「問おう、君の勇気を」
私のことを「君」と呼ぶ兄さんは、にこやかな笑顔でそう言い放った。
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兄さんが学校に行かなくなったのは中学二年の夏のこと。ちょうど私が数学のテストで三十四点を取ったときのことだった。これじゃあ高校に行けないわよ、とお母さんに一喝されたその夜、兄さんは私の散々なテストを見て鼻で笑った。
兄さんが学校に行かなくなっても、お母さんは何も言わなかった。それくらいであの子の成績は落ちないわよ、とお母さんは私の渡したテストの点を見てまた大きくため息をついた。確かにいつもテストで満点を取ってくる兄さんのことだし何の心配もないのだろう。私は二十二点の国語のテストをお母さんに見せながら、隣でスマートフォンをいじっている兄さんに少しだけ嫌悪感をいだいた。
兄さんがメディアで騒がれだしたのは高校一年生の時だった。ずっと何かしら部屋でガタガタやってたのが作曲だったのだと気付いたのは、クラスのみんなと同じタイミングだった。
「香菜ちゃんのお兄さんってあのシロなんだね」
「まじで? 友達のお兄ちゃんって自慢してもいい?」
兄さんの芸名である「シロ」が売れ始めると同時に、私は劣等感に苛まれた。この感情の醜さに嫌気がさす。その感情に心が支配されるたびに、吐き気がした。
喉が渇いたから自動販売機に小銭を入れてどれにしようかと人差し指を左右に振らした。不意に目に入ったミネラルウォーターを押してみたけど、手に取って蓋を開けて飲んでみても結局ただの「水」だった。
兄さんならきっと自動販売機でミネラルウォーターを買うけど、私は水道水でいいと思う。私のような凡人にはその違いなんてわかりっこないんだから。
だけど、兄さんはその違いが判るからこそ高いお金を払ってどこかの山奥でとれた自然の水を買うのだ。これが私たちの大きな違いなのだと思った。
「ねぇ、兄さん。――入るよ?」
音楽関係の仕事で忙しくなり、部屋を空けることが多くなった兄さんの部屋を覗いてみたとき、私は自分がいかに凡人だったかということに気付かされた。
部屋中に散りばめられた楽譜に、CD。その中でも一際目立っていたのは古びたアコースティックギターだった。兄さんと一緒に小学六年生の時にお年玉とお小遣いを全部使って買ったそのギター。私は存在すら忘れていたというのに、兄さんはいまだに大事にこのギターを持っていたのだ。
「どうして、こんなのまだ大事にしてんのかな」
ギターを嫌いになったきっかけも兄さんだった。格別に上手い兄さんのギターに嫉妬して、自分の限界を決めつけてやめた。半年頑張っても結局兄さんよりは上手くなれなかった。そう言い訳を作って私は満足したのだ。
自分は平凡だから、どうやったって兄さんには勝てない。どれだけ努力したって無駄なのだと。
ベッドの上に転がっていたリモコンでテレビをつけると、そこには兄さんが映っていた。音楽番組の司会の男性が「それではお聞きください」といった瞬間に、兄さんの顔がアップで映された。上手くなった作り笑顔が一瞬で消え、アイドルグループの画像に切り替わる。テロップの作詞作曲の部分に兄さんの名前があった。
流れ始めたその曲は、この部屋からよく聞こえる曲。いつの間にか私は自然と口ずさんでいた。
画面が切り替わり、また次のグループが司会者と話し出す。いつの間にか歌い切っていたのだと気付いて、馬鹿らしくなった。なんていうか、兄の作った曲を歌う自分がひどく滑稽に思えた。
ドアが開いて兄さんが入ってきた瞬間、私はその兄さんの表情を見て思わず気持ち悪いと言ってしまいそうになった。満面の笑みといわんばかりのその表情は、私の背筋を一気に凍りつかせる。
「……いまの、俺の曲だよな」
「……え、まぁ、そうだけど」
「そっか」
兄さんの部屋に勝手に入ったことは一切咎められなかった。何故か嬉しそうなその顔のまま兄さんは私に手を差し伸べた。「なに」と汚物でも見るような目つきで兄さんをを睨み付けると、小さな声で彼は「こいよ」と言った。正直、何が何だか分からなかった。
どこに、どうして? 心の中で思ってることは言葉にはならない。兄さんの手を取っていたことに気づいた時には、私は録音スタジオでマイクの前に立っていた。
防音ガラスの窓の向こうに、兄さんの姿が見える。業界の人みたいに大きな黒いヘッドフォンを片耳に添えて、じいっとこちらを見つめてくる。
「歌えっていうんだ、あんたが。私に」
自分の作った曲を、と短く付け足して、私はため息をついた。兄が喜んだのは理想の歌声を見つけたから、ただそれだけだった。
「君の声は今回の俺の曲とあうから」
吐き捨てられたその言葉で、私の存在価値の低さに気づく。自分の楽曲のためなら、どうしようもない妹ですら利用するんだ、この人は。
兄さんが私のことを「君」というたび、私は劣等感で死にたくなる。天才と凡人の違いを突き立てられて、恥ずかしくなる。
「問おう、君の勇気を」
ここで歌えるかどうかが勇気というなら、そんな勇気はいらない。必要ない。
それでも兄さんについてきた理由はたった一つだった。
きっと他人なんだ、私たちは。そう思うと胸がスッとした。ヘッドフォンをつけて、世界の音を遮断した。流れてきた兄さんの音楽に、私が「声」をつけることは、もうこの先二度とないだろう。私は大きく口を開けて、叫ぶように歌い出した。兄さんが欲しいと思ったその声が永遠に兄さんの心の中に残りますように。私のこの声を忘れませんように。
私の勇気は弱い自分を、卑屈な自分を否定するために。この先劣等感で苦しまないために、きっといま歌わなければいけないのだ。
兄さんの口が小さく動くのはわかったけれど、何を言ってるのかは分からなかった。
「もっと歌って、香菜」
音楽が終わり、ふぅと小さな息を吐きながら私はヘッドフォンを外した。これで卑下してきた自分を少しでも肯定できただろうか。
ヘッドフォンを外したあとの兄さんの表情は、やっぱりあの時と同じように気持ちの悪い笑顔だった。やっぱり嫌いだなとスタジオを出て、私が飲めない無糖のコーヒーを渡してきたときにそう思った。
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初めまして、又はお世話になっております。敬愛する浅葱さんとヨモツカミさんの企画ということで、ずっと参加したいと思っておりました。ようやく参加できてとても嬉しいです^^
素敵な作品がたくさんあるので、是非また感想を書きにきたいなと思います。拙い文章ではありましたが、私なりの勇気を書き上げることができました。ありがとうございました。