【SS―①】
鉛色の空は実に心を薄暗くする、だから天気が曇りばかりという地域の人達は、皮肉屋で性根が曲がっている。そんなことを誰かが言った。馬鹿馬鹿しいと一蹴する人もいるだろう。僕もその一人だ。太陽を拝めない時期が少し続いたからと言ってそれが何だというのだ。
年代物の自動車、その後部座席から見る天候は重々しい曇天だった。この周辺では特に珍しくも無いらしい。僕はそう教えてくれた運転手に視線を移す。
「曇り空は好きかい?」
軽く前に問いかけてみると、温雅な声が返ってきた。
「好きではないですね。だけど、お天道様が決めることですから。しょうがないですよ」
くたびれたコートにハンチング帽といった出で立ちの運転手。彼はこんなご時世では珍しいほど純朴で親切だった。なんたって町の駅からこんな郊外まで、不満の一つも漏らすことなく、キチンと乗せてきてくれたのだから。
彼の何処が性根が曲がった皮肉屋だというのか。僕は件の誰かを問い詰めてやりたい気分だった。
「旦那、この先は今は軍用地ですがね。何か御用でも……?」
運転手の男性は肩を竦めながら、そろそろとした声で僕にあそこでどうするのかと訊いてきた。スパイだったら大変だ、なんて思ってるのかも知れない。
「いやなに。ちょっと外から見るだけさ。廃棄された町があったろ、僕はそこの出身なんだよ」
落ち着いた口調で言葉を返すと、彼は納得した風に頷いて息を吐き出した。そして「あんまり近づかないでくださいね。撃たれたら大変ですから」と言った。
彼の気遣いがズッと心に圧し掛かってくる。今からしようとすることを思うと、心に少しの罪悪感を感じた。僕はそれを振り払うように声を出す。
「……昔、この辺りに、ほら、向かいの国がちょっかいを掛けてきたのは知ってるかい?」
「空爆のことですかね? なら良く来ましたね、ええ。もっと南の方にもバカスカ落とされたみたいですけど」
「いや、そっちじゃない。銃を持った兵隊がボートに乗ってやってきたという奴だよ」
一旦、そこで会話が止まった。僕はトレンチコートの胸ポケットから紙タバコを取り出して、口に咥える。ライターで火を付けようとした時、彼がやっと返答した。
「与太話とばかり思ってましたが、本当なんですか?」
不安と興味が入り混じった声調だった。なるほど、良く隠匿されていたようだが、地元の人間に隠すのは難しい。
「どうだろうね。列車で隣に座った客が、話してくれたんだけど」
「旦那はあの町にいた事があるんでしょう?」
「何分、子供の頃だから。でもボートに乗った兵隊、なんてのは記憶に無いなぁ……」
運転手が「なら与太話に決まってますよ」と静かに笑った。僕も笑った。胸に、細い針が突き刺さった感じを味わいながらも、笑った。
やがて自動車はある木看板の前で停車する。半ば腐った木看板には「この先、アズフォード」という案内が書かれていた。胸の中で何かがざわめく。
「この先です」と運転手が呟いた。彼は僕に些か興味を惹かれているようだった。
「ありがとう。感謝するよ」
「気を付けてくださいね」
コートの襟を整えながら、僕は後部座席の扉を開けて外へ出た。鼻孔に懐かしい“臭い”を感じる。
運転席に回ると、ポケットからチップを取り出して、運転手へ渡そうとしたが、彼は首を縦に振らなかった。僕は無理やり中へとチップを押し込むと、困った表情の彼を労う。
「これで子供に菓子でも買ってやってくれ」
そう言って微笑みながら、フロントを軽く叩く。運転手が礼をすると、年代物の自動車は来た道を戻っていった。
僕はため息を吐く。あそこまでしてくれた彼に嘘を付いてしまった。もうこれで後戻りはできない。おもむろにコートの内ポケットを探る。硬い感触がした。
