらを見ていた。
「今ならわかる。私にはわかる。死後の世界は本当に何もなかった。冷たい場所だった。だけど私だけはゼロじゃない!だって私にはあるもの……」
彼女は口を大きく大きく開いて、黒い空に高らかに叫んだ。
「貴方への憎しみが!」
*
僕が小学校五年生の夏、僕は父と母と、山の避暑地に旅行へ来ていた。
一年ぶりの家族旅行ではあったが、僕には億劫で面倒で居心地が悪くて、仕方がなかった。 多少裕福だった僕の家では、裕福さに甘えて物とお金でつながった見せかけの絆を育んでいたから。旅行だって、形だけの家族ごっこにすぎない。
父と母はせめて形だけでも良い家族になろうとしていたのかもしれないが、僕には形だけの家族を作ることをゲームのように愉しんでいるように思えた。本当のところはわからないし理解する気も無かった。
僕にとってはただの、家庭などには関与しない金ばかりの適当な男と、理想を息子に押し付けて遊ぶ女というだけである。
その日、僕はひどく気分が悪かった。
灼熱のビル街から山中の涼しい所へ来たのだ。風邪でもひいていたのかもしれない。もしくは、移動中にずっと本を読んでいて、車に酔ったのかもしれない。
次の日は森林浴をしよう、という父の提案で、山の中を車で一通り走ることになっていたが、僕は体調が悪いから旅館にいるよ、と言った。体調が悪いのも理由の一つではあったけれど、嫌気がさしていたというのが一番の理由だった。森林浴なのに、疲れると言って歩かないあたりがどうにも、偽物っぽいのだ。
夜、僕は眠れなかった。
ため息を吐き、寝ている両親を起こさぬよう、こっそりと服を着替えて外に出る。
夏の夜風は冷たく、重ねた服を抜けて行った。上着を着てきて良かった、と思った。
部屋から出てくるときに持ってきた文庫本を片手に、ふらふらと旅館の前に停まっている車の間を歩く。それほど夜は更けておらず、電灯はまだぎらぎらと光っていたから、本が読めると思って、僕は自分の家の車のとなりに座り込んだ。
ミステリー小説であった。車にばれないように細工をするというトリックで、人を殺す話。車の専門家に微に入り際にいり取材をした、そのリアルさが話題の本だ。
僕は家から持ってきた工具をポケットから取り出して、本を読み返しながら車を降りるときに仕掛けておいた、鍵がかからないというトリックで車の扉を開けた。
僕は、ミステリー小説のトリックを再現することが不可能に近いことを知っていた。
だから、運がよければ、という気持ちで車に細工をした。
運良く、ブレーキが山の中で故障し、両親が谷底に落ちやしないか、と。
その日の夕方、両親の代わりに旅館に帰ってきたのは、警察であった。彼は泣き出しそうな顔で言った。
「いいか、落ち着いて聞くんだ。君のお父さんとお母さんは……事故で、亡くなった」
落ち着いて聞いていられるわけは無かった。僕は震え、倒れ込んで、笑いながら泣いた。
*
母は全て知っていたというのか。いや、そんなはずはない。ないのに。
くるくると思考を空回りさせる間に、どこからともなく火が出て、彼女の服が燃えて肉が焦げる香りがして、みるみる母は変わり果て、やがて黒くくすんだ焼死体となった。
原型を留めていない腕を彼女が上へ突き上げる。
何かが僕の体を貫通した。
死は、眠りのようであった。
何も持たぬ、ゼロの僕にとっては。
---------------------------------------
お久しぶりです!
最近の大会に参加できなくて……すみません。
最後ですって、これは参加しなくちゃ、と思って、頑張って書きました。
テーマ難くて……! あんまり関係なくなっちゃったかな、と苦い気持ちです。
それと、トリックの、細工のところなど違和感には目をつぶって頂きたいです……。
文字数オーバーだと言われたので二回に分けました。
オーバーになるまで書いたの初めてで、ちょっと感激です……!
投票にも参加しようと思っています。
書けて、投稿することができて良かったです♪
すみません言い忘れました!
最初の方は玖龍という名前で書いてました。今はあまだれと申します。