Re: 袖時雨を添へて、【小説練習】 ( No.141 )
日時: 2018/03/04 00:01
名前: ヨモツカミ (ID: QzezFalo)

 手紙は何日も前から書き始めていた。筈なのに、『親愛なるアリスへ』で書き始めた紙面には、等間隔に引かれた無数の罫線が並んでいるだけ。檻に入れられた白ウサギさんみたいに、紙は白と黒の繰り返しがあるだけだった。
 インクさえ付いていない羽根ペンは、何10分前から握り締めていたかもわからない。鳥さんの羽根が付いているのだから、パタパタと勝手に動き出して、わたしの代わりに書いてくれればいいのに。なんて考えると、ついついわたしは溜息を滲ませてしまう。
 深く息を吐くと幸せが逃げちゃうよ、といつか彼女に言われたのを思い出した。けれど、逃げる幸せなんて、この目で見たことも無い。幸せってお星様みたいに空に飛んでいってしまうのかな。それとも、キャンディーみたいにポロポロと下に落ちていってしまうのかな。もしも落ちてゆくものなら、この何も書かれていない紙の上には、私の幸福がばら撒かれているのだ。
 そう思った途端、急にペンが走り出した。紙の上でキラキラと光る幸せの欠片を避けながら、わたしの代わりに、彼女に伝えたかった事を綴ってくれている。やっぱり思った通り。鳥さんの羽根が使われているのだから、このペンは生きていたのだ。
 しばらくして羽根ペンが止まる。書かれた文章を何度も何度も読み返して、わたしはまた深く息を吐く。慌てて口を抑えた。わたしの幸福は幾つ散らばってしまっだろう。わからないけれど、書けた手紙をクシャクシャに丸めると、それを後ろに放りなげた。それは、既に床に転がった数匹の丸められた紙の群れに加わって、溶け込んでしまう。似たような内容のくせに、その数だけを増やしていく。
 わたしはまた新しい用紙を取り出しては、白紙と睨み合いをする。こんな事を繰り返して、もう5日が経過していた。出発の日は明日に迫っているのに。
 伝えなきゃ。でも、彼女はこんなことを知ったら、怒るだろう。それでも、伝えなきゃ。でも、彼女は泣いてしまうだろう。もしかしたら、わたしを嫌いになってしまうかもしれない。でも、でも、でも。
 不意に、背後にある部屋のドアを叩く音が響いて、わたしは肩を震わせた。振り向いて、開かれたドアの隙間から覗いた顔にぎょっとする。
 チョコレート色の長髪、長いまつ毛、翡翠の大きな瞳、小さな鼻。この部屋の扉を叩くのは一人しかいないのだから、わかっていた。彼女だ。彼女がお気に入りの、黒と赤を基調とした可愛らしいワンピースの裾が、蝶々みたいに揺れながら近付いてくる。

「なかなか会いに来てくれないから体調崩したのかと思って、私から来ちゃった」

 少女は笑う。チェシャ猫みたい――とまではいかないけど。あんな品のないニヤニヤ笑いでは無く、マカロンのような、可愛らしい笑顔で。
 彼女が足元に丸まっていた手紙に気が付いて、拾い上げた。慌てたが、車椅子に腰掛けるわたしは、立ち上がってそれを止めることもできず、開いた口から溢れる声もなく、オロオロとすることしかできなかった。
 開いた紙面に視線を落としていた少女が、ゆっくりと顔を上げる。不安に歪めたわたしの目を覗き込む翡翠は、疑心に揺れていた。

「……どういう、ことなの」
「…………」

 彼女の口から溢れる、枯れ葉の声を聞いた。わたしはただ微笑んだ。他にどうしていいか、わからなかったから。
 彼女が唇を震わせて、ゆっくり。ゆっくりと距離を詰めてくる。否定するような足取りで。

