Re: 袖時雨を添へて、【小説練習】 ( No.140 )
日時: 2018/03/03 12:00
名前: 扇風機 (ID: LyBxwAsk)

 手紙は何日も前から書き始めていた。けれども、見習い魔女のナナはというと、途中で筆が止まってしまっていた。羊皮紙の前で羽ペンを持った手で頭を抱えて、目の前の光景をどう説明したものかと思案する。あまりに幻想的なその光景は、彼女の拙い語彙で表現するには困難だった。
 折角辿り着いたこの絶景を師であるマーリンに伝えずしてなるものかと、何日も同じ場所に泊まり続けて彼女なりの言葉で手紙に書き連ねていた。最果ての大地に一人住まう魔法の師匠。齢八十だと言うのに容姿はまだ若者にしか見えない世界一の魔法使いである。魔法のインクは、彼女の魔力に呼応していくらでも書き直すことができる。もう既に、羊皮紙十数枚分の言葉を書いては消してを繰り返していた。
 どうしたものかしらね。くたっと垂れた三角帽子の折れ曲がった天辺を指で引っ張りながら、彼女の周りを月のようにくるくる飛び回る稚龍に尋ねた。全長がナナの顔ほどしかない、満一歳の幼いドラゴンはピィと一声泣いて答える。知らないよって、言っている風に思えた。紫色の鱗は、いつかは立派なものになるのだろう、しかし今の仔ドラゴンの鱗は、魚のそれと変わらないくらいに頼りないものだった。卵を孵したのもその後育てたのもナナであるはずなのに、親というよりもはや妹のように扱われていた。私の方がずっとお姉さんなのにと、十三のナナはよく不満そうに唇を突き出していた。
 まあ最初から期待してなかったけどね。元々、人間の言葉なんて理解できない種族なのだ。それも赤ん坊。十三年も生きてきた自分でさえ目の前のその美しい世界を他人に伝えるだなんてできそうにないのに、彼にできる訳なんて無いと決めつけた。では、どうしたものかと彼女は再び羊皮紙と向き合うことになる。
 水晶乳洞、彼女らが今いるのはそう呼ばれる土地だった。通常鍾乳洞は石灰岩が雨水に溶けることにより、長い年月をかけて出来上がる。しかしこの場は、水晶が溶けることによって出来ていた。水晶が溶けてできた鍾乳洞のような土地、それこそが水晶乳洞である。水晶などどうやって溶けるのか、それはその鍾乳洞の最奥、蟻地獄のように窪んだ土地に沈みように横たわる、巨龍の骸が原因であった。
 蝕龍、そう呼ばれる種である。特徴としては丸みを帯びた山椒魚のような頭をしており、身体中黄土色にくすんだ鱗で覆われている。鱗は己が発する酸により溶かされて、ぼろりぼろりと定期的に崩れ落ちるが、下からどんどんと新しい鱗に生え変わる。呼気、汗、血液、排泄物にはあらゆる物質をゆっくりと溶かす強酸が分泌されており、近づく者を許さない臆病なものである。
 そんな蝕龍は、己の体が大地を、湖沼を、大気を穢すと本能的に知っている。そのため、己の死期を悟った時には、周囲に生命が見られないような大地でただ眠りにつくと言う。その時選んだ大地がたまたま水晶に覆われた洞窟であったため、氷柱のような水晶が天井から幾千本とぶら下がった光景が生まれた。そして龍の骸から漏れる酸も尽き、洞窟内の幻想的な光景が発見された訳である。
 そしてさらに珍しいこととして、絶景を作り出す要因はもう一つあった。この蝕龍は二百年に渡る生涯において、ある大陸の毒沼の近くを立ち寄った際に好酸性の菌をその地の獣の血肉と共に摂食していた。あらゆるものを溶かすはずの龍の酸だったが、ごく一部の個体だけが生き残り、そのままその菌だけが増殖した。そしてその菌は、ゴルシフェリンという物質を産生することができた。コンジキホタルカビ、学術的にはそう呼ばれているものだ。そしてそのカビは端的に言うと、金色に光輝くのである。
