Re: 賞賛を添へて、【小説練習】 ( No.73 )
日時: 2018/01/17 18:24
名前: Alf◆.jMJPlUIAs (ID: qflJ.uco)

「問おう、君の勇気を」

 全き無音がそこにあった。
 されど、それは問うていた。

 つややかに輝く漆黒の鱗。宝冠のごとく頭を取り巻く蒼き角。長い首、なだらかな丘に似た背、舵を切る太く平たい尾、それらを一本通す背の骨から、鎧の皮膚を突き抜けて伸びた青玉の棘。背に二対、腰に一対の翼持ち、その雨覆、綿羽、風切羽のことごとくに、己が讃える百万の神を刻む。
 貌は蜥蜴にも狼にも見えた。見上げるほどの巨躯は遥かいにしえに滅びた恐竜を思わせる。五指を備えた指は人間に似て器用に動くも、指先の鉤爪は猛禽の獰猛さを以って友好さを拒絶する。ぬらりとなまめく鱗は蛇蝎に似ても似つかず、神話を徴す六翼は鳥とも虫とも、蝙蝠ともつかぬ。
 そして何より、縦割れた瞳孔を持つ、如何な空よりも澄んだ蒼穹の双眸に、似るものは一つとしてなし。
 死して尚爛々と輝く瞳を、俗界の生物は持つ由もない。

「ぁ……嗚呼っ」

 聖殿の龍の加護を得るべく進軍した勇者に与えられたのは、試練でも庇護でもなく、聖殿の真ん中にごろりと転がされた骸であった。
 疵は一つ。喉元の逆鱗から心臓を通す矢の一撃。誰の与えたものかは知らぬ。恐ろしく劣化した矢に刻まれた国章は、同行する賢者の記憶にすらない。紀元の前五千年から後三千年、雨後の筍の如く勃興し衰亡したあらゆる国と家の証を記憶する、かの偉大な紋章官が知らぬと言うことは、それ以上に古いということと同値である。
 そして、聖殿の龍はそれだけの間死体として此処に転がっていたということもまた明白時。少なく見積もっても八千年、骸は腐りもせず喰われもせず、そして聖殿に誰さえも寄せ付けなかった。
 骸であると知った驚きが過ぎ去ったあと、勇者とその同朋の背を貫いたのは底知れぬ畏怖だった。神の座を持つ龍が死ぬこと、その骸をして己より遥かな高みの存在であること。理解を深めるほど、勇者たちの身体は物言わぬ死体に震え上がるばかりであった。

「……龍の角は」

 ひとしきり恐れ顫えて、ようやく打開の口火を切ったのは赤髪の魔女だった。魔女狩りの火を生き延び、どころか狂乱と享楽の火を友に狂信の村を火の海に沈めたという火炎の申し子。火と酒の神の加護を得たとも言われる才が操る炎は、龍の放つ息吹にすら匹敵するという。
 彼女もある種狂気の火種を抱える者だった。なればこそ、より狂気的な荘厳さの中に在りて立ち直りも早かった。

「龍の角は、飲めば無尽蔵の魔力を得る」
「イーシャ、何てことを言うんだ!」
「だってもう死んでるじゃない! どうせもう加護は得られないのよアルフ。なら、残骸からでも恩恵を得て良いはずでしょ!」

 勇者アルフの諌める声を、振り千切るようにイーシャは叫んだ。それは全く正論で、アルフはたちまちの内に黙らされることになった。
 そこに反駁があった。

「聖殿の主様を……主の御使いの御身を、辱めるのですか」

 背に純白の翼を広げ、頭に光輪を掲げて、腰には梟の意匠が彫られた銀の弓。泥濘著しい山道を通りながら、純白の衣装に泥跳ねの一つもない清らかな彼女は、勇者ら一行に神が遣わした御使いである。
 如何な破戒の魔女も、上位の存在たる御使いに責められては黙るしかない。魔法を使う身にとって、彼女ら神の使いは、魔法を扱うに必要な手引きを一手に引き受ける仲介者。神の次に逆らいがたい存在だった。
 潤んだ銀彩のまなこを龍の骸へと向ける天使へ、更なる反論があった。

「だが、聖殿の龍の加護を得られなくなっていることは事実だ。龍の護りの加護が無いなら、せめて龍の肝を呑んで病毒を遠ざけるしかない。でなければ、致死毒の蔓延する“門”の先へ辿り着くことは出来ない。……他の聖殿を探している暇は、ないぞ」
「そ、それは……」

