こんばんは。はじめまして。
指定された最初の文章から物語を考えていくのが面白そうだったので、思いきって参加しました。
ちょっと長くなってしまいましたが、よければお付き合いください。
今日、全てのテレビ番組がある話題について報道していた。
もちろん新聞も、週刊誌も、電車の広告も、数日前からその話題で随分と盛り上がっていたので今さら驚くこともない。しかし窓の向こうを見やれば、近所の女子中学生二人組が初雪を喜ぶこどものようにはしゃいでいる。
「今年もちゃんと降ったね」
台所で黙々とお弁当を詰める母は、僕の何気ない一言にふん、と鼻を鳴らした。
「うるさいったらありゃしない。大人しくしてられないのかね、あの子は」
一応、この超常現象も我が家では喜ばしい出来事のはずなのだが、如何せん日本中、いや世界中を巻き込むような規模の大きさなので、掃除とやかましいことが嫌いな母には世界で一番煩わしい現象かもしれない。
「姉ちゃんってば、0か100かしかできないからな」
僕は苦笑いでカラカラと窓を開けた。土砂降りとまではいかないものの、既に道路が見えなくなるくらいには降り積もっていて、雪かき用のスコップが必要だな、と思う。
「ちょっと、家の中にいれないでよ」
母の声が、こつんこつんと窓や壁を叩く音で少し遠い。
僕はそっと目を閉じて、幼いころ雪を食べたように口を大きく開けて、上を向く。流れ込むように口の中に転がったそれを、がりりとためらいなく噛み砕いた。
*
「かなこさんを僕にください」
黒いスーツをぴっちり着こなした男が玄関で正座しているのを、中学一年生だった僕は部活帰りに見つけてしまった。
姉の彼氏か、と見当をつけることができたのは、その隣に姉の姿があったからというよりも、男の頭の両側についた大きめの耳と、スーツからはみ出たわたあめのような尻尾を見たからだ。尻尾は数える限り七つも八つもある。過去最多ではないか。
人の趣味に口を出す気はないが、姉はどうにも昔からふわふわの「耳」と「尻尾」が好きで、今まで家に連れてきた彼氏はもれなく全員にそれらが生えていた。そして頑なに人を入れようとしない自室にそういう男の人が描かれた漫画やイラストが沢山あるのを、僕は知っている。
夏のそよ風にふんわりと揺れる尻尾たちを、育ち盛りの飼い猫が追いかける。その稲穂のように美しい黄金色の毛並みに、僕はそっとため息を吐いた。
「今度は狐かあ」
狐は姉が一番好きな生き物だ。
姉が彼氏を連れてきたときに必ず僕がする「その尻尾、どうやってつけたんですか?」という質問に、狐男は律儀に「元々ついています。よければ見ますか?」とベルトに手をかけるので、僕は慌てて「いや結構、汚いもん見せるな」と断りを入れなくてはならなかった。
丁寧に撫でつけた七三分けの黒髪に切れ長の金の瞳が満月のように冷たくて、どうも近寄り難い印象の男だ。かと思えば正面からみても存在感があるふんわり尻尾を器用に動かし子猫を遊ばせているので、几帳面なようにみえて案外ちゃめっ気のあるタイプなのかもしれない。いや、そんなことは別にどうでもいいのだけど。
「はいはい、お茶どうぞ」
盆に四人分の麦茶を乗せた姉は、ガラスコップをそれぞれ渡していく。狐男に向かってハートが飛びそうな甘い声で「はぁい」と視線を合わせていくのでげんなりした。
僕の隣で一口麦茶を飲んだ母は、食卓に向かい合って男の一挙一動に警戒する僕とは違って冷静だ。
「それで…かなこと結婚したいとか」
母の声は静かで、たとえば僕に友だちと喧嘩した理由を尋ねるような声だった。僕はやましいことなど一つもないのに、条件反射でさっと目を下に向けてしまう。隣で母がどんな顔をしているのか、そして狐男と姉が母にどんな顔で対面しているのか、恐ろしくて見ていられない。できることならばそっと自室に戻りたい。
「はい。かなこさんを、僕に下さい」
恋人の家で、恋人の家族に対面しているとは思えないフラットな声で、狐男はそう答えた。僕が感じているこの居心地の悪さと訳の分からない罪悪感を、この男は何一つ感じていないようだった。