「もう会えないって、どういうことなの? 私達、もう一緒に遊べないの?」
「…………」

 その手紙には、必要最小限に、伝えなければならない事が書かれている。
 遠くへ行ってしまうこと。
 もう二度と会えないこと。
 あなたとの約束は守れない。それでもわたし達は友達である、ということ。
 最後に、「両手一杯のパンジーをあなたに」という一文を添えて。
 しかし、彼女を憤らせ、取り乱させるには十分な事実が幾つも転がっている。わなわなと震える彼女の肩。大きな二つの翡翠がグラグラと揺れる。溢れた翡翠の欠片は、色もなく透き通っていた。

「嘘付き! 私達ずっと一緒だって、約束したのに!」
「……、……」

 口を開きかけたが、言葉は出てこない。俯くと、彼女とは対象的な、水色のワンピースの裾と自分の病弱そうな細くて白い膝が見える。膝の上に乗せた両手は、無意識に強く握り締められていた。

「今日も……なにも、言ってくれないんだね」

 彼女のその言葉で、胸が痛くなる。鏡に小さなヒビが入るのを連想する。彼女の言葉は鋭利なナイフ。勢い良く突き立てられた刃を中心に、ピシピシと音を立てて、写りこんだ彼女の顔に入る亀裂は広がっていく。嗚呼、彼女が砕けてしまう。
 繋ぎ止めようと必死なわたしに構わず、彼女はその顔を歪める。

「いつも、お花やお手紙を渡すだけで、あなたは何も喋ってくれないよね」

 鏡に映りこんだ少女の顔は、翡翠の欠片に濡れて、失望に歪んで、ひびだらけだ。慌ててわたしは辺りを見渡す。ヒヤシンスは見つからない。どうしよう、どうしよう、どうしよう。
 オロオロしながら、机の上に置いていた紙の上に、羽根ペンを走らせた。罫線など無視して、汚い文字。流れ星の尾みたいに掠れた文字列の紙を、彼女に差し出した。

『ごめんねアリス。夢で会おうね。
両手に抱えきれないほどのハベナリア・ラジアータをあなたに』

 頬を濡らしたまま、彼女が目を瞬かせる。じっと、紙面の文字を読んで、それからゆっくりと顔を上げて、私の方を見た。

「あなたは、逢いに来てくれるの?」
「…………」

 わたしはこくこくと何度も頷いた。壊れた振り子時計みたいに。そうすれば、雨を降らせていた彼女の顔に、太陽が覗き込む。

「約束っ、約束よ! 皆には秘密の、私達だけの約束! ふふっ、また私達だけの秘密ができたね!」

 虹がかかったみたいだと思った。彼女が笑っているならそれでいい。守れない約束と、嘘であなたが笑うなら。わたしも嬉しいから笑う。嘘つきのわたしは、オオカミに食べられてしまえばいいのに。
 ……手紙は、何日も前から書き始めていた。1枚目の手紙は、羽根ペンが書いてくれたわけでもなく、零れた幸せに汚れたわけでもない。わたしが、わたしの手で書いて、でも引き裂いてしまった本音。

『親愛なる偽物へ。
 ずっと思っていたことがあるの。あなたはね、アリスに相応しくないよ。
 白ウサギさんは時間に追われたまま、あなたのお迎えなんて忘れてしまっている。帽子屋さんは三月ウサギの夢に焦がれてお茶会を繰り返しているから、あなたに会いには来ない。チェシャ猫は消えてしまったはずよ。もう二度とあなたの目の前には現れない。
 ねえ、偽物。
 あなたに女王の資格はあるの?
 あなたに涙の泉は作れるの?
 あなたにハンプティダンプティが救えるの?
 あなたにトランプの城を壊せるの?
 
 あなたにわたしを見つけられる? アリスを返してよ。

 あなたのためのスノードロップと共に。夢の続きで会えるといいね、“アリス”』


*鏡の国の君を捜して
***
自己満足なので、まあ、意味わからないと思いますが、私は楽しかったです。少女の夢のような不思議な感じのものを書きたかったのと、ほんのり自分の創作の話です。
「わたし」は喋りたくないので喋らず、代わりに花で気持ちを伝える子なんです。