Re: 【SS競作】悪夢の遊戯は緋の薫り【第一回投稿期間】 ( No.11 )
日時: 2014/06/22 10:29
名前: 書き述べる◆KJOLUYwg82 (ID: mZ38alBY)

 男の頸根から牙が引き抜かれる。息の呑む美貌の吸血鬼は、男の腰にかかっていたホルスターから、悠然と拳銃を抜いて後ろに下がっていった。
 未だに情況が呑み込めない。目の前で不安げに図書室の話をしていた少女が豹変し、今まさに恐るべき怪力で男を壁に押し付けていた。そして、月光に照らされた壁から現れた姿見。鏡の裏の世界から現れ、男に牙を立てた、少女の姉と思しき女の吸血鬼――。
 さらには一瞬前まで客間だったはずなのに、今の男の瞳には少女の話と寸分違わぬ光景が映し出されていた。
 唯一違うものと言えば、床一面に描かれた、精緻な装飾を施された魔方陣だった。
 
「わたし達は、禁忌の遊戯に手を染め、吸血鬼となりました」
 唐突に女の声がするなり、男は前を睨み身構えた。男の戒めを解いた少女の吸血鬼が、姉の背後に半分身を隠すようにして佇んでいた。
男の狼狽ぶりを気にも留めず、女は一方的に言葉を続けた。

「私は鏡に閉じ込められましたが、取り込んだ血が尽きる寸前の満月の夜にだけ、鏡から解放されるのです。外に居続ける妹は…そのために、人間を誘いだし――」
  女は言葉を最後まで言うことができなかった。大きな瞳に一杯に不安をためながら見上げる妹を、髪をさすりながら抱き寄せた。

「神がお与えになった最も重い罰は、そこにあったのです」
――最も重い罰?
「身も心も魔に染まっていれば、人を殺めて生き長らえることに何の罪も感じることもなかったでしょう」
 女の声が潤む。
「でもわたし達の中に、人間の心が・・・・・・残されていたのです」

 確かに憐憫を誘う話ではあるが、何故そのような話をするのか、一向に吸血鬼の意図が掴めないでいた。確信できることは一つ――。
 あの吸血鬼は銀の弾丸で、必ずわたしを撃つ。これほど痛快な人間の殺し方などないからだ。
 男がの表情が厳しさを増す。

「これほどまでに純度の高い退魔の弾丸を2発も、さぞや難儀されたことでしょう」
 持ち上げた拳銃を眺めながら、男を一瞥する。
 リボルバーに込められた2発の弾丸はただの弾丸ではない。退魔の魔法を極限まで凝縮する過程で、銀のような光沢を帯びるようになった純粋魔法銀の弾丸なのである。確かに一撃必殺の弾丸だが、莫大な金と時間をかけ、予備の2発目を用意したのだ。だが今、その拳銃はあろうことか吸血鬼の手に渡ってしまっていた。
「でも残念ですが、一発の弾丸に込められる程度の魔法で吸血鬼を退治できたのは、遙か昔の話」
 女が言い終えると、男が更に厳しい面持ちで身構えた。
 女が引き金に指をかけ、瞼を下ろす。それを見て妹が今にも泣き出しそうな声で姉の名を呼んだ。

――何だ、これは。
 床一面に描かれた魔法陣が目映い白光と無数の閃光を迸らせていた。
「但し、この結界の中ではその限りではありません」
 何? 男は訳が分からなくなってきた。
「2発の退魔の弾丸、1発たりとも無駄にはできない」
 男の視線が女の右手に釘付けになる。
「さっき、魔力の一部をあなたに注ぎました。暗闇でもよく見えるでしょう?」
 その瞬間、男は大きな思い違いをしていることに気付いた。

――やめろ。

「あなたは、見届けるだけでいい。人間に戻ろうとした吸血鬼がいたこと。吸血鬼は人間に戻れたこと。私たちの――」
 銃口が女の胸に向けられていた。

「やめろ!」

 相手は魔物だぞ。どこかで声がした。それでも声の限り叫んだ。
「最期の姿を――」
 一瞬の出来事だった。紅く染まった手を呆然と眺める女を前に、男は身じろぎ一つできなかった。
 惨劇はまだ続けられようとしていた。今度は自分の番と、少女は姉の亡骸から拳銃を引き剥がし、銃口を己が身に向けた。だが、彼女の瞳が直径僅か9mmの穴と相見えた途端、小さな体に抑え込んできた感情が一気に弾けた。
 男が、閃光と轟音の中を突き進み、立ち尽くす純白のドレスを抱き抱えていた。男の腕の中で全身が震えていた。それでも、少女が涙と洟みずで変わり果てた顔を男に向けると、右手に握りしめている淡いオーラに包まれた拳銃を、男の胸に押しつけてきた。図書室を蹂躙する稲妻が少女の青白い顔に深い陰影を落としていた。