かなこさんを、ぼくにください。かなこさんを、ぼくにください。かなこさんを、ぼくに。ウインドウズのスクリーンセーバーのように頭の中で反芻するその短い文章が、溶けてばらばらになる程に長い時間だった。少なくとも僕の中では。
「訳あって」
沈黙を破ったのは姉だった。
「訳あって、彼の身分を明かすことはできないし、彼と結婚したら二度とこの家に帰ってこられないの」
僕の姉はちょっと変わった人で、昔から幽霊だとか神さまだとか、そういった向こう側の友だちが多かった。彼氏は絶対に尻尾があるし、親友はキリンよりも長い首を持っている。お盆に父さんを家に連れて帰るのも姉の仕事だった。
気づいたらどこにもいなくて、何度も姉を探した。不安で、泣いて名前を呼ぶと、姉はいつも涼しい顔でひょっこりとうちに帰ってきた。
「私、彼に幸せにしてもらおうだなんて思ってないのよ。私は自分を幸せにするために、彼と結婚したい。たとえこの家に帰ってこられなくても」
僕は、心のどこかでこんな日がくると分かっていたのかもしれない。見えないものと仲がいい姉は根無し草のようだから、僕がこの手を繋いでいなければならないと思っていた。でも、そもそもここは彼女の居場所ではなかったのかもしれない。もともと心も体も「あちら側」に近いひとだったのだ。
母は隣で息を吐くようにそう、と呟いた。それはいつもの母で、仕方の無いことばかりする姉に、心底呆れ返った時の声だった。
「だめ、なんて言えないね。かなこはかなこのものであって、私のものではないから」
「母さんらしいなぁ」
姉の笑い声に、僕はようやく視線を上げることができた。にっこり笑うとえくぼが浮かぶ屈託ない笑顔は、いくつになっても変わらないままだった。よかったね、と笑いかけられた男の目元が少し細まったように見えて、ああこの男は姉が好きなのかと、ようやく実感が伴ってきた。
「心配するでしょうから、何か毎年贈り物をするわ。おいしいものがいいね」
「そうだな。向こうにはうまい食べ物がたくさんある」
そう言ってはにかみあった二人の手がテーブルの下で繋がれているのを確信して、僕はちょっとした寂寥感に見舞われた。そしてようやく、絞り出すように「おめでとう」と言うことができた。
*
こつこつ、こつんと金平糖が辺り一帯を叩いて跳ねて転がっていく。
かわいらしい色の小さな粒は、正直言うとやりすぎなくらい降っている。かろうじて交通機関に影響は出ていないらしいが、我々が使う生活道路は絨毯を敷いたような有り様だ。今降っている信じられない量の金平糖を清掃するために浪費される税金は計り知れない。この現象を見るために世界中から観光客や研究者が集まってくることで、一定の経済効果があることが唯一の救いだ。羽振りがいいと言えば聞こえはいいが、後先のことを考えずに行動するところがいかにもあの夫婦らしい。
「馬鹿な子だと思っていたけど、まさか実家の住所まで忘れるなんて」と母が言ったのは、姉から派手な贈り物があった最初の年だ。僕は空から降ってくるたまごボーロに全身を打たれながら、壊れたように笑った。笑うしかなかった。
「去年はラムネ、一昨年は金太郎飴、その前がキャラメル、ボーロときて、来年は何を降らせようっていうのかね」
「いちご大福がいいなぁ」
空からいちご大福が降ってくると、恐らくとても痛いだろうけど。
たそがれていないで学校行きな、という母の声に窓を閉めようとして、ふとカラフルな道路を右往左往する黒い四本足が目に入った。
そういえば、姉が嫁に出てから家の近くをよく狐がうろついている。もしかして様子を見に来ているのだろうかと思い、僕は人目もはばからずにおおい、と呼びかけた。狐は僕の声におおらかに振り向いて、つんとした表情で僕を見つめた。その涼しげな目元が義兄にそっくりだと思った。
「あのさあ、姉ちゃんに伝えてくれる?」
狐は何も言わずに、ただ先を促すように尻尾をゆるりと振った。
「来年はいちご大福がいい!生クリームが入っているやつ!」
狐はうんともすんとも言わずにその場でくるりと回転すると、まるでまぼろしのようにふうわりと消えてしまった。