Re: 【雑談歓迎?】藍色蓮のダイアローグ ( No.472 )
日時: 2017/12/03 13:25
名前: 流沢藍蓮◆50xkBNHT6. (ID: E6m5iw1E)

*自分のキャラを殺すとき~藍色蓮のモノローグ~
*支離滅裂文章注意?
 なんとなく考えてみたこと。
 今思えば私って、自分のキャラを殺しすぎているんですよね。
 「夜明けの演者」では7人、「Destiny Game 運命遊戯」では16人(予定)。みんながみんな、満足な死に方をするわけではなく無残に死ぬキャラだっている。
 私は自分の作ったキャラを愛しているけれど、それでもあえてモブみたいな殺し方をすることもあります。
 どうせ死ぬのならば何よりも輝かせて死んでいってもらいたいな、なんて思っていますが、そうはいかない事情もあるんだなぁと。
 自分のキャラに「錯綜の幻花」エクセリオというキャラがいますが、彼は己の持つ圧倒的な力と引き換えに、16歳まで生きられないという定めを負っています。まだその場面は書いていないし当分それは「断片」扱いなので表に出ることはないでしょうが、私の創作の中にはこういった、「あらかじめ死ぬことを決められたキャラ」がたまに出てきます。

 「夜明けの演者」で主人公に連なる重要なキャラを殺した時、特にこれといった感慨は湧きませんでした。「このキャラが死ぬ」と最初から決めていたせいでしょうか。ただそのキャラの死に様を美しくする事ばかり考えて、彼を殺した時は「ああ、死ぬべきキャラが予定通りに死んでくれた」くらいしか思いませんでしたね。
 私はプロットが細かく立っていないとしっかり小説を書けない人間です。そこには「このキャラはこうやって死ぬ」とその話を書く前からすでに決めていることがほとんどで、だから自分の小説上でそのキャラを殺しても、「予定通りにいった」と思うだけで何も感じないのかなぁと。
 あ、でもプロット立てている段階では違いました。私のプロットはキャラの重要な台詞まで書き込んである細かいもので、私はプロットを立てるとき、「もう一つの小説を書いている」気分になります。キャラを殺すときはプロットの分量が一気に増えます。そうしてあるキャラを殺した時、思ったんですね。
 「あなたは立派に生きた」と。
 そのキャラはもう更新止まって久しい作品の中に出てくる重要キャラで、味方を裏切った挙句、裏切り先の仲間に怪物にされてかつての仲間に殺される、といった悲劇的な結末をたどるのですが、その場面を書き切った時、感慨のようなものを覚えました。

 自分のキャラを殺すとき、やはり私は何かを感じます。それは「やりきった」という達成感が多いと私は自己分析しました。これまで自分がずっと書いてきたキャラの生に自分の手で終止符を打つ時、「私はここまでこのキャラをずっと描いてきたんだ」という達成感を感じます。先程の悲劇的な結末をたどったキャラをプロットの中で殺した時も、確かにそう思いました。
 私は特に考えないで、なんとなくで自分のキャラを殺すときもあってその時は何も感じませんが、しっかり考え抜いた末にキャラを殺.せば達成感を感じます。キャラの死はすなわち一つの物語の終わり。「そのキャラの物語を最後まで書き切った」という風に感じるのでしょうねハイ。物語を一つ完結させるのには多大な労力が要りますが、キャラをしっかりとした場面で殺した時も本当に疲れました。それは物語を書き切った感覚とどこか似たようなものを感じるからなのでしょうかね。

*そんなことを思った、藍蓮のモノローグ