 だからこそ、深い深い洞窟の最奥、陽の光など全く届かないような洞窟の中でその空間はあまりにも輝いていた。まるで真昼のように明るくて、結晶に当たって吸収されたり、あるいは乱反射された光が優しくその空間を照らしていた。ひっくり返した剣山のような天井を見る。青色、藍色、紫色、その三つの色合いの水晶が地面に向かってその手を伸ばす。成分を学者が分析した結果、それぞれディプライト、インディゴライト、アメズ結晶、そう呼ばれているものと分かった。ただの石英が龍の魔力に中てられて生まれるとされる魔力を蓄えた水晶石である。削って飲めば魔力のドーピングができる特別な物質だが、依存性が強く竜化してしまう危険性を孕んでいるために服用は禁忌とされている。
 本来酸では解けぬような三種のクリスタル。それらも蝕龍の酸の前ではまるで水をかけた砂糖のようにあっさりと溶ける。だが、やはり龍の魔力、それも酸を分泌した張本人の力を浴びた結晶である。最初は溶けて滴り始めてしまうが、徐々に抵抗を得るようにして再結晶する。そうして、垂れて垂れて地面へと腕を伸ばし続けた姿が、この鍾乳洞様の光景だった。
 そしてそれらは、ただ溶けるのではない。それぞれの色合いを持った結晶が、複雑に絡み合うようにして溶け合う。けれどもそれぞれの水晶はそれぞれ全く違った物性を示し、絵の具を混ぜるように完全に溶け合うわけでは無い。それはむしろ、青と藍と紫の三種類の糸が互いによじれて、複雑に絡み合うようにして混合体のようになっていた。
 コンジキホタルカビの放つ光は水晶の中を通り抜けるたびにその色合いを変えて。青、藍、紫以外の光をランダムに吸収する特徴のあるそれらの結晶を透過すると、時折赤や黄色の光が生まれることもある。そのため、水晶そのものは三色しか無いにも関わらず、もっと色とりどりの万華鏡のような光景を鍾乳洞の中に描き出していた。それも、吸収する波長がランダムなために同じ個所を映す光の色合いも秒を追うごとにちょっとずつその顔色を変える。魔力を吸った鉱石特有のその光景は、人でなく自然が生み出した魔法のスクリーンであった。
 こんなに綺麗なのに。ナナは、目の前の光景を目にしながらそれでもこの景色が世界で一番美しい光景でないことに深いため息をついた。最も美しい世界は遥か彼方にあると、彼女の師匠は言っていた。その光景は自分しか見たことが無いとも付け足して。この蝕龍をも超える強力な瘴気を放つ龍、邪竜が存在するらしい。その邪竜から漏れる瘴気は、あらゆる宝玉を溶かしてしまうと言う話だ。
 そうして、魔族の大地の業火山ヴォルガフレイムを越えた先、極寒の平原コキュートスを抜け、底なしの毒沼である龍喰らいの胃袋を渡ったさらにその先、『元は宝石だった』海があるという。エメラルドが、ルビーが、プラチナが金が銀がトパーズが溶けてできた海。波打つたびに虹色の飛沫が飛び、潮引く度に龍の死骸が見えると言う。
 全ては語らないから自分の目で見てこい。爽やかな笑顔で言い放つマーリンのその言葉は、ただただ厳しかった。
 魔族の大地なんて、行こうものならすぐさま死んでしまう。邪悪な魔力が魔力の弱い者を侵して魔人に変えてしまうし、そうして生まれた魔人は我を忘れて人を襲う。闇の侵攻に抗いながらも、呑まれた者に打ち勝てるだけの魔術の素養と修練が必要だ。
 その上三千度の炎に耐え、零下八十度の極寒を乗り越え、数キロに渡る毒沼を渡らねばならない。そして最後に、金まで溶かす邪毒の瘴気に耐えねばならない。魔力に恵まれた者しか見れぬ光景、いくつになったら自分も見ることができるのかなと、肩を落とした。
 ゆっくり書けばいいか。魔法のポーチには、まだまだ食糧が入っている。ちょっとずつ食べれば四日は持つだろう。自分の目で見たその世界を、彼女は彼女なりの歩幅で文にする。呪文でもない言葉を紡ぐのは初めてだけれど、久しく会っていない師匠に出すと思うと心躍る。
 いつか絶対、この世界の綺麗なもの全部見届けてやる。決心を固めなおした彼女に呼応するように、幼い龍がピィピィと鳴いた。




家電製品です
ファンタジー寄りの話にしたかったのですが力不足でした。