彼女はいつもと変わらない、甘い匂いをまとっていた。どこにでもあるマンションの屋上にて、時は深夜、今夜もまた僕は彼女と何回目かも分からない逢瀬を交わす。冷たい風がまるで僕達を歓迎するかのようにひゅるりと吹く。煌めく星々は夜の闇の深さと孤独をいっそう僕達に自覚させた。季節はもう冬だった。
「貴方は変わらないのね」
僕の目を見て彼女は静かに笑う。僕が今考えていることを彼女は知っているんだろうか。その黒々とした死んだ魚のような目から彼女の今の心情を図ることは僕には出来ない。いや、きっと僕は誰の心情も一生理解することは出来ないんだろう。僕はそういう"生き物"で、そうやって生きていくことしかできない。よく君はそんな僕のことを空気が読めない、といって笑っていたっけ。懐かしい思い出だ。君こそ全然変わってなんかないさ、そう返すと彼女はいいえ、と言葉を続ける。その顔には自嘲的な笑顔が浮かんでいた。
「私は変わったわ」
「…………」
「……いや、変わってないのかもしれない。私は変われなかった。変わりたい、って思っていたのに変われなかった。嫌なところだけが残ったどうしようもない人間になってしまった」
その言葉で僕は思い出す。君と初めて会った夜、あの時もこんな寒い夜だったことを。あの夜、僕は星空を見ていた。小さな君がわんわん泣くのを僕はじっと目の前で見ていた。子供の慰め方なんて知らなかったから、僕は君が泣き止むまで、ずっと黙っていた。泣いている君からは、とても甘い匂いがしていた。しばらくして泣き止んだ君は、僕の顔をじいっと見てを呟いた。
「おにいさんはおなかがすいてるの?」
「そうだよ。だから君なんか僕はすぐに食べてしまえるんだ、こんな所に出てないで早くお家にお帰り」
ちょっと脅かしてやれば、すぐにどこかへ逃げてしまうと思った。嘘ではなかった。この場から立ち去らせなければ、彼女の身が危なかった。きっと怖がってくれる。このくらいの子供はみんなそうだ。経験から僕はそう確信していた。だけども彼女の反応は違った。
「……わたしを、たべて」
それは懇願だった。苦しくて、苦しくて仕方がないので、どうか終わらせてくれ。そんな歳に似合わない哀しい響きを持っていた。あの頃から今と変わらない死んだ魚のような目だった。子供の癖になんて目でなんてことをしているんだろう、なんて柄にもなく、この少女のことを不憫に思った。だから僕は彼女に言った。
「"君が大人になったら、食べてあげる"------------貴方、確かにそう言ったわよね?」
「…そう、だね。覚えている。忘れるわけないよ、君との約束だから」
「今がその時よ。私を食べて」
あの時と同じ台詞を、あの頃から変わらない死んだような目で吐き出す君。まだ、あの頃は子供の戯言だと笑って流すことが出来た。例えその中にあるものが"本物"だったとしても、冗談にしてしまうことが出来た。
だけどもう冗談にするにはあまりにも時間が経ちすぎてしまった------------笑えない。君のその"思い"を笑うことなんて。
僕には。
「…本当はもっと早く食べて貰いたかったのを今日まで待っていたのよ?おかげで随分と私は"汚れて"しまった。なるべく綺麗に終わりたかったのに」
「…………」
「こんな月夜がよく似合う美しい貴方の一部になれるなら、私のこの地獄みたいな人生も少しは良かったって、思える気がするの」
「………嫌だ」
「今夜は月がとっても綺麗ね。"死ぬ"のにとっても良い……」
「…………嫌だよ、僕は、君を食べたくない……」
くすっと笑う君の瞳には、情けない顔をした僕の姿が写っていた。眉は垂れ下がり、顔は泣きそうに歪んでいる。こんな姿のどこが美しいっていうんだろう。僕にとって、この"姿"は僕が"僕"であることの象徴であり、決して赦されることのない罪だ。それを、それを美しいだなんて。
「そんな顔しないで。私、貴方に会えて幸せだったわ」
「……嫌だ……嫌だ……」
「……貴方に出会わなくても、きっと私はこうしていたの。だから、最期が貴方と共にあることが出来て本当に幸せ」
「…………止めてくれよ……僕は、もう、失いたくない…………」
「さようなら----------------×××」
君と出会ってから×回目の夜。それが僕と彼女の最期になった。冷たい風がひゅるりと吹いて僕達を歓迎している。風は彼女を連れ去った。僕が決して行くことの出来ない場所へと。一際強い、甘い匂いが、僕を包む。まるで僕を抱き締めるかのように。優しく。
約束は、守らなければいけなかった。それが彼女の生前の望みだとするならば。
「------------------ッ!!」
酷く甘い匂いのする"ソレ"は、薫りと違って、とてもほろ苦かった。それでも僕は"ソレ"を口に含んだ。実に数百年ぶりの"食事"だというのに、喉に通らず、ちっとも美味しく感じなかった。
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昔々男は女と恋に落ちました。相手は三つ編みの女でした。彼女は彼にとても尽くしました。彼も彼女を愛していました。けれども空腹を満たすことは出来なかったので、彼は彼女を食べてしまいました。彼女は知っていました。だから彼女は逃げませんでした。彼と一つになれることを彼女も望んでいました。最期の瞬間、彼女は笑って、彼は泣いていました。食べても、食べても、味なんて感じませんでした。彼女のいた場所には甘い匂いだけが残りました。
数百年の時が経ちました。
彼は一人の女の子に会いました。彼女は"彼女"とよく似ていて、そして-------
--------酷く甘い、"血"の匂いがしていました。
*二回目も参加させて頂きました。羅知です。今回はかなり文章を書くのに手こずったのですが、迷った末に恋愛ファンタジーになりました。ほとんど勢いだけで書いたので、粗の目立つ作品になってしまってないか心配です……。前回の反省点を生かし、今回は心理描写にとても気を使いました。凄く楽しかったです。ありがとうございました。
*吸血鬼と"一人の"女の話