*白銀は満ちる
るりら、らりら。
湖の畔に少女の歌声が響き渡る。静かに揺れる水面に、星と少女の姿が映っていた。
るりら、らりら。
誰かに呼びかけるように、小高い丘の上から少女は歌を紡ぐ。十歳を過ぎたぐらいだろうか。
るりら、らりら。
白いネグリジェが新月に浮かぶ、真珠のようだ。食べてしまうには惜しい。
るりら、らり――。
声を飲みこむように口を塞ぐ。
「少女よ、喜ぶがいい。この私の所有物となることを」
白銀の翼、赤く鋭い瞳、ごくりと唾を飲みこむ喉。久々の擬態だったが、映る姿に不満はない。
「水龍レヴィアタン。私のことを知っていて、この湖に来たのだろう? 望みを言ってみろ」
まだ初恋も知らないような少女に口づけたのは、少々やりすぎたかもしれない。現に目の前で起こったことを整理できずに、目を見開いたまま固まってしまっている。それを良いことに、少女をじっくりと眺めさせてもらうことにした。
水の中からだと幼く見えたが、もう少し実年齢は高いようで十五、六ぐらいのようだ。人間にしては珍しく、白色の丸い瞳、少しとがった耳、冷たい月のように輝く銀の髪。背も女にしては高い。体躯は枝のように細く、龍の姿で握ればポキリと折ることができそうだ。人間に見えたが、どちらかというとエルフに似ている。エルフも一人しか知らず、ひと眠りする前のことだったからもう生きてはいないだろうが、身体的な特徴はほぼ同じだった。
ようやく現実に理解が追い付いてきたようで、少女の瞳に生気が戻ってくる。それに気を取られていたせいか――頬を思い切り火の玉が直撃した。
「ひっ人のファーストキス勝手に奪わないでくださいっ!」
「なんだそんなことで雑に魔力を使うな。大体そこらの妖魔ならともかく、私レベルの水龍に火の魔術が効くと思ってるのか。せめて雷を使え、落ちこぼれなのか?」
「これでもエルフとの半血種なのよ! 魔力だけは……」
人間とエルフか。どうりで幼い顔立ちになるわけだ。本人的には睨みつけているようだが、ややたれ目なせいか凄みがでない。
「魔力はあるが、扱えない。そんなところか」
むしろ虐めたくなる表情だ。言葉が図星だったようで、視線を泳がせているのも面白い。
「それで、なぜここへ来た。訳もなく歌いに来たわけではないだろう。望みはなんだ、魔力か、富か?」
「……えっとその……ただ来ただけというか」
「大きな声でもう一度言ってみよ」
「ただ来ただけです! 何も知らなくて悪かったですね!」
少女は吹っ切れた様子で色々と話し始めた。人間とエルフの間に生まれたが、母親は魔力を持たない人間で、その母親に育てられたこと。十歳の時にその母親が死んだこと。父親と名乗るエルフに連れられ、魔術学校に編入させられたこと。魔力を使わない生活が長かったせいで、幼児が扱う程度の魔力も制御できないこと。
「はーん、つまり魔力を持った子供たちが家で教わってくることを、ただの人間に育てられたから全く知らずにいるわけか。せめて母親が人間の魔術師ならまだしも、完全な人間だから仕方がないと言えば仕方がないが」
「……それで学校ではいじめられていて。どうしようもなくなっちゃって、夜中にふらふら歩いてたらここに着いたんです。泣ければいいやって思ったんですけど、すごく静かだから久しぶりに歌ってみようかなって」
話し終えた少女の目尻は、少し赤かった。
「あんまりにも成績悪いし、魔力も使いこなせないし。来月の試験に落ちたら退学なんです。父親とは打ち解けられないし、居場所もないからもう死んでもいいかなって。落ちようとしたらあなたが現れてもう滅茶苦茶」
人間との関わりは少なかったが、少女の悲痛な面持ちは伝わってきた。もとより龍族は相手の感情を読むのにも長けている。種族が違っても、それは変わらなかった。
「龍族の中でも、私のように古の時代から生きるものは魔力もけた違いに大きくてだな。気まぐれで気に入った者の望みを叶える代わりに、代償としてその輩が最も大切にしているものを奪うことにしている。どうだ、偶然の産物だが、お前の時間を私にくれてみないか。その魔力は使いこなさず腐らせるには勿体ない。私が直々に鍛えてやろう。古の龍の誇りにかけて、魔術師にしてやる。今のお前は、時間が一番惜しいはずだ」
少女はほんの僅かに躊躇っていたが、こくりと頷く。
「少女よ、名はなんという?」
「リラ。リラ・ファラン」
小さな手を握り、手の甲に紋様を描いていく。描き終えると青い光を放って見えなくなった。
「これで契約は完了だ。これから毎晩、ここに来い。三週間もあれば学校で習う程度のことは全てマスターさせてやるわ」
見立て通り、一度魔力の道筋を作ってやれば簡単だった。二週間前までは制御できなかったのが嘘のように、高度な魔術も扱いこなしている。リラは炎を使った術が得意なようで、今も無数の火矢を湖へと飛ばしている最中だった。
ふと、別の気配を感じた。反対側の湖畔から、何者かが魔力を探っている気配だった。感づかれたことに気がついたのか、気配がふっと消える。ずいぶん前に滅ぼされたと思っていたが、気配は魔族のものに似ていた。
