題目【愚かな男】
もしこれが、一つの書物として綴られていたのなら。
そう考えて私は、自分の考えに少し呆れたりもした。
一つの書物として綴られるこの話は、仮に読みたいと思えるような書き始めであったとしても、読み進めていくうちに主観性から客観性に視点が変わり、読み手は読むことに疲れ果ててしまうだろう。そういった情景が、私には当たり前のように想像できてしまえたからだ。
それでも、私はありのままに綴るだろう。
脚色も誇大もない、そんなありのままを。
――ようこそ、屋敷へ。
そう言って私に微笑んだ白い少女が、楽しそうに、怖がらせるように私に語りかけた、作り話ともとれる噺。幼い少女の戯れで思いつくような話ではないと、その内容にうすら寒さを感じたりもするが、所詮子供の戯言だなと私は強がって口にした。
「あら、先生はこの手の噺は信じない人なのかしら?」
くすくすと白い少女は笑った。細められた両目の、睫毛の長さ。肌の白さ。黒曜たる髪の滑らかさ。幼いながらも大人の色気が垣間見え、目のやり場に困る。
屋敷に通された私は、人の気配が無いただ広いだけの空間に背筋を冷やした。招待されたのはこれが初めてと言うわけではない。現に、少女は私を「先生」と認識しており、私の肩書としてはそれが言い得て妙だからである。ただ招待されたのが私一人というのは、今回が初めてだ。そして、突如語られた怪談噺。何を意味するのか分からないが、この手の噺は私の性分か、恐怖と並んで興奮にも似たような感情を覚えた。
私は少女に案内され、居間に足を踏み入れていた。薄暗い居間には赤いソファが二つに、木製のテーブル、壁には大きな等身大の鏡が備え付けられている。ここは一階だが、二階、三階と続く階段も見えた。二人だけでは寂しいほどに広いこの居間で、私は少女と向かい合うようにテーブルの前に座っている。
――ねえ先生、この森の、この屋敷の、昔からある噂。
椅子に座るや否や、少女は巧みな怪談話を私に語った。内容は抽象的であり、どこまでが事実なのか計り知れない。ゆえに人間の恐怖心を煽るのだろうが、私は動揺を隠し、出された紅茶を一口傾けた。
「信じるも信じないも、抽象的な噺はどうも苦手でね。それなら事件のあった場所で起こる怪奇事件の方が何よりの信憑性を持つ。私はそちらの方が夜も寝られないほど怖いよ」
「あら、それはなに、事実が無ければ信じない、と言っているのかしら」
「冷めたかい?」
言って少女を見ると、少女は小さな頭を振って微笑んだ。
「いいえ、先生はやっぱり先生なんだなと、再確認できたわ」
それは素直に嬉しいと感じてもいいのだろうか。その笑顔の裏に何か隠されてる気がしてならないのは、物書きとしての期待か、ただの疑心暗鬼か。
「それなら先生の言う、事実からくる怪奇を聴かせて頂きたいものだわ」
そう、少女はにっこりと笑う。
この質問はむしろ期待していたからか、私は記憶を手繰り少し興奮気味に話を始めた。
*
高級住宅街のある屋敷に突如として響いた悲鳴。
「早く下りてきて!父が殺されてるわ!誰かが入ってきて殺したのよ!」
この呼びかけは娘・リジーのものであり、同じ屋敷に居たメイドに向けられていた。メイドのサリバンが駆けつけると、そこにはリジーの父親であるアンドリューが頭を割られ、1階の居間のソファーに横たわっていた。
後の解剖によると、アンドリューは、顔面と頭にオノを11回叩き込まれ、鼻が削がれて頭蓋骨は砕かれ、左目の眼球は二つに切断されて顔から飛び出していた。
すぐに警察に通報し、医者も呼ばれた。警察が駆けつけ近所は大騒ぎとなった。屋敷内に人がごった返す中、メイドのサリバンは、妻アビーを探しに上の階へ行くと、今度は2階の寝室で妻アビーの死体を発見した。鏡の前でうつ伏せになって倒れていた。
この事件は、残虐な手口からマスコミも大々的に報道しており、世間の関心も高い事件となっていた。両親を亡くしたリジーに世間は同情的であった。
しかしその一方で、この殺害現場である屋敷には幽霊が出るという噂が立ち始めた。屋敷から不気味な男の声が聞こえたり、妙な人影が目撃されたりもする。あれから100年以上も経った今、犯人が捕まらなかった未解決事件というだけではなく、惨劇となった屋敷の方は屋敷の方で、不気味な心霊スポットとして有名になっていった。