 狼のように鋭く剣呑で、それでありながら理知的な光を帯びた瞳。紋章官の賢者である。長く伸びた犬歯を見せながら、賢者は狼がするように鼻面へしわを寄せた。解決しがたい悩みのあるとき、よく見せる顔貌だった。
 聖殿の龍から素材を剥ぎ取る。それは辱めと変わらない。勇者のすべき行いとは到底思えぬ。天使の言う通りだ。然れども、やらねば一生先へは進めないのだ。現実的に、そして機械的に考えれば、どちらが人類の未来にとって大切なことかなどすぐに分かる。
 だが、単純な二者択一だけでことが収まらないからこそ、勇者は勇者なのだ。我々は清廉で潔白であらねばならず、高潔な武人芸人であらねばならず、何より人間であらねばならぬ。泥臭い人間性と理想的な非人間性の両立を、勇者とは否応にして求められるのだった。
 ――だから。

「問おう、魔女イーシャ、そして勇者アルフ」

 こうした場で話を動かすのは。

「問おう、聖女リザ、賢者グランドン」

 現実を見つめるばかりの魔女でも、理想と高潔さの徒たる天使でも、知識と理性に頼る賢人でも、それら全てを纏めようと奮起する勇者でもない。
 彼等は若い。若く溌剌として、だからこそ揺らぐ。ならば。

「血を被り、はらわたを抉る勇気はあるか。龍殺しを、真の龍殺しとして成す勇気はあるか」

 背を押すのは、戦場を渡る老雄の声。
 かつて龍殺しを成した、満身創痍の老兵の声だ。

「バルド……」
「龍は頭が落ちるまで死なぬ。永く腐り落ちなかったのも頭が繋がっているが故に。だが最早命亡き骸であることに変わりなく、腐敗しない肉体に結びついた魂はいつまでも縛り付けられたままだ」

 バルドは、軋る義足を引きずりながら龍の骸へ歩み寄った。
 十数年前、災禍の龍を屠った彼は、その半身を犠牲に逆鱗へ刃を突き立てた。輝くばかりの白銀の鱗をもったその龍の、切り出された骨身が彼の半身を繋いでいる。一度は成った屠龍の凄絶さを思い出し、岩に鑿で刻んだような皺を一層に深くしながら、二指の欠けた右手が黒い骸をそっと撫でた。
 硬くしなやかな鱗越しに感じる、ぎっしりと詰まりに詰まった筋肉の感触。己が手で切り刻んだ災禍の龍も凄まじかったが、聖殿の龍はそれに勝るとも劣らぬ。これほどの者をただ一矢で獲った狩人は、きっと当代の伝説か英雄だったのだろう。
 想いを馳せたのはほんの一時。すぐに手は離れ、磨き上げた翠玉に似た目が、立ち尽くす若人達を見た。

「素晴らしき龍だ。血肉は我々を満たす糧となり、骨皮は雨風毒苦を凌ぐ盾となり、臓物は万病を癒し遠ざける医薬となりて、角牙は何をも切り拓く至高の刃となる。そして肉体の軛を離れた魂は、いつか苦難が地を覆うとき、それを祓う龍に再び生まれ出ずる」
「……過去の龍殺しの教訓かい」
「そうとも言うし違うとも言えるだろう。輪廻の在り方は龍も獣も人も、何も変わりはせんからな」

 ひどく詩的に紡いで、アルフの訝るような問いは軽やかにかわし、バルドは腰の短剣を抜いた。光によらず仄かに輝く白刃は、龍の牙を丁寧に研ぎ上げて形作られたもの。生半な鉄や鋼などは、音もなく膾に切り捨てられる、そんな恐るべき切れ味の持ち主である。
 その切っ先を、老兵は龍に向けた。

 むくろが投げかけた問いに、若き勇者が是を以って答えたのは、それから数刻も経った後のことだった。

***

「問おう、君の勇気を」

もとい

『龍はふたたび死す』

***

 悪なるものを打倒する勇気
 聖なるものと相対する勇気
 或いはそれを陵辱する勇気
 いずれ欠けても勇者ならず
 なれば龍殺しとは試練なり

***

 勇者一行「塩焼きにすると最高だったよ」