「わたしを・・・・・・撃ってください」

少女は男が怒鳴りつけようとするのを静かな気迫で遮り、言葉を続けた。
「この結界が消えてしまえば、わたしは・・・二度と死ぬことができなくなってしまう。人の心を持っているのに・・・人間なのに、人の命を奪い続けなくてはならなくなってしまう――だから」
 小さな体躯から発せられた最後の一言は、周囲の轟音を貫き、男の胸に突き刺さっていた。

「わたしを、撃って」

 男の耳から雑音が消えた。瞳から背景が消えた。聞こえるは少女の声、見えるは少女の眼(まなこ)、感じるは少女の右手、冷たい銃身。
 矮小な人間に選択肢は無かった。力を込めて少女を抱きしめる。華奢な体が刹那びくついたが、己の命運を目の前の人間に委ねた今、静かに瞼を閉じた少女の表情は微かにも揺らぐことは無かった。

 瞼を閉じると、暗闇が視覚を支配した。吸血鬼にとって暗闇は空気であり、光であった。でもこの闇はそれとは違う。人間の体温、人間の鼓動、我が身を締め付ける心地よい痛みで満たされていた。

 小さな掌からリボルバーが離れていく。男がそれを右胸の小さな膨らみの脇のあたりに持って行く。退魔のオーラが横溢する銃口を、純白のドレスの生地に微かに触れる程度のところで止めた。少女の肌に金属の感触を伝えてはならない。小さな笑顔を一瞬たりとも崩してはならない。額が唇に触れそうなまでに迫った吸血鬼の顔を、人間が愛おしそうに見つめていた。

 闇の向こうから優しい声が聞こえてくる。途切れがちな声は、少女に最後の指示を与えていた。楽しいことだけを考え続けなさい、と――。

 子供を寝かしつけるように、長く艶やかな黒髪を丁寧に撫でつけていると、少女の体の緊張が少し解れたようだった。目の前に穏やかな笑みが見える。男の左右の目尻から溢れた雫は、下を向いていたせいで、頬を流れ落ちる途中で虚空に放たれ、少女の頬に落ちた。高ぶる感情がさらに涙を溜めている。体の震えを我慢し続けるのも最早限界だった。
――赦せ。
 小さな肩に回した右腕に、我知らず力が籠められる。
 左の人差し指で、トリガーを引いた。

 少女が男の腕の中で悶えたのは、ほんの数秒間。だが永遠に続くかと思われた数秒間。男は銃を投げ捨て、咆哮し、少女を両腕で力の限り抱きしめ続けた。そうすれば彼女の痛苦を自分が代わりに受けられるかのように。心が枯れ果てるまで、続けていた


 葉擦れの音で男は目を醒ました。男は少女の遺体を抱きしめたまま窓辺に行き、その下で力尽きていた。
 ふと前を見やると、少女の姉の吸血鬼、いや、命と引き替えに人間に戻った女性の亡骸が、漆黒のドレスに包まれて横たわっている。男が悲痛に暮れようとしたとき、黒衣の袖の裾が揺らめいたように見えた。男が腕の中の少女の遺体を抱きしめ、息を止める。
 見間違いではない。黒衣の女性は、自ら弾丸を撃ち込んだ傷口を、左手で押さえながら、覚束なげに起きあがっていた。裾から滴るものは何もない。
 二人は目が合うなり驚きの表情を露わにし、喜びの言葉を短く交わした。そして申し合わせたように、最後に残された一人を見つめていた。

 純粋魔法銀は純粋な魔法であるがために、魔の力にしか効果を発揮しない。件の姉妹は「神罰」が故、魔物としては不純な人間の心を残されていた。弾丸は皮膚を食い破った瞬間、本来の魔法に戻り身体中の魔気を滅すると、元々実体がないため、他を傷つけることなく消えさるのである。そして、後に残されたものは――。

 男の胸に、自分のものではない鼓動がゆっくりと、徐々に速く力強く響いてくる。純白のドレスの胸のあたりが大きく膨らんだ。漆黒の髪に覆われた頭が男の胸の中で蠢き、深い夢から醒めたかのように暫し呆然と虚ろな目で男の胸板を見つめていた。不意に頭上から、男の嗚咽が聞こえてくると、少女が両眼を満月のように見開き、上を見上げた。
 男は精一杯抱擁をしていた。少女が笑顔の合間に顔を顰めているのもお構いなしだ。
――主は、これを見越されていたのか。
 姉が窓の方に跪き、右手で十字を切った。心に雪崩れ込む思いを目尻から溢れさせ、天への感謝と畏服の念を唱えていた。
 男は壁にもたれたまま、少女の背中で両手を組むと静かに一言、主を祝福する言葉を述べた。
 少女は窓の真下から深更の夜空を見上げていた。純白のチュールヴェールのような柔らかな光が、少女の顔をより一層白く輝かせる。
 温かな肉体、心臓の鼓動、夜空が黒く、月の光が白く見える世界――。少女は、今この瞬間に悦びを感じていた。
 そして、光りを湛える眼を細めると、小さく呟いた。

「今夜は、なんて綺麗な満月なのでしょう」