「さて、今夜で契約は終わるとしよう。もう二度とここへは来るな」
「どうして? あと一週間残っているじゃない」
少女だと思っていたが、ふたを開けると生意気な小娘であった。不服そうに火の玉を身体の周りで飛ばしている。
「私のように膨大な魔力を持つと他の魔術師に感知されやすいのだ。普段は水が魔力を隠す壁となるが、こうも長く、毎夜地上にいては流石に気づかれる。人間やエルフの輩なら構わんが、魔族の気配でな。昔に滅ぼしたと思っていたが、そうでもないらしい。近いうちに、望みを無理やりにでも叶えようと、ここへ来るだろう。リラを巻き込むわけにはいかないからな。もちろん、その前に別の場所へ移動するつもりだが」
「ふうん。意外と優しいのね。授業で習った龍族はもっと自分勝手だったわ」
この少女と別れるのが惜しかった、とは言えなかった。知識を与えれば与えるほど、貪欲に吸収し我がものとする才能を無駄にするところだったのだ。龍の独占欲が刺激される格好の材料となっていた。
「じゃ、さよなら。またどこかで会ったときは続き、教えてね」
彼女も何かを察していた節はあったのだろう。すんなりと元の生活へと帰っていく。
でも、ただで手放すのが惜しくて惜しくて、どうしても、契約の紋様を消すことが自分にはできなかった。
綺麗な白銀の満月だった。移動しようと水面に浮かんだ自分を待っていたのは、魔族の大群だった。ざっと見て、二百ほどいるだろうか。そこまで大きな湖ではなかったため、そのぐらいの数が揃えば結界で湖畔をぐるりと囲われてしまっていた。
「ギシシ! 飼いならシて俺たちのしもべにシてやる」
「ほう? 滅びたと思っていたが」
「生き残ったのサ。そシてお前らが寝てる間に元通り。ほら、懐かシいお仲間だ」
鎖で繋がれた黄金の龍が現れた。辺りに響く猛々しい咆哮。雷龍ファフニール。古の龍の一体で、空から降りてくることは滅多になかったはず。
「気になるダろー! お前みたいに契約シて現れたとコろをぐるりと囲って、あとはちょちょイと操るだけ! 簡単すギて馬鹿になっちゃウ」
ケタケタギシシ。品のない笑い声が大きな騒めきとなって広がる。どこか一点を崩し、そこから逃げる以外に方法はないように思えた。リラがいた、あの小高い丘が一番手薄なはず。そこへ向け、まずは巨大な水の塊を投げつけた――。
「ギシシ! やレ! やレ!」
一斉に緑色の矢、風属性の攻撃が仕掛けられてくる。一体からの攻撃なら何も問題ないが、こうも数が多いとじわじわ削られる。さらに雷龍が魔力を貸しているようで、攻撃が当たったところに電流のビリビリとした痛みが走り、体力をどんどん奪っていく。負けじと濡れた地面を凍らせ、氷塊を魔族に突き刺していくが多勢に無勢。突破する前に肉体の限界が来ることが予測できた。
鎖に繋がれ、操られた旧友をちらりと見やる。気高い龍族の誇りはそこになく、暗く濁った瞳は何も映さない。こうなりたくはない。きっと、同じように戦い、瀕死の状態で抵抗することもできなかったのだろう。
攻撃と防御の手を止め、魔力を一点に集中させる。
「ギシシ! 降参シろ!」
魔族の集団がいきり立つ。降参ではない。元の姿には二度と戻れないが、自らを封印してしまえば手出しはできなくなる。他の古龍が狙われるのも時間の問題だろう。自分が魔族の手に落ちないことで、抵抗の余地は大きくなる。魔力で作り上げた結晶に意識を移そうとしたとき、魔族のものとは違う声が聞こえてきた。
るりら、らりら。
「うグぁ?」
魔力を込めた歌声が湖に広がっていく。魔族の作り上げた結界がみるみる消えていくのが分かった。魔術が発動できないのか、彼らは一斉に退却してしまった。
小高い丘にリラが立って歌っている。
るりら、らりら。
歌い終わった後も、その余韻はずっと残っていた。
「ボロボロじゃない。そんなんじゃ、続き、教えてもらえないじゃん」
「まさかこんな大勢いるとは思わなくてな。当に滅びたと思っていたし、ファフニールが手中に落ちているとは思わなかった。肉体は捨てるしかないが、意識は残せる。契約を消していなかったのが幸いしたな」
白銀の鱗も、翼も、月のようで気に入っていたのに残念だ。鱗には赤黒い血液がこびり付き、翼も破れて肉と骨がはみ出している。意識を結晶に移した瞬間、肉体が光となって弾け飛んだ。
恐らく、リラは目が眩んだことだろう。ゆっくりと漂い、彼女の手のひらに収まった。
「綺麗……乳白色なのに透き通っていて、宝石みたい」
『私の魔力の結晶さ。魔力が大きいほど、大きく美しい宝石に姿を変える。契約しているお前なら、いつでも魔力を供給してやる』
「そっか、意識だけになっちゃったから、直接話せないんだ。なんか不思議だね」
ふふふ、と笑って、少女は湖から踵を返す。新月の頃のような大人しい少女も、魔族の気配もどこにもない。
ただ、満月の冷たい光が少女の後ろ姿を照らしていた。
*
睡眠不足の時にタイトルと結末を考えるのはやめた方がいい。
今回の教訓です。