その感触をしっかりと刻み込みながら、後ろを振り返る。背丈の低い雑草の間に野良道が通っていた。自動車の轍が幾つもある。それなりに行き来はあるのだろう。
ふと、空を仰ぐ。相変わらず機嫌が悪そうな日和だった。今に、雨でも降り出しそうな感じだ。
【SS―②】
「濡れ狐……か」
そんな言葉が脳裏に浮かんできて、思わず口元が緩んでしまう。惨めなさまは僕にお似合いかも知れない。
一度、紙タバコを噛み締め、僕は野良道に足を向ける。一歩、二歩。踏んだ勢いのまま、ズコズコと先に進んだ。
左手の繁みから、右手の雑草から、生の臭いがする――。
それは僕自身が生きている感覚というのを半ば忘却しているからこそ、鼻孔に届いた臭いだった。
気づけば、段々と胸の内に不快感が溜まってくる。
何故、僕はこんなにも哀れで気薄なのだ。ただの藪や草からも、僕は生きている証を受け取っている。何故ならば僕自身にそれがないからだ。それがないから、周りから感じられるのだ。こんなふうに激しくも、悲しく。
嫌になるような感情が、精神を貫く。
振り払うかのようにかぶりを振って、更に一歩二歩と歩むと、不意にやるせない感覚が身体に沈んでくる。もう帰ろう、家に帰ってベッドへ倒れ、麦酒でも口に入れれば、また日常が帰ってくる。
――そして過去に苦しめられるのか。
斜面に差し掛かろうかというところで、僕の足は止まった。道先に張り巡らされたフェンスと、間に存在する検問所を見つけたからだった。
コマを、イメージする。黒くて、強靭なコマだ。それが頭部の中でグルグルと回転し始める。そして、それを徐々に首、胸部、腹部、そして下腹部へと降ろしていった。
コマがいよいよ峻烈に回り始める。身体が一種の気迫に包まれていくのが感じられた。すべきことをしよう。今しかない。
堂々とした態度を保ち、僕は一軒の小さな小屋と古ぼけた開閉棒がある検問所に向かった。小屋の外で立ち竦んでいた分厚いコート姿の衛兵が、肩に掛けていた自動小銃を両手に持ち替える。彼は小屋の中に何事か呼び掛けると、その場で、向かってくる僕に言い放った。
「止まってください! ここから先は軍用地です」
撃たれては適わないので、僕は素直に立ち止まった。衛兵が近づいてくる。顔を見る限り、僕よりも数歳か年下だ。そして一等兵。階級章がそう告げている。
「民間人の方は原則立ち入り禁止です」
彼が言った。僕は肩を竦めた。
「お勤めご苦労。兵隊手帳を出してもいいか?」
「……軍関係者?」
「中尉だ」
若い一等兵が瞳をパチクリさせる間に僕は両手を広げる。そして手振りでコートの内ポケットを示す。
「もう一度言うぞ。身分証明をさせてもらっていいだろうか?」
一等兵が何か答える前に、背後からもう一人が近寄ってきていた。締まりの無い口をした伍長だった。
「許可しますよ、中尉。さっさと出してください」
伍長が代わりに返答し、僕はゆっくりとコートの内ポケットから兵隊手帳を出した。開いて、一等兵に渡す。彼はすぐに開くと、数秒もしない内に伍長へと回した。
今度は伍長がそれを開いて、じっくりと中を見る。一分ぐらい経ってやっと彼は敬礼した。一等兵がそれを見て、同じようにする。
「ご苦労様です。中尉。何か当軍用地に御用でしょうか?」
「今度、軍測量部の部長補佐がこちらに来られる。再測量の下見だ。自分は先に状況確認を任された」
適当な嘘だ。大抵の兵と下士はこれで騙せる。要は士官クラスの人間が言った、ということが重要なのだ。発言内容にさして彼らは興味を持たない。
しかし……この伍長は例外のようだった。
