Re: 賞賛を添へて、【小説練習】 ( No.80 )
日時: 2018/01/18 22:01
名前: 日向◆N.Jt44gz7I (ID: X.vArSoM)

「問おう、君の勇気を」

 ああまた始まって仕舞った。私は御猪口片手に頭を抱えました。否、それはしなかったのですが。このまま頭を抱えてしまったら熱燗を頭から被ってしまうことになりましょう。いやしかし気を違えた振りをした方がまだ得だったのやもしれません。何しろ先輩が此のような呑みの席で此の口上が吐かれたら私の負けでしたから。一体此れで何度目か。

「何ですかね先輩、復たあの本の話ですか」
「これこれ君よ。復た、とは何だね。僕ぁこの話を君にするのは初めてだぞう」

 先輩は紅ら顔でささくれ立った人差し指の端を私に向けた。先輩は一度書き事に集中しなさると原稿の上で鉛筆をがりがりさせながら、御自分の指もがりがりしてしまう嫌いがありました。皮が破けてしまおうが血が滲もうがお構いなしに執筆なさるので、他の女学生らは彼を敬遠なさります。その上悪いことに文章の中で主人公が笑うと御自分もお顔を破顔させ、主人公が怒ると其のげじげじ眉毛を吊り上げなさり申し上げました、そして泣かせの場面となるとその後机がびちょんこになっていたのでした。コケトリーな女主人公なら尚更最悪で、どうかどうか筆舌に尽くしがたいその御有様、想像して戴きたく。
 先輩は以前として呂律の回らない舌を必死に使って、声を荒げつつ酒臭い唾を飛ばしていました。何ということでしょう完璧に出来上がって仕舞っているではありませんか、最悪、じーざす。
 
「第一ね、僕ぁねえ、ああいう手合いのが厭なんだ。何だい、御読者が頁を捲って読み進めなきゃあ事件は起きなかっただの、此れ此れは死ななかっただの。人を莫迦にしているんじゃあないかしら、ねえ」
「これで四回目なんですがね、ええ。先輩はいつもその本をえらく酷評しなさる。私はそうは思いませんが」

 どうしてなのですかい、とはわざと尋ねませんでした。どうせ聞かなくてもその杯を干せば鼻の孔をふんすふんすお広げになって再び御高説を賜るでしょう。これは私の先輩の癇癪に対する小さな抵抗でもあったのです。
 先ほどの口上は先輩の言及なさっている本の一節でした。先の冬にナニガシ文庫より発売され、随分話題になった書物でありました。その書物の売りというのが【読者が犯人である】という何とも不可解な謳い文句だったのです、しかも仄暗い表紙に巻かれた帯にでかでかと何ともけばけばしい赤文字で鎮座しているではございませんか。先輩は手をわなわなと震わせてその本を取るなり、憤慨してお金も払わずに本屋から走って行ってしまったのです。

「ええい君は大莫迦者だ。無論世の中もだ、よく聞けい、このような草書を悦んで重版にした編集社も印刷屋も狂っていやがる」

 狂っているのは先輩でありませんか、そう言いたくなりました。はははと先輩はわざと馬鹿笑いをして一瞬白目を剥きました。先輩の熱がどんどん増していくものですから周りのお客さんが言い合わせたかのように怯えた顔で此方の卓を見遣りました。私はただそのようなときは、済みません、とやたら神妙な面持ちを準備して顔の前で手刀を斬ります。
 平常なら理詰めで頭でっかちの筈の先輩でしたが、どういうわけか不思議とこの話題になると頭がお回りになりませんでした。そしてひとしきり教養とアルコオルを含んだ唾を御吐きになると泣き疲れて眠るのです。全く莫迦莫迦しいのは先輩ではありませんか。どうしてここまでして拘泥されるのかちっとも訳が分かりません、私は。

「先輩、御兄様は」

 私が端を発した瞬間、先輩は時が止まったようにぴたりと、ありとあらゆる身振り手振り酒を煽る手呂律の回らない舌どうして歯列矯正をなさらなかったのか疑わしい歯のかち合い少ない睫毛の瞬きを全て止めました。瞳孔は収縮を繰り返し、平常よりあれほど鍛えていらっしゃる顔面の筋肉は情けなく痙攣するのみです。私はそれを毅然とした態度で見詰めました。一分か十秒かそれは分かりませんがいくらか経った後に唇を震わせ、鯉のように口をぱくぱくさせなさると口内で行き場を失っていた涎がヒノキの卓上に垂れました。
 先輩は声にならない声を喉奥から絞り出すと幼児のように涙をぼろぼろと零してしゃくりを上げました。

「莫迦だなあ、死んじまって」

 また其のような事を仰って。
 私も貴方もただ認める勇気が出ないだけではありませんか、先輩。



 先輩はひとしきりさめざめお泣きになると、畳の上に、私に背を向けて横になりました。
 暫くすると畳の上で寝息が聞こえてきましたので、私は勇んで巻いてきた筈の黒髪を耳に掛け、すっかり馴染みになったタクシー会社に電話するのでした。