手紙は何日も前から書き始めていた。そう、書き進めてはいたのだ。もっと言えば脱稿寸前だったのだ。
──今、僕の目の前には横倒しになったグラスと、コーヒーに沈んだ便箋がある。
目の前に広がる光景に呆然としている間にも紙面は侵食されていく。その速さたるや悲鳴をあげる間も無く、はっと現実に目を戻した時には既に僕の自信作は哀れにも完全にカフェインに飲みこまれていた。
「……とりあえず、拭くか」
部屋には時計の音だけが響く。
とりあえず筆記用具を片して、その辺のティッシュで簡単に机を拭く。
今日はもう寝よう。さっきまで筆が乗っていただけにショックが大きい。部屋の電気を消して、沈んだ気分と寝不足で痛む頭を重たい布団で抑え込む。
おやすみなさい、明日になれば気分も治ってまたいい感じの文面を思いつけるだろう。頑張れ明日以降の僕。
朝日が丁度カーテンの隙間から差し込み始めてきた頃、僕はようやく眠りについた。
──二日後、ようやく手紙を書き終えることができて一安心する。いい加減書く速さが気分に左右されるのをやめたい。一昨日みたいに筆が乗れば便箋1枚くらい10分あれば埋められるのだけど、あのコーヒー浸し事件はかなり僕の精神に刺さったようで結局今日まで紙面を碌に埋めることができなかった。
とにかくこれで今回は大丈夫。同居人達に宛てた只の近況報告とは言え、読んでくれる人がいて感想を貰えるというのは純粋に嬉しくて、
だから僕も"渾身"を読んでもらいたい。
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手紙は何日も前から書き始めていた。
同居人に宛てた近況報告。簡単なようでこれがなかなか難しい。
とりあえず作業を一旦中断して朝ごはんを取ることにしよう。
「……凄いなあ」
フレンチトーストを齧りながら、伝言板に留められた便箋をちらりと見て私は苦笑する。内容はなんてことない、ここ一週間の近況報告。だけど、晴季くんのそれは同居人の中で一番読みやすく書かれたものであるという事は周知の事実だ。
そんな只の近況報告1枚に徹夜までしてしまうような彼が愛しくて、同時に少し心配でもある。
ご自愛下さい。なんて、したためてみようかなと思いながら私は朝食を片付けた。
私には晴季くんみたいに繊細で綺麗な言い回しは逆立ちしたって思いつかない。とりあえず今は自分が書きやすいように書いて、その後考えよう。肩に当たる優しい陽射しは私を応援してくれているようだった。
「……書けたー!」
今回はだいぶ上手くまとめる事ができた気がする。これで私の番はひとまず終わり。便箋を伝言板に留めたらどっと疲れが押し寄せてきた。
あまり夜更かしをするのもお肌に悪いしさっさと寝てしまおう。
「おやすみなさい」
私は独りごちて、ぱちんと部屋の電気を消した。
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手紙は何日も前から書き始めようとはしていた。これまでは何かと理由をつけてサボってきたが、とうとう怒られたのでさすがに今回は書かなくては。
「つっても書くことねーんだよなー……」
あるだろ。と、すかさず頭の中で口煩い同居人──冬臣という──がツッコミを入れる。「"報連相"をかかすな」だの「各々が勝手に予定を組めば収集がつかないだろう」だのこないだはまあ叱られた叱られた。
大体晴季も棗も冬臣も真面目すぎるんだよ。揃いも揃って窮屈そうにしてて楽しいのかね。中でも特に酷いのは晴季だ。俺らが居なかったら今頃どうなってたやら。
「ただいまー」
今日の講義は一限だけで終わりだ。昼時で腹も減っているのでさっさと家に帰ってきた。
スニーカーを乱雑に脱ぎ散らかして一目散に台所へ向かう。
冷蔵庫の中を見て今日の昼食を考える。よし、今日はチャーハンにするか。そうと決まれば俺は調理器具と材料を引っ張り出した。
材料を刻みながら近況報告に何を書こうか考える。とりあえず俺が最近何やってたか分かればいいんだろ? なんだそれなら簡単そうだな。食い終わったら早速書くか。
チャーハンをペロリと平らげて、食器を片し筆記用具と便箋を広げる。参考までに他の3人が書いたやつも広げているが、こう長々と書くのは正直面倒くさい。こういうのは何を書いているか分かればいいんだよ、分かれば。シンプルイズベストって言うだろ? 小綺麗な文章は晴季辺りにでも任せておけばいい、あいつ作家志望だし。
「よし、書けた書けた」
書き終えた手紙を伝言ボードに刺したと同時に携帯が鳴った。
「もしもし?」
『もしもし崎重くん? ちょっと今時間いいかな?』
電話をかけてきたのはバイト先の店長だった。
「はい、何ですか?」
『明日のシフトさー、ちょっと抜けが出ちゃって……代わりに入れる? 時給弾むから』
「ああ、いけますよ」
『本当! いやー助かるなあ』
「いえいえ全然」
まあ、
働きに行くの俺じゃないし。
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これは、一度手紙を書くべきだな。マイクに消毒液を吹きかけながら俺はそう思った。勝手にシフトを入れるなんて何を考えているんだあいつは。
今朝起きたら机の上に
『冬臣へ
今日16時からシフト入ったからヨロシクな
吉秋』
なんてメモが置かれていて思わず目を疑った。何がヨロシクだせめて一言相談しろ。
今日はせっかく天気のいいうちに新しいスニーカーを買いたかったのに、その予定もあいつのせいで台無しだ。さすがに家に一足しか靴が無いのは不便だろうと思って靴屋をめぐる計画を立てていたというのに!
ダメだ。思い出すと腹が立ってくる。接客業務を行える顔になるまで深呼吸を繰り返す。どうせこの大雨だ、店に出入りする客などいないだろうから少しくらい受付を空けていても問題はないだろう。
「あら、こんな所で会うなんて奇遇ね」
気分をどうにか落ち着かせ受付に戻る途中、不意に声をかけられた。
この人は知っている、確か同じ大学に通っている人で晴季の彼女さんだ。
「そう? ここ僕の職場だけど」
「あらそうだったの! それにしても今日は大雨なのに大変ね。あ、でもその分お客さんは少ないのかしら」
「まあね。予報ではこれからもっと降るって言ってたし、海里さんも早めに帰りなよ」
こんなに可愛らしい人が恋人なんて晴季は幸せ者だな。最初にこの話を聞いたときはまた吉秋が勝手に何かやらかしたのかと思ったのだが、どうやら告白したのは本当に晴季らしい。
しかし、晴季は彼女に俺たち"同居人"の事を打ち明けるのだろうか。
「ありがとう! あなたもお仕事頑張ってね」
「"はるき"くん」
俺は手を振って"彼女"を見送り、また仕事に戻った。
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*崎重晴季は多重人格