Re: 賞賛を添へて、【小説練習】 ( No.115 )
日時: 2018/02/07 22:31
名前: 黒崎加奈◆KANA.Iz1Fk (ID: .SQTAVtg)

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「問おう、君の勇気を」

 隣に打ちつけられた金のプレートに、飾り文字で書かれている。それは一枚のまっしろな絵の題であった。コンクリートに白いペンキが塗られただけの簡素な壁と絵を隔てるものは、長方形の額縁のみ。そう、絵には絵の具も、塗料も、鉛筆で引かれた線すら存在しない。その代わり、小さな机が前に置かれていた。削りたての鉛筆と、真新しい絵の具のチューブと、微量なエアコンの風に揺れる鮮やかな塗料。絵筆も刷毛も、手段となる道具はどこにもない。
――びちゃっ。
 白かった絵に、色という汚れが付いた。


 桜庭優菜(さくらばゆうな)は、"普通に"生きることが夢だった。物語で見たヒロインのように純情可憐、時に強く、時には涙。天真爛漫なのもいいけれど、品行方正でお堅いのもいいかもしれない。学校生活で起こった大問題も、みんなと力を合わせてキラッと解決! なんてタイプもあざといし。
 そんな夢だけで生きていけるほど、現実は甘くない。周りにいるはずの友達、優しい彼氏、権力。
 何もなかった。
 こんなのを望んでいたんじゃない。ただ人と話して、みんなと同じことをして、普通に学校生活を送っていただけなのに、優菜は一人だった。少人数のグループが点々と散らばって話をしている。そのどこにも入れずに、黙って寝ていることしかできなかった。
 どうしてこうなんだろうと思いながら。

「……こんにちは」

 放課後の美術室。話し声やかけ声、楽器、様々な音が飛び交う世界から隔離されたように静かだった。油の匂いと木材、ニスの独特な臭いが混ざりあって空気を作っている。
 優菜が美術室を放課後に訪れるのは、三度目だった。

「あぁ……来たんだね」

 キャンバスやイーゼルが積み上げられている、といっても過言ではないほど大量にある辺りから男の声がする。教室の一角を隠すように、わざと囲いにされたものだった。
 彼はたぶん先輩。名前も知らない。でも、全校朝礼でよく表彰される人だった。聞き取りやすい綺麗な声をしている人。
 "山"の方へとゆっくり近づいて、近くの椅子に座った。

「……また、部活の人が私の陰口言ってるの知っちゃって。どうしてなんだろうって。なんで、悪口とか言う人のほうが周りに人がいるんだろうって」

 泣きたいわけではなかった。ただ、言葉にして誰かに話したかっただけだった。答えが欲しかった。
 素性もよく知らない、美術部の先輩に縋るのはたぶん違うのだろう。
 でも優菜の周りにいる人に同じことを言ったところで話は伝わり、「そういう子なんだね」とレッテルをさらに貼られるだけなのは知っている。

「君は優しすぎるだけなんだよ。塗り広げられた色を混ぜようとしないから。もっとグシャグシャに混ぜて汚くなってしまえばいい」

 つぅっと堪えきれなかった涙を流したのも、この美術室だった。体調を崩して二連続で授業を休んだから居残り作業。
 夢を描けと言われても、描けるような夢はない。
 結婚? 仕事? 幸せ?
 その時に考えればいいのに、どうして形にする必要があるんだろう。ウェディングドレスを描いたり、子供の絵を描いたり。容易く形にしてしまえる人が羨ましかった。
 まるで、優菜には夢がないみたいで。
 息苦しくなって水を飲みに教室の扉を開けた時に、聞こえてしまった。

 優菜ってさー、性格悪いよね。先生とかにはめっちゃ媚びてんじゃん、でもうちらには何も言わないの。絶対見下してるよー。

 廊下の奥に消えていく部活の練習着と笑い声。ガチャンと大きな音をたてて、開きかけた扉が閉まる。

『そんなこと、ないのに』

 部活の人で遊びに行くのに誘われてなかったりとか、陰でブスって言われてる事とか、色んなことに目をつぶって付き合っていたのに、そう言われているのがショックだった。
 ただ、これ以上なにかされたくないから自分の事も言わないし、弱味になるような情報を与えたくなかっただけ。傷つかないようにするのは普通じゃないのかな。
 相変わらず真っ白なキャンバスが目の前にあった。

「美術室で泣かれると作品が湿って、鮮度が変わってしまう。でも訳ありみたいだから見逃してあげようか」

 誰もいないと思っていた美術室に人の声がする時点で驚いていたのに、一角に積み上がった山の中から人が現れたのにはもっと驚いた。

「君は何を描くの?」

 キャンバスに目を向けて、泣いている優菜には目もくれず、静かに問いかける。

「わかんない。私は普通に生きていたいだけなのに、形にできる夢だけが良いんだって言われてるみたいで。私には夢なんてないんだって……っ」
「"普通"なんて存在しない」

