彼女はいつもと変わらない、甘い匂いをまとっていた。
薄紫色の霧に覆われた世界にまた、彼女はそこに現れる。薔薇の香水のような甘い匂いが僕の意識を朦朧とさせる。酒類による酩酊とは少し違う、頭がくらくらとする心地よさに僕の目は、耳は、鼻は、たちまち鈍くなって目の前の景色が霞んでしまう。
すりガラスの向こう側の世界にいるかのように、彼女の輪郭はまたもやぼやけてしまう。右手を伸ばすと彼女の煌く髪に手が触れる。滑らかな感触を指で楽しみ、この蜂蜜色の輪郭は彼女の毛髪であったことを知る。彼女の首元に手が届く。とても、温かい。
彼女が、笑ったような気がした。顔は見えない、いつもそうだ。霧が薄い日でもなぜか彼女の顔は真黒く塗り潰されていて、僕は彼女の尊顔を拝んだことは無い。声にしてもそうだ。彼女の声も聞いたことがない、今も聞こえなかった。けれど今、僕が首を触れた後に肩を少し震わせたのが、どうにも笑いかけてくれているように思えてならなかった。
「××さん」
その声は紛れもなく僕の口から飛び出ていた。どうしてそう呼びかけたのかは分からない。だけど、不意に飛び出したその名前は、彼女の名前だということは疑いようもなかった。しかしすぐに考える、今僕は彼女に何と言って呼びかけたのだろうか、と。
ああ、まただ。彼女のことを何一つ知りもしないまま、別れの時間がやってくる。分かるのだ、別れの時間は決まって、この甘い匂いが感じ取れなくなるその時だから。もう香りの残渣は幾何とも残っていない。霧が晴れていく代わりに、彼女の姿が遠ざかる。あっ、と声を出した時には彼女はもうとっくに水平線の彼方へと消えていた。
そして、自分が立っている場所の正体に気が付く。彼女の甘い匂いに包まれているときはずっと花畑の真ん中にいると錯覚していたのに、その姿が消えてしまうと、草木一本住まわぬ荒れ地でしかなくなっているのだ。
彼女の正体は、名前は、顔は、声は、背丈は、国籍は……知りたいことはいくらでもある。だけど僕は彼女について、匂い以外は何一つ分からないまま今日も夢へと別れを告げる。
そして、願うんだ。いつか彼女と出会う“その時”を。
目覚まし時計のアラームを止め、重たい上体を起こす。窓から差し込む朝日を感じて僕の頭は完全に覚醒する。またこの夢かと僕は弱々しく声を漏らした。いつからだったろうか、こんな夢を見始めたのは。物心ついた時からずっとだったように思う。幼いころからずっと、夢の中の彼女と一緒に成長してきた。僕が中学の頃は彼女はブレザーを着ていたし、高校生になるとその服はセーラー服に変わった。大学に入ったかと思うと私服になり、社会人となった今、スーツと私服を行ったり来たりしている。
二十四にもなってまだこんな夢を見るのかと僕は打ちひしがれる。と同時に、急ぎの要件を思い出した。充分間に合うだけの時間に起きれてはいるのだが、今日の十時からは新規の契約先との打ち合わせが待っている。それほど大きな仕事ではないのだが、そのために先方もこちらの会社も、一人で仕事をするのが初となる新米のぺーぺーを送ることになっている。そう、それこそが自分なのである。
うちの会社でこんな時期から一人で仕事をさしてもらえるだなんて大したものだと先輩は笑って褒めてくれた。確かに入社してから真面目に働き続けてきたし、大きな失態も犯していない。期待を背負っている実感は確かにある。
しっかり朝食をとってスーツの袖に腕を通すと、先輩からの着信が来た。何だろうかと思い、メールを開く。真面目な話だろうかと少し身構えたが、どうということはない話で、今日の契約先から来る社員さんはハーフの美人だということ、羨ましくて変わってほしいくらいだということだけが書かれていた。
全くしょうがない先輩だなと嘆息し、僕は家を出る。美人、その言葉が少しちくりと、棘のように僕の胸に引っかかる。今まで自分は、美人というものに心が躍ったことは無い。この人がきれいだ、と感じることはあってもそれに魅力を感じたことがないのだ。それを知ってか知らずか、よく先輩は僕に対して営業の何某が美人だとか、広報のあの子が可愛いとか伝えてくる。
彼女は、美人なのだろうか。薔薇の花を思い浮かべながら僕はとある女性のことを頭に浮かべる。気持ち悪いなと、自分の発想を自分で消極的に否定する。遅刻してはならないのだから、そろそろ家を出ようと思いいたる。
とりあえず、僕が遅刻することは避けられた。少々電車が遅延してしまったものの、先方の会社にはどうにか打ち合わせの十分前にはたどり着いた。電車が遅延してしまったときにはどうなることかと不安になったが、大事に至らなくて済み、一安心だ。
ただ、電車の遅延は違うところに問題を引き起こした。僕の取引相手の女性が電車の遅れに巻き込まれて出社が遅れているらしい。それは仕方ないと、適当に自販機で缶コーヒーを購入し、受付で「これだけ予めお受け取り下さい」と手渡された資料に目を通しながら啜った。相手の名前を確認する。鈴木ローザ。そういえばハーフだと先輩が言っていたなと思い返す。ローザ、イタリア語で薔薇という意味だっただろうか。年はどうやら同い年のようである。
薔薇、という響きに件の彼女を思い出すが、すぐにその考えを打ち消す。仕事の場にそれを持ち込むわけには行かない。首を軽く横に振り、景気よく残ったコーヒーを飲みほした。
“その時”だった、後ろから、声がした。
「申し訳ございません! 鈴木です!」
目の前にスーツの女性が現れた。ハアハアと息を切らせて何とか呼吸を整えている。座ったままでは失礼だと思い、胸ポケットから名刺を取り出しつつ僕は立ち上がった。
「いえいえ、さっききたばかりです。私は田中と申します」
彼女と目が合う。甘い香りが、からかうように僕の鼻腔をくすぐった。