【なんにもないひと】
「──────騙された?」
「お金、全部盗られちゃいました。馬鹿ですよね、俺」
彼はそう自嘲気味に言った。
*
話を聞いていくと、彼が通帳の残高がゼロになっていることに気付いて、そのとき半同棲状態だった恋人に電話を掛けたがつながらず、それ以来音信不通になってしまった。そこで彼は、初めて自分が彼女にお金を盗られたことを確信したようだ。
彼は私のバイト仲間である。バイト先は、雑居店の二階にあるさびれかけのレンタルビデオショップ。働き始めたのは彼のほうが後だし年齢も私より二歳下だから、仲間というより後輩といったほうが正しいかもしれない。
普通の男の子だった。勤務態度はそれなりに真面目で、礼儀正しくて、良識があって、閉店後に卑猥なDVDをこっそり借りたりしていて、飲み会で先輩に無茶振りをされても嫌がらずにやってくれて──。
そして、帰る方向が同じであるため、私と彼はバイトが終わった後に途中まで一緒に帰ることも珍しくなかった。
*
「今、その女がどこにいるか分からないの?」
普段ならどんなに嫌いな女の人に対しても「その女」なんて言い方はしないのに、つい口を突いて出てしまう。
「あー、何か彼女が働いてるって言ってた会社に電話して訊いたら、そんな人はおりませんって言われて…………彼女、俺に嘘吐いてたみたいです。もう名前すら本名だったのかどうか怪しいですよ」
十二月の冷たい風が顔に吹きつけられる。
私の横を歩く彼の言葉が途切れて気まずい雰囲気になった、ような気がした。何とか会話を続けなければ、と私は腐心する。
「ご両親には、あの、このこと話したの?」
「俺に家族はいません」
「…………じゃ、じゃあご親戚とか、」
「そんな人はいません」
まるで普段の世間話をしているかのような声の調子。さっきから淡々と彼の口から発せられる言葉のひとつひとつが、私にとっては遠くかけ離れた世界の出来事であるようだった。
「──彼女、すげー良い子だったんですよ。可愛いし、料理もうまいし、気が利くし、」
彼の声がだんだん小さくなっていく。私は、彼を直視できなくなった。
「騙されてたなんて、信じたくない」
そして彼は独り言のように、呟いた。
胸の奥が焼き焦がされるような気分────────どうして彼が騙された? どうせ騙すなら、もっとお金を持っていそうな人にすればよかったのに。もっと、今まで何不自由なく幸福でいた人にすればよかったのに。
「あ、何かすいません菊池さん。こんな暗い話」
「いや、そんなことない、よ」
これ以上、何と声を掛けるべきなのか分からなかった。もしここで無神経な言葉をかけてしまったら、今もろくなっている彼の心を傷つけてしまいそうだから。
彼のほうも何か話をしてくることはなかった。私はコートの重さだけではない、重い身体を引きずって、ただただ歩く。
少しすると、やっと自転車屋のある交差点までやって来た。駅から比較的近くであるせいか、多くの人が信号待ちをしている。バイト先からここまでは十分もかからないはずなのに、今日はとてもとてもとても長く感じた。
「じゃ俺、家こっちなんで」
「うん」
そう言って、彼は私に背を向ける。
「────菊池さん、」
私には、彼が震えているのがはっきりと分かった。
「何?」
「俺絶対負けませんから」
「…………うん」
「絶対に、なんもないとこから這い上がってみせますから」
「うん」
「だから、ちゃんと見てて下さい」
信号が青に変わった。そうして彼は顔を上げて、雑踏の中に入り込んでいく。私は決して小さくはないその後ろ姿を、いつまでも眺めていた。
(end)
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前回の投稿から随分経ってしまいました;
投票とか全然出来てなくてすみませんorz
今回はぱっと題材が浮かんだので投稿させていただきました(・ω・)
……まだまだですね! お目汚しすみません←
絶望の中に小さな光が見える、みたいな話を書きたかったようです((