「私服で、しかも供を連れずに、ですか?」
怪訝そうな視線を僕に纏わせてくる。僕は内心うんざりしながらも、まるで侮辱を受けたように自身の肩を怒らせ、声調に怒気を混ぜた。
「伍長……貴様の氏名と所属連隊、兵籍番号を言え! 士官の言動を疑うとは、ただでは済まさんからな!」
「あっ、いえ。失礼しました!」
咄嗟の所作で助かったようだ。眼前の彼は一瞬怯えたように眉を顰めると、すぐにそれを戻して、こちらの顔色を伺うように直立不動になる。
僕は内心の笑みをグッと堪えながら、仏頂面を湛えて言った。
「では開閉棒を開けてくれたまえ?」
伍長が頷くと、一等兵が慌てて開閉棒の下まで走っていき、それを両手で掴んで持ち上げ始めた。僕は一度ふっきらぼうに敬礼すると、そのまま歩いていく。
そして、抜けた。邪魔をされずにこの検問所を。
もうこれで障害はないはずだった。背後で開閉棒が閉まる音がして、固い地面を踏み込む感触が足の裏から伝わってくる。
こういう時にだけ、生を実感する。スリルから解放されたこの瞬間の、何とも言えない充実感。生き残ったぞ、やってやったぞという理性と本能の合唱曲。
あの兵隊たちは後でとばっちりを喰らうだろうし、僕は罪に問われるだろう。だがそれが何だって言うのだ。今、しなければならないことがあるのだ。
僕は何十回も足を持ち上げて、降ろす、この一連の動作を繰り返す。まるで昔のマスケット銃兵のようで、少し滑稽さを感じた。だけれど、これは有史以前から人類と共に付き添ってきた偉大なる伴侶だ。そう、それは『歩く』という名の行い。僕らを僕らたらしめてくれ、世界を広げられる行為。残酷さと慈悲深さが足には詰まっている。
気分が高揚してきた。一度目を瞑って、もう一度開く。右手には小高い丘、左手には浅い林。前方には道が広がっていて、丘の縁を回るように伸びている。その先には、あった。『それ』が。悪夢の源。幼少期からの因縁。美しき想い出。全てが詰まった『それ』がそこにはあった。
【SS―③】
アズフォード。僕の故郷。
海沿いの……白塗りの民家が町に一種の清廉さを与えていた町。
今は、そんな風景は微塵も残っていない。瓦礫と崩れかかった建物があるだけの、人っ子1人いやしない孤独なゴーストタウンだ。
町の向こう側には海が見える――海。全ての元凶。僕にはアズフォードという乙女を無理やり押し倒して強姦しようとする、悪党に見えた。何とも憎々しげに波の満ち引きを繰り返し、暗い蒼は奥を見通すことすら許そうとはしない。不寛容の塊。今でも人を海底に引きずり込んでしまいたくて、うずうずしている。
ふと視線を移動させれば、地平線では雲と海が一つになっていた。それが何だか無性に気に入らなかった。子供の頃はそこに世界の真理を見たような気分になっていたが、まったく馬鹿げている。海は何処まで行っても海だ。空は何処まで行っても空だ。
そう、正直に白状しよう。僕は海が嫌いだ、いや、憎んでいる。憎悪している。だからマリーンどもも大嫌いだ。潮の臭いは地獄の腐臭だった。
そしてこの事実に怨嗟の声をあげたくなるが、僕の幼少期には地獄の腐臭が滲み込んでいた。
道沿いに丘を回って、町に入る。潮と灰と、忘れ去られた死の臭いが漂っていた。視線をあげてみれば何処にでも想い出の痕跡が残っている。
優しかったケントの雑貨店、オーブリー爺さんの釣具屋、フィンチさんの銃砲店、幼馴染だったバカラのパン屋。
僕は横断した。それら全てに、今は背を向けるしかなかった――何も見ようとしなければ、辛さもまた襲ってくることは無いのだから。
