「問おう、君の勇気を」
「問おう、君の」
「問おう」
「問」
「君の」
「貴方の」
「オマエの」
壊れた機械を詰め込まれたように青ざめた顔のRobinson研究助手が呟いている。愛嬌をにじませる灰色の瞳に正気の光は薄く、精緻な実験技術を有する諸手はぶらぶらと揺れては彼方此方にぶつけて傷だらけ、腹には明らかに致命傷であろう巨大な刺創がいくつもあり、――その穴の全てから、無数の黒光りする節足動物が湧き出していた。耳を澄ませば、うぞうぞと蠢く節足動物どもが神経を噛み、消化液を注入し、どろどろに溶けた内臓や筋肉を啜る水っぽい音が聞こえたことだろう。幸か不幸かその音は微かで、近傍の区画で発生している戦闘の音に掻き消されている。
Glim博士は、彷徨う部下だったものの眉間に、支給されている自動拳銃の先を向けた。アンダーリムの黒縁眼鏡の奥、怜悧な光を湛える空色の双眸が、何処か憐れむような色を帯びてRobinsonを見ていた。
「すまない。すまなかったRobinson。私は無力だ……」
「博士、逃げてッ、殺さレ……喰う、食ら、逃ッげ、痛い、痛くなっ……痛い、痛いっ、痛いィ」
まだ脳組織にまで魔手は及んでいないのか。不随意に四肢を跳ねさせ、垂れがちの眼に痛苦の涙を溜めて、若き研究助手は苦悶に喘ぐ。感じ取るのは、神経組織を食い齧られる筆舌に尽くしがたき激痛と、己の体が徐々に得体の知れぬ節足動物に侵食されていく恐怖、そしてそれを誰も――目の前の博士すらも救えないと知るが故の、虚無的なまでの絶望ばかりだ。
ぞわぞわと音を立てて這い回る多足の蟲。それから視線を外して、博士はまっすぐに研究助手を見た。命ごと失われかけた正気が、それでも僅かな光芒を以って彼を見返した。
「せめて、君が正気の内に」
「ダメですっ、Glim博士、逃げて下さ……ぃ、っ」
一つ。弱弱しく咳き込んだ拍子に、赤黒い血とまだ小型の蟲が一匹口の端から零れ落ちる。もはや一刻の猶予もない。薬品によって荒れ放題の手に握りしめた拳銃、その引き金に指を掛け、その瞳は最期までRobinsonを視界に捉えて離すことはなかった。
ほんの一メートルほどの距離から放たれた一発の弾丸は、狙い過たず苦悶に歪む男の眉間に命中。回転する銃弾は、末期の苦痛を認識させる間もなく脳を破壊し、頭蓋を突き抜け、血と脳漿をまき散らしながら反対へと突き抜けていく。骨肉を貪られて随分軽くなった青年の身体は、銃弾の勢いに引きずられ、半ば吹き飛ぶように床へ仰向けに倒れ伏した。
博士は表情を変えない。白衣の内ポケットから小さなスプレーボトルを出すと、その中身――節足動物に選択毒性を持つ殺虫剤――を、迷いなく黒光りするものたちへ噴射する。それは即座に薬効を示し、あるものはその場で身体をのたうたせた後ひっくり返り、あるものは数メートル逃げ惑った後その場で息絶え、あるものは博士に歯牙を突き立てようとして、防刃の服に阻まれる間に死んでいった。
「Robinson……」
最後の一匹が数度の痙攣の後動きを止め、ようやく博士は冷徹さの仮面を脱ぐ。眉間に大穴を開けられ、首から下をほとんど服と表皮だけにされた無残な遺体。目を見開いたまま絶息したその表情は、しかし存外穏やかなものだ。しかし、開ききった瞳孔が空しく照明の光を映す様に、博士は最早耐えられなかった。
そっと、拳銃を握らぬ手が目を閉じさせる。空色の双眸はひたすらに己の過ちを悔いつつも、しかし悲嘆にくれてばかりの軟弱さはない。手塩にかけた部下が死して尚、彼は己の双肩にかかる責務を全うすべく、無数のタスクと記憶を脳内で展開していた。
脳裏によぎる。激痛と絶望に魘されながら、Robinsonが繰り返し発した言葉。
“問おう、君の勇気を”
それはかつて、彼がこの研究所に入りたてのころ、己が投げた言葉だった。
Robinsonは恐らく、末期に一つの答えを見たのだろう。薄れゆく意識と正気の中、それでも上司の身を案じ、この研究所の最高頭脳の身を案じ、己という存在を捨ててそれを脅威から逃がす決断。それは彼の中で最も崇高な勇気であったが、Glim博士がそれをはねつけたことで、最も意味のない蛮勇となってしまった。
ならば己は。
彼の示した勇気を蛮勇へ成り下げてしまった己は、一体何を示せばいいのだろうか?
「痴れたことを!」
自身の弱さを自分で嘲笑った。答えなど最初から決まっている。
己はiso-ha管理主任。かつて起きた“メイデイ”の惨禍を越え、その惨劇でただ一人犠牲となった才人より全権を預かる者。己の双肩には、己だけでない。数千の研究員と同僚、数万の無辜なる被験者、数十億の今生きる民に、数えることすら出来ない未来が掛かっているのだ。
既に犠牲は出てしまった。ならば。
「逃げるわけにはいかないんだ、Robinson――だが、私にはまだ、死ぬことすら許されない」
苦しげに呻いたGlim博士の脳裏を、亡き部下の声が、いつまでも苛んだ。
***
御題:「問おう、君の勇気を」
表題:蛮勇と臆病さの境界に関する心情の記述、或いは、iso-ha総合監督官の査問に際する供述
***
自分のために、自分のせいで、払われた犠牲の上に立って尚生きる勇気の話