彼女はいつもと変わらない、甘い匂いをまとっていた。血のように鮮やかなドレスはおおきく胸元が開き、豊満な胸があらわになっている。美しくくびれた体のフォルムを見せつけるかのようなドレスに、会場中の男が目を奪われていた。
私は良くも悪くも平凡な顔立ちであるので、彼女が嬉しそうに駆け寄ってきたのを、少し疎ましくさえ感じてしまう。彼女は私と青春を捨て合った仲だった。今はどこかの大きな会社の役員と結婚し、こうして大きなパーティを催している。男達の視線が注がれていた。大人になり、同性にも憧れをもたせる魅力を手に入れたのか、視線の中には女性のものもある。
「久しぶりね。楽しんでる?」
「いいや、今楽しみが終わったよ。君が来てしまったからね」
甘い匂いが鼻腔をいっぱいにし、先程まで口にしていたワインの香りが遠のいていく。彼女は、いつもそうだ。素晴らしい体験を、経験を、瞬間を、何よりも早く奪い去っていく。
彼女は気がついていないようであるが、それはたしかに私の心を締め付け、失われた時間を取り戻そうと躍起にさせた。彼女が気が付かない原因は、私にもある。だからこそ、私と彼女は上手くいっていたのではないかとさえ思うのだ。
「別に私が知ってる人ばかりじゃないわよ。ほとんどがあの人の知り合いとか取引相手」
役員だもの、みんなが媚を売りにくるのよ。
ボーイからシャンパンを二つもらいながら、つまらなさそうに彼女は言った。どこか恨めしそうな視線の先、会場の中央あたりでできた人だかりの真ん中に男はいる。
ふくよかな腹と頬だけで、男がどれだけ裕福な暮らしをしているかが分かった。彼女は謙虚に役員というが、実際には御曹司である。ちらちらと視線をよこす彼女の夫は、私が呼ばれた理由も、私が彼女と親しい関係だったのかも伝えられていないらしい。
「いい玉の輿じゃないか。私といるより、はるかに安定してる」
「もう……そうでもないわ」
人工的に作られた鮮やかな赤が、結ばれた。何かを考える時、彼女は口をゆるく結び、今のように私の顔をじっと見る。言葉を選ぶのが下手な彼女には、常人よりも長い時間を与えなくてはならない。
慣れない生活、理解されない気持ち。そんななんてことないものに、彼女は押し潰されかけているのだろう。けれど手を差し伸べることはできない。私と彼女は既に他人で、彼女を助けるのは夫の役目だからである。
「……子供の予定はあるのかい?」
シャンパンを飲み干し、黙りこくった彼女に声をかける。驚いた顔をした彼女だったが、すぐに自嘲しているような笑みを浮かべた。私は頷く。私たちの間に、余計な言葉は要らない。
夫に呼ばれた彼女は名残惜しそうに微笑んだ後、大きな輪の中に溶け込んでいった。まざまざと突き付けられる現実は、いとも容易く私達の過去を塗り潰していく。輪の中に取り込まれたとしても、彼女の美しさは群を抜いていた。彼女には深い赤が似合う。それを教えたのは私だった。
やるせない気持ちを埋めるために食事を楽しみ、慣れたリップサービスをしていれば、パーティーは終わりに差し掛かっていた。最後に食べたショコラの心地よい苦味。
彼女の夫が両手を広げて話すのを無視し、一足先に外へと出た。冷たい夜風はパーティで火照った体に、心地の良さをもたらす。呼ばれると思っていなかった場に呼ばれたこと、美しい彼女の姿を見てしまったこと。そのどれもが、私を浮き足立たせる要因だった。
彼女が子供を産めない体にあることが、唯一の救いだった。彼女の中から出てくる、意思を持つ動物は見たくない。それがたとえ彼女にとって絶望の淵に立つような辛苦の原因であったとしても、私が最後に一つ、彼女に出来た孝行だった。
アルコールで火照った体が、また、内から熱を産んだ気がする。思えば、彼女との出会いは必然で、別れは偶然の産物だったのだろう。大きな川沿いにあるベンチの一つに腰掛け、葉巻に火をつける。彼女とは違う、違和感の残る甘い匂いが、周囲に広がる。
暗闇に揺蕩う灰色の煙が、雲を醸しているかのように感じてしまう。外は雲一つない好天で、大きく欠けた月が夜道をうっすらと照らす。その光が私の前ではぼんやりと色味を失い、雲の中に消えてしまった。
葉巻独特の香りと共に吸い込まれる甘い匂い。吐き出した煙も、独りでに揺蕩う煙も、その全てが甘い。葉巻を吸うことは、彼女と別れてから一度もなかった。そもそもが、彼女に勧められてから吸い始めただけで、出会わなければ吸うこともなかっただろう。
甘い匂いを吸い込む度に、彼女の事が思い出されていく。初めて会ったのは、いつだったか。たしか父が仕事の同僚と飲みに行き、意気投合してからだったはずだ。彼女は親に連れられて、寒い冬の日に私の家へと招待された。透き通るほど美しいブロンドの髪に、雪が積もっていたのを覚えている。その瞬間に、彼女に惚れてしまったことも。
それからは週に何度も手紙のやり取りをした。好きなもの、好きな遊び、学校での愚痴。そんな他愛もない話から彼女を知っていく体験の一つ一つが、子供心に幸せだった。彼女の事を、私が一番知っているとさえ思ってしまうほどに。
別れたのは、いつだっただろう。私が州立大学に入り、私立大学に彼女が入学した時だったか。肌を重ね合わすことがなくなり、そうして、全てが終わった。最後に肌を重ねた日の、彼女の涙。罪悪感と切なさから逃げるようにその場から消えた私を、一体どんな気持ちで彼女は見ていたのだろう。
既に知ることは出来ない彼女の気持ちすら、今の私を惑わせる。