彼女はいつもと変わらない、甘い匂いをまとっていた。
もう二度と来てはならないよ。この言葉を告げるのは何度目になるだろう。
茂みに隠れながら怖い顔をする私を見つけると、彼女は花が咲いたように口元を綻ばせ、駆け寄ってくるのだ。思わず溢れる嘆息は呆れか、それとも安堵だったか。
ふたりの会話は何時だって私の説教で始まる。もう二度とこの森に来てはいけないと言っただろうとか、私と話をすることも本来は禁忌であるはずだとか。しかし彼女は私とは対象的にひどく嬉しそうに笑うのだ。
「何故笑うのだ」
「わたくしは幸福だからですよ」
当然のようにその二文字を口にするから、胸が締め付けられる。
彼女の声はその姿からは想像もつかぬほど美しく心地良い。もっと、ずっと側で聞いていたいと願うのを私自身が許しはしないから、耳を塞いでしまえればと思う。思いながら、鋭い爪を携えた、彼女の身体よりも大きな前脚に視線を落とした。私には人間のように塞ぐべき手などありはしない。
愛おしそうに彼女は両手を伸ばし、暗色の鱗に覆われた私の頬に触れた。白い包帯に覆われた指先は、枯れ枝のようにカサついていたが、微かな温もりがあった。触れ合う事が苦しくて、振り払おうかとも思ったが、彼女のか細い腕などその衝撃で折れてしまうのではないかと心配になって、考えを改める。私達とは違って、人間は恐ろしく脆いのだから。
「あなたって、いつ触れても冷たいのですね。ひんやりしていて気持ちいい」
「人間が暖かすぎるのだ」
ギョロリと葡萄色の目玉を細めて唸るように言った。
私は森にひっそりと住まう龍族の生き残りだ。龍は何百年も前に滅んでしまったものとされており、私も私の仲間達が全て息絶えてしまったと思い込んでいるが、真相は闇の中である。簡単に滅んでしまう程脆い種族では無いはずだが、この数百年、仲間の姿を見つけることができなかったのも事実なのだ。あまり期待しないほうが良いだろう。
彼女は微笑みながら私の顔に身を寄せる。接近した事で、より一層その香りが近くなる。花の匂いだ。甘く仄かに香る、彼女の匂い。
彼女は呪われていた。
湖の辺りに住まう精霊達と見間違うくらいに綺麗で優しげな顔は、樹皮のように茶色くしわがれ、左眼には白いクチナシの花が可憐に咲き誇っていた。手足も包帯で隠しているものの、枯れ枝を思わせるほどに痩せ細り、変色している。水面に浮かぶ月の如く煌めいていた彼女の髪は、いつしか色彩を失って、透明とも取れるような白髪に変わっていた。きっと左眼の花が、体中の養分を吸い取っているからだ。彼女の肌や髪を嘲笑うように、花は瑞々しく異質に咲き誇っている。
その姿を痛々しげに見つめ、耐えられなくなった私は静かに目を閉ざす。
呪いによりこんな身体になって、最早死を待つだけの彼女は、私の住まう森の奥まで歩いてくる事すら億劫である筈なのだ。日を重ねるごとにやつれ、足取りも覚束無くなってきた。私を抱き締める腕の力も、少しずつ衰えているのを嫌でも実感していた。
それが耐え難いことでもあり、待ち望んでいたことでもある。だから私は苦しくて、愛おしくて仕方が無い。
「何故……いつも私に会いに来るのだ」
絞りだすように問いかけた声は掠れていた。
彼女は私の頬を優しく撫で付けて、耳元に顔を近付けてきた。吐息が耳をくすぐって、柔らかい囁き声。
「あなたがわたくしを愛してくださるからですよ」
考えるまでもなく、答えが用意されていたかのように、迷いの無い返答だった。
呪った張本人である私は、瞬きをして彼女の醜くも美しい顔を覗きこんだ。
龍は悍ましい呪いの力を持っていた。それは、愛した者を花に変えてしまうという呪い。
あれから幾つの季節が巡っただろう。彼女と出会ったあの日、私はいつものように人の立ち入りを禁じられた森で独り、ひっそりと暮らしていた。
昼の微睡みの中、風の梵を思わせるほど心地良く、川のせせらぎのように柔らかく響く歌声を聞いたのを憶えている。何百という時を生きて尚、私はこれほどまでに心惹かれる旋律を聞いたことがあっただろうか。龍は自らの悲しい呪いの力を恐れ、心を閉ざして生きるものであったから、こんなふうに心を動かされたのは初めての事だった。
きっとそれを聴いてしまった時点で、この運命からは逃れられなかったのかもしれない。
龍の呪いを恐れた人間達がこの森を“禁忌の森”と呼び、人の立ち入りを禁じたはずだったから、愚かな人間の娘が迷い込んでしまったのだろう、と私はすぐに悟った。
放っておけば良いものを、その時の私は声の主を一目見ずに去ることなどできないと強く感じたのだ。
木々や茂みを掻き分け、彼女を見つけたとき――その蒼穹を思わせる瞳に、吸い込まれてしまうような錯覚を覚えた。
私を見た彼女は一瞬だけ驚くように目を見開いて、それから柔らかく微笑んだ。別れを惜しむように悲しげに、誰かを慈しむみたいに優しい歌は、なおも響いていた。
「嗚呼……」
嗚呼、出会わなければよかったと、心の底から思った。
愛してしまった。呪わずにはいられなかった。彼女の事を愛おしいと感じてしまったから。
今でも私は、この出会いを悔いている。あの日出会わなければ、彼女を呪い殺すこともなかったのに。
「何故私を殺さないのだ」
彼女の肩が微かに跳ねて、指先が震えるのが伝わってきた。この言葉を告げるのは二度目の事である。一度目は出会いの日に、風の音と共に流されてしまっていた。
「私を殺し、生き血を浴びるのだ。さすればお前は」
「嫌だ」
こんな細い腕の何処にそんな力があるのか。彼女はしっかりと私を抱き締めた。繋ぎとめるように、縋りつくみたいに。
私は、彼女を呪いたくはなかった。何度もこの呪縛から彼女を救いたいと願った。そして、私が死んでしまえば呪いから彼女を解放できることは、私も彼女も知っていた。
なのに。
彼女がそっと手を離し、私の瞳を覗き込む。私も彼女の右目と視線を合わせれば、自然と見つめ合う形になる。あの日見た蒼穹の青は既に失われていたが、代わりに淀んだ瞳の奥に強い光が灯っているのを知る。
「わたくしもあなたを好いてしまったのです。このまま花になってしまうのなら、どうか、あなたの側に咲き誇りたいの」
「……愚か者」
別れ際に告げる、もう二度と来てはいけないよ。それが呪いを解くもう一つの方法だった。龍が愛を忘れてしまえば。彼女の事を忘れ去ってしまえば呪いは解けるのだ。
なのに。
どうか、と願ってしまう。彼女が呪われ続けてしまえと。私のものになってしまえと。
美しき人よ。私の隣で、いつかその身が朽ちるまで咲き誇れ。
***
人外と少女の話が書きたかっただけなのに、書き終えたらとあるゲームにかなり酷似した設定になってしまっていた。でも後悔はしていないです。
紫の目は独占、青の目は博愛という意味があるらしいので、ほんのりそんな感じで書きました。