「リジーへ。昨日の夜、僕に話しかけてくれたのはリジーですか?――誰だっていい。ありがとう。」
「猫の泣き声が聞こえて、3階から足音が聞こえてきた。」
「部屋に入ったら、壁にかけてある写真が落ちた。」
「夜、猫の泣き声が聞こえた。ここには猫はいないはず。」
訪れる人訪れる人、一様にそう語っている……――。
*
「しかしね、サリバンも語っていたが、警察やマスコミは一つだけ不可解に思ったことがあったそうだ」
人間が生きている中で一番生命に繋がる機関である血管、二つの死体には一滴も流れていなかったというのだ。ソファやドレッサー、彼らが倒れていた箇所は不気味なほど綺麗だったと言う。
話し終えた私は、渇いた喉を潤すために残りの紅茶を傾けた。
反応が気になり向かい側に座る少女を見やると、少女の顔には少し影が落ちていた。私が見ていることに気付くや否や、たちまち表情を和らげる。
「素晴らしいわ、わたしの尊敬する先生のお話は、どの話を何度聞いても新鮮で好きよ」
そこまで称賛されて、浮かれない物書きなどいるのだろうか。私は少し絆され、少女の言葉を素直に受け止めた。
「それで先生、食事は既に済まされたのかしら?」
と、唐突にそう訊かれ、少女の含みのある微笑みに胸が鳴る。先ほどの和んだ空気はどこへやら、私を包む空気は一変して固まった。
食事は――済ましてある。
「……ああ、すまないね、田舎の味が恋しくなったものでね」
視線を少女から外し、紅茶を飲む。どれ程緊張していても紅茶は喉を潤した。
動揺を見せては変に悟られる。いや、そもそも動揺しているのが可笑しな話だ。
「田舎の味、ね。それはつまり、懐かしい味よね? 美味しかったかしら?」
そう顔をのぞかれ、汗が不自然に背中を流れた。
なぜそれを尋ねるのか。少女の質問の意図が見えない。いや、そもそも意図などあるのだろうか。他愛ない雑談だったらどうする。模索するだけ時間の無駄だ。分かっている。分かってはいるが。
私は水分の飛んだ唇を遠慮がちに舐め、苦笑をこぼした。
「それは、まあ……久々だったものだからね、格別だったよ」
「へぇ、そう、格別だったのね」
少女は紅茶を優雅に飲み、カップの縁を指で拭う。薄く笑う赤い唇は、薄暗いこの広い居間で、くっきりと存在を示している。
「先生?紅茶は美味しかったかしら?」
含みのある言い方だった。
それだけで私の動揺は煽られ、じっとしているのが出来なくなっていた。
「――……いつから?」
愚問とも思われた質問に、しかし少女は待っていたとばかりに微笑む。
「最初から」
そうして、少女は私に右の方の腕を差し出した。
着ている服とはまた違った、透明感のある白さ。綺麗な指先。青い筋。細い首。紅桔梗の混じった瞳。笑う小振りな唇から覗く鋭利な牙。
――そうか、それなら、納得がいく。
今回私が一人、この屋敷に招かれた意味を。『おいでください、お茶を用意して待っております』との招待状が私だけにしか来なかったその理由を。
私は緊張のあまり喉を鳴らした。口の中がからりと乾いている。喉が引き攣り、痛みに似た違和感を覚える。ああ、そうだ紅茶は。カップには申し訳程度の紅茶が存在を主張している。先ほど、全て飲んでしまったのだった。
ふと、私の座っている位置から見える、等身大の鏡に目が入った。角度にして少しだけこちらを向いている鏡に映るのは、少女の背中だけだ。私は仄かに、自嘲的に笑った。それに少女も合わせるかのように優雅に微笑む。
「先生が此処に居る理由も、先生が先刻わたしに語った噺も、逆にわたしが先生に話した噺も……全部、そうね、予定調和、とでも言っておきましょうか」
わたしがそう、仕向けたのだから――。
そう言った少女の赤く沈んだ瞳には、私が移っていた。はっと目を見開き、辺りを見渡す前に思い至る。そうか、と治まる胸騒ぎの意味を感じとる。
私の、負けか。
そうして、降参の意を取るように、少女の右手を取った。その白く細い手首に口を寄せる。
「――んっ」
少女の苦悶の声を聴きながら、私はその至福な味を、口に流れる甘い蜜を、心行くまで堪能するとした。
夢中になってる私の耳元で、少しだけ苦しそうにしてる少女の甘い声が、夢うつつであるかのように言葉を紡いだ。
「……今宵は、なんと綺麗な満月なのでしょうね」
*