冒頭部分が吹っ飛びましたが、無事復旧完了です。
今回は「彼女」「匂い」が限定されるのか、被らないようにするのが大変でしたね。
*
彼女はいつもと変わらない、甘い匂いをまとっていた。あくまでも友人の話である。僕は熟れすぎた果物のような、腐臭を感じてしまう。
廃れた教会の墓地に一輪だけ咲いていた白薔薇。それを僕たちは『彼女』と呼んでいた。
初めて彼女と会ったのは、六月中旬頃のことだった。しとしとと長雨が降り続く中、誰もいない教会に忍び込んだ僕らは甘い匂いに誘われて、美しく咲いていた彼女を見つけた。
真紅の薔薇に囲まれて、ぽつんと一人佇んでいる彼女に、胸の奥がざわついたのを覚えている。そう、そして花の色香に誘われる虫のように、ふらふらと吸い寄せられた僕たちの目の前で、彼女は人の姿に変わってしまったのだ。
「あら、こんばんは。こんなところに来るなんて、よっぽどの物好きなのね」
絹のようになめらかな肌は、血の気すら通っていないほど白く、色素が全くなかった。アルビノを思わせるかの容姿で、髪や唇すらも白真珠のようだった。唯一、瞳だけが薄い緑をしていて、その輝きに背筋が寒くなる。
まるで、棘(とげ)に刺されたような。
その時僕達がどんなことを話していたのかは、未だにぼんやりしたままだ。
「うふふ、こんばんは。今日は一人なのね」
「なんだか、ここに来なくちゃいけない気がしたので」
「お友達も昨日、同じことを言っていたわ」
僕たちは毎日のように、彼女に会いに来ていた。両親に帰りが遅いとか、塾をサボっただとか怒られてしまったけれど、教会近くを通ると漂ってくる甘い匂いには逆らえない。二人で行ったり、一人だったり。彼女に呼ばれている気がするのだ。
「あの、どうして、人間の姿になるんですか? 花のままでも、十分に美しいと僕は思うんですけど」
初めて目にしてから、ずっと気になっていたことだった。紅に染まらず、凛として佇んでいる白薔薇であるからこそ惹かれたのに、わざわざ人の姿を取る意味が分からない。
「それはね――」
音もなく僕に近づき、耳元で囁きかける。言葉を耳にする前に、チクッと鋭い痛みが頬を刺した。
「あらやだ、そろそろ花の姿に戻る時間なのね」
結局、僕の質問の答えは聞くことができなかった。
彼女を見ると、透きとおった白い肌で覆われていた手指が、固い深緑の茎に戻りつつあるところだった。茎についている棘が頬に刺さったらしい。僕の血液が付いた指先の棘を、ペロッと舌で舐める姿から目が離せなかった。純潔という、白薔薇の花言葉からは程遠い官能的な仕草に、中学生ながら思わず唾を飲み込んでしまったほどだ。腰の辺りがじわりと熱をもって、むず痒いような衝動を感じる。
あぁ、この時からか。
甘い匂いを纏っていた彼女から、腐臭を感じるようになったのは。彼女の香りをいい匂いと感じなくなった僕は、しばらく教会の近くに行かなくなっていた。
その一方で、友人は足を運んでいたらしい。
「なんかさー、あの甘い匂いを嗅ぐと行っちゃうんだよねー」
「甘い匂いなんてしてないよ。最近、腐った臭いがして近づきたくもない。枯れる時期だろ」
「そんなわけねーよ。俺、昨日も行ったけど変わらず良い匂いだったし、周りの赤薔薇も綺麗だったし」
初めて彼女と会ってから、二週間ほどが過ぎている。家とは反対の町外れにある植物園の薔薇は見頃を終え、入口にある看板の花が向日葵に変わった時期だった。
彼女はまだ、咲いているということだろうか。
「お久しぶりね。最近来なくて寂しかったのよ。ねぇ、どうして顔をしかめているの?」
友人の言うとおり、彼女は変わらずそこに咲いていた。ただ、周りの赤い薔薇は記憶の中より数が減った気がする。前はもっと、満開に咲いていたのに。
そして、相変わらず彼女からは不快な臭いがする。以前よりもずっと臭いがキツく、鼻をつまんでしまいたい。でもきっと友人なら、甘い匂いを感じているのだろう。
今日の彼女は、人の姿をしていなかった。本来の姿である植物の形で現れたのは初めてかもしれない。しかしそれ以上に、今にも朽ちてしまいそうな彼女が気になっていた。
「腐った卵のような、変な臭いがしているので。あとあなたの姿を見て驚いてしまって」
「あらそう。あなたは一度、私が触れてしまったものね。お友達のように上辺だけ見えていれば良かったのに」
今日は、あの日と同じように雨が降っていた。日が長くなったせいか、明かりをつけなくても彼女の姿がよく見える。でも、あの麗しい白薔薇はどこにもいない。茶色く変わった花びら、しおれた茎、枯れ落ちた赤薔薇。
間違いなく友人の嗅覚がおかしくなっていると悟った。こんな状態なのに、甘い匂いを漂わせるわけがない。
急いで引き返そうと後ろを向いたら、何かに足を取られて土に倒れ込んでしまった。泥だらけになりながら身体を起こすと、足首に太い茎が巻きついている。
「どこに行くの?」
足に刺さった薔薇の棘から一気に血液が吸い取られる。声をあげる間も無く、息苦しさと気持ち悪さが襲いかかってきて、呼吸もままならない。ぐらり、と傾いた僕の身体を、いつの間にか人の姿になった彼女が優しく支えていた。
「やっぱり、童貞の生き血は最高だわ! 永遠に、美しく咲くためには不可欠なのよ。私を飾る、紅の薔薇になりなさい。残った身体は土の肥やしにしてあげるから、安心してちょうだい」
「や、め……て……」
視界は既に白く、彼女の姿もぼんやりとしか見えない。それでも、僕は逃げようと必死に身体をよじったつもりだった。
「いやよ。だってせっかく匂いにつられて来てくれたのに、逃がすわけがないじゃない。本当は甘い匂いに包まれたまま取り込んであげようと思っていたのに、あなたが性に目覚め始めてしまったから仕方がないの」
――甘い匂いを感じるのは、精通していない男の子だけ。私の姿が見えるのは、童貞の男の子だけ。
最後に僕が聞いたのは、そんな言葉だった。次に気がついた時、僕はあの墓地に咲く赤薔薇に変化していた。
パキポキと枝を折って、こちらに近づいてくる足音が聞こえた。彼女と誰かの話し声が、微かに聞こえる。
「こんばんは。最近はあのお友達は来ないのね」
「なんか、学校でも見ないんですよね。行方不明になったとかで、警察が探しているっぽいですよ」
「ふうん、そうなんだ」
僕の真下にある薔薇の茎が、動いているのを感じとった。
『逃げて』
もう僕に口はない。ただ友人にそう祈り続けることしかできなかった、七月中旬頃。薔薇の季節はとっくに終わっている。
彼女は相変わらず甘い匂いをまとって、美しく咲いていた。
*
中世ヨーロッパには、アイアンメイデンという拷問器具を使って、処女の血を搾り取り、浴びていた人物がいたとされています。
処女の血液には不老不死の効果があると信じられていたとかいないとか。
久々に擬人化で書いた気がします。やっぱり無機物を有機物のように書くのは向いているのかもしれません。
あと、今回は意識的に読点を少なめに書いてみました。普段よりも文章の流れが速くなるかなとか。