Re: 袖時雨を添へて、【小説練習】 ( No.144 )
日時: 2018/03/06 21:18
名前: 黒崎加奈◆KANA.Iz1Fk (ID: VHLX.tYI)

 手紙は何日も前から書き始めていた。そして、何度もやり取りを交わしていた。
 一日のうちに、何通も出した。君に伝えたいことが多すぎて、一つ、二つとどんどん膨れ上がっていく。もうすぐ君からの返事は来なくなるだろう。だからこうして、君から紙とペンが取り上げられる前にたくさん送るんだ。
 僕がどれだけ君を愛していたか。僕がどれほど君を愛しているか。
 どうしても送れない一通の手紙を見ながら、時が来るまで、君の素敵なところを書き連ねよう。

 あの日は時雨だった。どんよりした暗い雲が街の上には居座り、冷たい冬の雨を気まぐれに降らせている。水に濡れて滲んだインクを、暖炉で丁寧に乾かし、真新しい封筒にいれた。
 君の名前は記録には残るだろう。でも君がどんな人で、どんな風に思っていて、どんな風に生きたのかは残らない。せめて僕にできるのは、君の手紙を保管することだけ。
 あの日は君に会いに行った。大粒の雨が、ぽたり、ぽたりと涙のように斑に降る。傘をさす人、ささない人、人の波を避けながら、ロンドン塔の上の方まで会いに行った。

「あなた、そろそろ怒られるんじゃない?」

 君はいつも、自分のことより他人のことを心配していたね。あの日だってそう、でも大丈夫さ。本当に怒られるタイミングは一番分かってる。だからたぶん、君と直接言葉を交わしたのもあの日が最後。会うのはあと一回。時計の鐘が十二回なるときだ。

「お役人さん、こんなところで油を売ってはいけないわ。早く仕事に戻りなさい」

 僕がずっと口にできなかったことも、すぐに君は見抜いてしまうんだね。そしてそっと背中を押すんだ。
 それが僕の望むことではないと知っていても、ちゃんと仕事をさせようとする。君が悪魔と人に蔑まれるように呼ばれるのも、少しわかる気がするよ。

「愛していたわ」

 ほら、君はずるいから最後の最後で僕の決心を揺らがせる。このまま君の手を取って、一緒に過ごそうか。あの甘い日々に戻ろうか。
 ロンドン塔の鐘が重たく十二回鳴る。ほら、やっぱり君はずるい。こうして迷わせておいて、でも定めに逆らわない僕の性格を知っている。
 あと四十八回鐘がなったら、残された時間が全て終わる。
 だからそれまで、また手紙を書くさ。僕がどれだけ君を愛しているか。僕がどれだけ君を愛していたかを伝えるために。

 時よ、止まれ。美しく、止まれ。
 悪魔と契約することは叶わず、君の時計が零時を告げる。

 僕は、最愛の君の死刑執行許可証を手紙で送る。
 そして君は今日のうちに死ぬ。僕の目の前で、首を切り落とされて死ぬ。
 額についた手のひらをつたって、袖がいつの間にか斑に濡れていた。君と最後に言葉を交わした、あの日の雨のように濡れていた。


*時の悪魔に愛の手紙を添へて。

袖時雨、という言葉自体は冬の季語だそうですね。冬の冷たさと聞くとロンドンが思い浮かんだので。
ロンドン塔は中世、処刑の場として罪人を置く牢獄でした。ロンドン塔の鐘が鳴るときは、誰かの命が費えるときだと面白いだろうなーと。真実かは知りません。
でもゲーテのファウストはドイツなんですよね。時代考証は滅茶苦茶ですが、まぁ時計塔の悪魔ということで。

僕は役人です。君は姦通の罪に問われた女性です。