必要以上に町に留まりたくなかったので、さっさと横断した。町の外れには斜面を登っていく道がある。その先に僕の目的地があった。
斜面を登り、切り立った、屹立する崖へと着く。
上に生え茂った草地を足で踏み倒し、崖先まで歩くと、僕は崖下を覗き込んだ。
まるで炎のように揺らめく波が、崖へとぶち当たり、雄叫びをあげている。見ている内に段々と吸い込まれそうになってきたので、すぐに数歩退いた。
身体が震えているのを感じる。僕は心底、海を憎悪しているとともに、恐れてもいた。
あの時、海の向こうから偵察にやってきた、敵の特殊部隊員が放った流れ弾が、母の頭蓋と西瓜のように砕いてから。
精気を失った父がやっとのことで立ち直った矢先に、乗った釣り船が転覆してから。
いつか、僕自身もあの蒼の中に引き込まれてしまいそうで――。
僕はため息を付いた。もう疲れたのだ。いや、本当はずっと昔から嫌になっていたのかも知れない。“生きる”ということに。
母も父もいない。天涯孤独だ。親戚や親友も空爆で死んでしまった。そして復讐というには希薄すぎるどうしようもない静かな怒りと、それ以上に恐怖が残った。
分かっていたのだ。しょうがないことなのだと。
世間にはただの人間にはどうしようもないことや、不条理なことが沢山あって、それに立ち向かおうとしても無駄なのだということは。
だけれど、そうでもしないと。僕の空っぽの心は痩せ細って餓死してしまいそうだったから。だから、僕は海に憎悪を向けた。半ば強制的に。
僕の本能が、生存欲求がそうさせた。でももう、お終いだ。それも。
僕は海の音を聴きながら、そこに数分ほど佇んだ。海よ、君に仮初めの厭悪を抱くのは止めにする。この十数年間、良く付き合ってくれたね。
崩れ落ちるように膝を付く。そして地平線を見つめた。子供の頃の感覚を思い浮かべる。しかし、そこに無限の彼方を想像することは出来なかった。
右手をコートに押し込んで、中をまさぐる。ショルダー・ホルスターに鉄の鈍い触感を覚えた。ボタン留めを外し、それを引き出す。
良く手入れをされたリボルバー。シリンダーには一発だけ銃弾が装弾されている。
僕は銃口を自身に向けると、思い切って腔内へと突っ込んだ。吐き出してしまいたい、そんなことを一瞬思ったが、もう戻るつもりはなかった。
躊躇いがどんどんと大きくなる。これ以上肥大化しない内にケリを付けるべきだ。
ありったけの勇気で引き金を絞る。額から汗が流れ落ちているのが分かった。このリボルバーは撃鉄が上がる際に、チッチッと二回音を鳴らす。
チッ。まず一回目。この次で……僕は脳幹を吹っ飛ばされて死ぬ。ああ、駄目だ。
「ふう!」
大きな息とともにリボルバーの銃口を腔内から荒々しく出す。腋や首筋、額が汗でびっしょりだった。なんという臆病者だ。
僕は更に抵抗が強まってきたのを感じた。これ以上躊躇えば、このお芝居を終わらせることはできなくなるだろう。そうなれば、もはや僕にとってこの世は生き地獄に等しい。
全身が強張る。やれ、やるんだ。ここで終わらせろ。
痛いぐらいグリップを握りしめて、僕は絶叫した。同時に口に銃口を入れて、そして引き金を絞る。
耳元に反響する破裂音が、まるで僕の成功を祝っているようだった――。
【SS―アトガキ】
良く分からんもんになったなあ、というのが率直な感想です。自分でもあまり納得がいっていない作品になりました。
海、といったら怖いもの、と連想して、はてまた執筆中に考えを変えてそれが『僕』にも反映された感じです。何もかも失って生きる、ということがきっと恐ろしく見えたのかも知れません。
では参加させていただいてありがとうございました。また次回などありましたら……。