手紙は何日も前から書き始めていた。
それがついに句点、「今度お暇がありましたら何処か、お出掛けになりませんか。」を書き記したことで完成した。何度も何度も推敲を重ね、もはや良し悪しも分からなくなってしまったが……きっと、ここまでの時間と労力を掛けたのだ、きっと平均的なものよりは上であろうという自負はあった。
便箋などは、私が手に入れられるものの中では最高級のものを用意し、洋封筒に入れて蝋で閉じる。
うん、我ながらおしゃんてぃという奴なのではないだろうか。クスリと笑いがこぼれ、慌てて誰かいないか確認してしまう。自室なのだから、当然私以外はいないのに。
その時ふと時計が見えた。アンティーク調のそれは、そろそろ寝なければいけないことを私に伝えてくれる。
「……うん、もう寝ようか」
手紙をいち早く届けたい気持ちもあったが、今夜はこの高ぶる気持ちを抑えベッドに入ろう。なに、手紙は逃げないのだ。問題はない。
明日はいい天気……いや、手紙を読んでほしいのだから午前は雨天で、ちょうど読み終わるころに晴れればよい。そんな子供じみた妄想をしながら、段々と意識はまどろみの奥へと沈んでいった。
◇
早朝、まだしばし眠くはあったが手紙のことを思い出して飛び起きる。当然のことだが、手紙は寝る前と同じ場所に置いてあった。身だしなみを整えて、いざいかんあの人の家へ……と普段の私を知る者が見れば目を丸くするような顔で自宅を出た。
……妄想というのもしてみるものである、こうもり傘を片手に少々浮足立ちつつ歩みを進める。豪雨ではない、しとしとと降り落ちる雨粒は、書物を読んで物思いにふけるにはいい日だ。
さて後は午後に晴れれば完璧なのであるが、そこまで求めては罰が当たるというものか。
町を抜けて、林を通り、山を登る。
生活に困ればいつ下りてきてもいいと伝えようとしたこともあるが、彼女の今までを侮辱するようでそれは心の奥底にしまい込んだ。
それに、高原で動物たちに囲まれながら暮らす彼女の心惹かれたというのもあったから……私が言うのはお門違いというものである。
いつの間にか、雨がやんでいた。もう少し降ればいいのにと思いつつも傘をしまう。
とうとう彼女の家、石造りで煙突からは白い煙を出している姿が見えるようになる。パンでも焼いているのだろうか。
さてさてここまで来たのはいいものの、どう渡すか。それが問題である。いきなりの来客は失礼だろう、だがしかし手紙だけを置いて帰ればきっと彼女はそのことに不満を持つだろう。
「めぇー」
「おぉ山羊か、君も一緒に悩んでくれるのかな?」
うんうん唸っていれば、いつの間にか足元に可愛らしい黒毛の山羊がやってきていた。まだ若いのだろうか、短い角と小さい体躯はどこかあの子を思わせる。
……本当に角が生えているわけではない、髪型のことを指している。そう心の中の彼女に釈明する。
「めぇ?」
「ん、なんだね物欲しそうな顔をしおって。生憎だが私は今、彼女に届ける手紙しか……いやそうだ、道中のおやつ代わりに買ったリンゴがあったな。食べるか?」
「めー」
安いからとつい買ってしまった。しかしよくよく考えれば自分は別段好きではないし、彼女などはリンゴの木が庭に生えている、食べ飽きているだろうに持っていけばそれは嫌がらせだ。
ならば、このお腹を空かせているらしき山羊に与えるのが最善に近いに違いない。
「……どうした?」
「めぇ」
そう思ったのに、リンゴを近づけてみてもスンスンと匂いをかぐだけで舐めようとも食べようともしない。
小さいとはいえ、もう乳飲み子からは離れたと思っていたが……まだ乳離れが出来ていないのだろうか。
ならば仕方がない、リンゴは適当に鳥にでもやるとして、私はさっさとこの手紙を入れてしまおう。よく考えれば、今回は飛脚にでも頼んだといえば彼女も気に病むこともあるまい。
赤いポストに入れて、今日は去るとする。
彼女の家に背を向け、今来た道を戻ろうとすると先ほどの山羊の声が後ろから聞こえてくる。
「めぇー」
「はっはっは、見送りの言葉のつもりか。中々に賢いや……ぎ」
あぁ賢い、非常に賢い山羊だ。
――なにせ、ポストを器用に開けて、手紙を加えようとしている。なるほど、目当てはリンゴではなく紙だったらしい。
黒山羊さんたら読まずに食べた、童謡を思い出す和やかな光景。
「……な訳ないだろう! 離せ山羊畜生め、これは私が丹精込めて書いて手紙だぞ!?」
「ぶぇー」
「手紙に食いつきながら鳴くとかいう器用なことをするんじゃない!」
もはや封筒のほうはダメだろう、だがそれでも、今取り返せば何とか中身は助かるかもしれない。そのためには、どうにかしてこの山羊の口を開けさせねばならない。
今では無垢なる黒山羊が悪魔の使いにさえ見える、そもそも山羊が食べる紙というのは植物性のものだけではないのか。
いや、そんなことはこんな畜生にはわかるまい。人に例えたら油ならば機械油でも揚げ物ができるといったアホな知人のようなものだ。
「離したまえ、さもなくば今夜の私の食卓に並べるぞ!」
「んめぇ~」
「あーっ! むしゃって音がした! わかった、私が悪かったからせめてそのまま食いちぎるのだけは―!!」
◇
結論から言えば、蝋の部分だけ残されてすべて食された。私の顔が絶望に染まり、膝をついている間も悪魔はすりつぶす様に口を動かしてこちらを嗤う。
何故だ、何故こんなことに……文面はいい。下書きがあるのだからそれを書き写せばいい、ただそれだけの話。
しかし、あの手紙に込めた思いは唯一無二、一期一会なのだ。
たとえ今から私が彼女を思い筆に起こしても、きっとそれは全く別のものなのだ。
ああだがしかし、きっと今明日未来のその先でも、この山羊に抱く憎悪は変わりあるまい。
「ふふ、ふふふ……トマトが余ってたな。若い肉ならば煮込む必要もない、ソースをかけて……」
「――な、なにをされてるんですか……?」
「なぁに、このにっくき獣をどう料理してやろうかとな……うん?」
山羊以外の声が聞こえた。透き通る、怒りで染まったどす黒い心さえも漂泊してくれる声。おかげでふっと冷静に戻り、ようやく隣に彼女が立っていたことに気が付く。
まずい、いくら何でもこの醜態を見られたのはまずすぎるというものだ。必死で言い訳を考えて、絶望と混乱にまみれ方向性もない思考では何も生み出せないことを理解する。
その間に、彼女は地面に落ちていた蝋を拾い上げ、それが何なのかを理解してしまったようだ。
「……蝋? も、もしかしてお手紙を――」
「し、し」
「し?」
どう逃げる、どうかわす。すでに手紙が食べられたということは悟られた。ならば、いつもの私の如く、キザに決めて煙に撒け。
黒山羊に食べられた、童謡、ああそうだ何も届いてはないがお返事も欲しい。
ぐちゃぐちゃに混ざり合った思考は、一つの捨て台詞を生み出した。
「――白山羊を飼っておく!!」
そう言って、私は山道を転がり落ちるように走り抜けた。
「……ごようはなあに、って書けばいいんでしょうか?」
「……めぇー」
女は一人、黒山羊に話しかけた。
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どうも通俺です、手紙と聞いたら私は山羊しか思い浮かびませんのでこうなりました。
ちなみに女性のほうが年が上です。