Re: 袖時雨添へて、【小説練習】 ( No.129 )
日時: 2018/03/01 15:28
名前: 浅葱 游◆jRIrZoOLik (ID: WnB.4LR6)

 手紙は何日も前から書き始めていた。うん、書き始めてはいたんだ。君に送ろうと思ってね。けれど父が家を捨ててしまったり、祖母が亡くなってしまったり、短い間に色んなことが起きてしまった。それに、少し怖かったんだろうね。君に手紙を送ろうとするのは、それなりに、私の胆力が試されている感覚がしていたんだ。君は、その事を知らないだろうけどね。

 じんわりと紙が湿る。

 私の母親は元気に過ごしているよ。ご飯を作るのが最近の楽しみになってきたらしくて、今まで作ったことがないのにランチまで作るようになった。この前食べたホットサンドは絶品だった、君が食べられないなんて考えられないくらいさ。
 あ、でも君ってパンがあまり好きじゃなかった気がするぞ? どうだったっけ、私がパン好きなのは覚えてくれてると思うんだけど、私が君の事を忘れちゃダメじゃないか。君もそう思うだろう?
 そうだ、君が好きだった十番街のオムライスをこの前食べたんだ。同僚と行ってきたんだよ、そこは変な勘違いをしたらいけない。写真も同封しているから、後で封筒の中を確認してみておくれね。君が美味しいってよく話してくれていた、ケチャップの素朴なオムライスがね、私も美味しいと感じたよ。意外と食の好みは合うのかもしれない。米かパンかは、私達には小さな悩みさ。

 紙が、静かに鳴いた。

 そう言えば君が入院していたことを、出張先で知ったわけなんだけれど、その後容態は変わりないのかい。君からの便りがなくなってしまうと、こうして手紙を送ることを戸惑ってしまうんだ。意気地無しの自覚はあるんだけれどね、こればっかりは直りそうもないから、許して貰えると嬉しい。
 だから、出来るなら手紙を送ってくれよ? 私は君の字で、君の言葉を知りたいと思っているんだからね。それが私への罵倒でも、受け止める。昔約束したんだ。覚えているかい? 君に何があっても私は守るし、受け容れる約束さ。だから君は、嘘偽りなく私に言葉を送ってほしい。無理にとは言わないけれど、私はそれを楽しみに待っているし、望んでいるんだ。言葉を発するのが怖いんだろうことは、分かっているつもりだけれど、それでも言葉が欲しいんだ。私だけに向けられた言葉が。

 雨が降りそうだ。この人はこんな私を、救い出そうとしている。読み終えた紙を、一番後ろにまわす。らしさの残る字が、懐かしくて、嬉しくて、溺れてしまいそうだ。指で字をなぞっていくだけで、それだけなのに、この手紙の送り主の声が、香りが、すぐに思い出されてしまう。もうとっくのとうに忘れてしまっていたはずなのに。この人は私を忘れていなかった。あの人の中に私が生き続けている。その事実に心が震える感覚さえした。

 私はまだ君を愛しいと感じているし、何より君がいないとダメなんだよ。白状すると、ほかの人を抱いたこともあるけれど、それでも君を愛していた時のような熱情は出てこなかった。性の趣向が変わったのかと思ったりもしたが、そんなこともない。私はいつも君を想い、君の中に私自身を残したいと思っていた。だから君以外の誰かを愛せなかったんだ。この気持ちを察せられて慰められたこともある。私は慰めなんかじゃなく、君からの愛が欲しいだけなんだ。
 また二人で、春に桜を見に行かないか。梅の咲く頃にもう一度話しをして、いつ桜が咲くのかなんて他愛もない事を話さないか。その時は一緒に弁当を作って、敷物とちいちゃな椅子を持って、笑い合いたい。私の作る不格好な握り飯と、君の作った美味しい唐揚げを持って行きたい。笑いながら桜を見て、夜は洒落たレストランで、大人らしいひと時を過ごさないか。君が私を忘れていないなら、また、私と過ごしてくれないか。

 手紙には跡が残っていた。乾いて、波打った小粒の跡が。どちらのものだろう。この人の気持ちが溢れ過ぎて、私まで。

 夏だってそうさ、一緒に海へ行こう。格好つけたくて泳ぎを習ったんだ。報告すると君は格好悪いと思うかもしれないけれどね、構わないよ。私の姿を見た君を、ときめかせる準備は出来ているから。覚悟していてほしい。君と会ったら私はね、思ったよりも語れなくて、思ったように動けなくて、笑われる準備もできてるんだ。ただね、会いたいんだ。今の私を見て、今の君を見て、大人になったねって言い合おうよ。……ごめん、少し、文字が滲んでしまったね。書き直そうか、どうしようね。君なら"気にしないで"って笑ってくれそうだ。勝手な思い込みかな。でも期待して、このままにしておくよ。
 文字だけだと、きっと私の気持ちの全てが伝わってくれないから、君に分かってほしいから、私のありのままを残す手紙にしよう。君は今、どんな格好をしているのかな。趣味はどうだい? まだ歌ってくれているのかな。美しい君の声が私も好きだった。手紙は難しいな、今も好きなのに、すぐに過去の話みたいに思わせてしまう。好きだ、君の声が。今だって、耳元で聞こえるんだ。私を呼ぶ君の声が、君の香りが届くんだ。それなのに横を見ても君はいない。私は、私はどうしたらいい? 君を諦めたくない。愛し続けているのに、君が遠いのは、どうしてだろう。嫌な事を考えてしまうんだ。もう私は愛されていないのではないか、君に愛しい人が出来てしまったのか。気が気じゃないんだ。格好悪いけれど、私が君だけを見ているように、君にも私だけを見てもらいたい。それだけ、愛している。だから、

 最後の紙を、前面に出す。息がうまく吸い込めない。愛してくれる人の懐かしい字と香りで包まれた手紙が、私のことも包み込んでくれている。今しかないと思った。今を逃したら、もう会えない。そんな気がしてしまった。
 ぼさぼさの髪を整えて、淡い色のリップを塗る。あの人が好きだった白いブラウスと花柄のスカート。小さなカバンの中にはペンと紙を無造作に詰め込んだ。あの人に、貴方に、私は伝えないといけない。貴方に会うため、私は音の無い世界を駆けた。



 □三月一日、十番街で君を待つ。

*

 声を失って、さらに何かを失った人のことを世界は愛せるのか。そんなことを書いてみたかった。

*