 悲しいわけでも、怒ってるわけでもない。ただ、胸の奥にぽっかりと空いた穴が埋めてくれと叫んでいる。泣いて流した涙でその穴が埋まるわけでもないのに。

「"普通"って誰が決めたの? 運動部の人は放課後に必ず運動するのが"普通"なの? 僕が授業をサボってここで絵を描いているのは"普通"じゃない? 他人の眼を気にして生活するのを僕はもうやめたよ。だから美しい絵が描けるんだ」

 言葉に納得する、というのはこういうことだろうか。胸の奥につかえていた何かがストンと抜け落ちるようだった。先輩の描いた絵がぼやけた視界の中で、輝いて見える。綺麗な青空と少女の絵。

「それで、君の夢はまだ描き終わらないんだ。ならちょうどいいや、美術館行こうよ」

 白紙のキャンバスを覗きこむ、伏し目がちな長い睫毛がゆっくり動いた。
 提出は明日。今日中に何が何でも形を描きださないといけなかった。美術館に行こうよ、と言われてもそんな余裕はない。
 でも、ここに座っていたって描ける自信もなかったから、優菜は大人しくついて行くことにした。
 聞けば、展示会に先輩も何点か出展していて、今日は最終日の片付けだったらしい。片付け要員として都合良く使われた気もしたが仕方ない。

「この絵、君みたいじゃない? 僕が描いたんだけどさ」

 真っ白な絵画だった。何を描いたのか優菜にはさっぱり分からない。

「これね、前に置いてある絵の具とかペンキで、観た人に汚してもらいたかったんだ。色で汚されることで、初めてこの絵は完成する」

 美術展で観客がメガネを悪戯で置いたら、他の観客は作品の一部だと勘違いして写真を撮りはじめた話から作ったそうだ。

「展示されているものは、全て完成品である。君の大好きな"普通"だよ。そこには本当に何も描かれていなくても、目を凝らして何かを感じ取ろうとするんだ。まるで『裸の王様』みたいにね」

――びちゃっ。びちゃっ。
 先輩はためらいも無く、絵を汚していく。

「最初からこうしてあっても、誰かがこうやっても、結局観客は賞賛を絵に添えるんだよ。それが"普通"。よっぽど勇気がないと、飾ってあるものを汚す行為はできないから。だから『問おう、君の勇気を』って問いかけたんだ」

 優菜には先輩の例えが理解できなかった。そんなの、当たり前のことじゃないのか。わざわざペンキが目の前に置いてあっても、汚したら弁償させられることが殆どだろう。

「君は真っ白な絵みたいだ。汚されても、理想や夢を追い求めて、白く塗りつぶそうとする。でも、いくら乾いた色の上に白を塗っても、汚れた白にしかならないんだ。白くあることが"普通"だと信じこんでいるから気がつかないだけで」

 先輩はまだ乾ききっていない絵の上に、白いペンキを流していく。色と混ざり合って、ぐちゃぐちゃになった絵から、なぜか目が離せない。額縁から溢れた白い液体がビタッ、ビタッと床に垂れている。うっすらと筋のように混ざった色が、涙に見えた。

「混ぜて汚くなってしまえばいいなら、絵筆ぐらい用意してくれればいいのに」
「こうやって流し込んだり、チューブからそのまま色を塗ったほうが躍動感が出るかなって思っただけだよ」
「……不思議な人」

 こうして誰かを不思議な人だと思うことも、優菜が自分自身を"普通"だと思っているだけ。周りと自分の"普通"は結局違う。
 そんな考え方をできる人が、素直に羨ましいと思った。優菜みたいに、自分のことしか考えていない人で世界は溢れてる。片づけをしている先輩は、まだ戻ってこない。静かな美術室に、白いキャンバス。
 びちゃっ。
 絵の具がたっぷりついた絵筆を叩きつけて、優菜は夢を描いていく。

「私はやっぱり、周りを気にせずにはいられない。普通に笑って、普通に友達と遊んで、普通に過ごしたい」

 次の日の朝、先生は怒っていた。優菜は反論する。

「私は白い絵の具で絵を描きました。それが、普通でいたい私の夢です」

 白で塗りつぶされた絵が、よくやったと褒めていた。


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どうしたら自分の領域にお題を引っ張ってこれるのか苦戦した結果がこのザマです。
台詞としてお題を使いたくない、というのは発表されたときから考えていました。
本当にお題との相性が悪すぎて難しかったです。いい練習になりました。ありがとうございました。