手紙は何日も前から書き始めていた。
行くあてのない手紙を。
瞬時に誰とでも連絡をとれる電子機器が普及しているこのご時世で、私は手紙を連絡手段として用いていない。ただの気まぐれであった。彼に対する愚痴だとも、私自身への嫌悪だとも受け取れる目の前のそれは、半分書きかけのままの状態でずっとそこにあった。
彼は交通事故に遭った。心配して駆けつけた私を彼は覚えていなかった。私を愛したことも、私に愛されたことも、以前の記憶も、全てが彼の中から消え去った。世に言う記憶喪失というやつだった。
彼から全てを奪ったあの事故から三ヶ月たった今でもまだ、彼は市内の病院にいた。――足が動かないらしい。
ずっとだろうか。ううん、私にはもう、関係のないことだ。
「ねぇ、俺、手紙の交換してみたい」
「――は?」
突然だった。ふと昔のやり取りが頭の中で再生される。それは、私たちが付き合い始めて一ヶ月ほど経ったころだった。
「え、手紙…?」
「そう。俺への愛を言葉にして、ちょーだい。俺の愛も言葉にして贈るから」
最初、何を言っているんだ、この男は。と思った。ロマンチストなのだ。彼への手紙を書いていくうちに、こういうのも悪くはないな、と思う自分がいた。
私にくれた手紙には花の模様があしらってあって、彼のことだからどうせ花言葉かなんか含んでいるのだろうと思った。案の定だったが、私はその花の名前を知らなかった。彼はその花の名を『スターチス』だと言った。
花言葉は――何だったかな。忘れてしまった。
もう一度、あの日のように少しわくわくした気持ちで調べる。
『スターチス 花言葉』
サイトによって解釈は少しずつ違って、その中に気になるものがあった。
――「変わらぬ心」、「途絶えぬ記憶」
……とんだ嘘つきだ。「途絶えぬ記憶」だなんて、どうしてこんなの選んだんだ。まったく守れてないじゃないか。
そしてまた思い出す。彼の声で。あの時のまま。
「家に便箋があったんだ。花言葉を調べたけど、それで問題ないなって」
「…問題ないってなによ。ベストなのを選びなさいよ」
「えー、色んな花の中から俺の君への愛を言い得ているのを選ぶなんて、難しい」
そういうことを真顔で言う奴だった。私は彼のことをそれなりに――いや、これは私の強がりで。……とても愛していた。彼もまた、そうだった。
どうしてだろう。こうなってしまったのは。
記憶を頼りに当時の彼の手紙を探す。捨ててはいない。ただ、片付けが苦手なのだ。
手紙は、大切なものが雑多に入っている引き出しの奥の方にひっそりとあった。
私はそれをそっと取り出すと、三年ぶりに読んだ。変わらぬ心。途絶えぬ記憶。
そうだ、今度は私が彼に誓ってやろう。あなたが私を忘れてしまっても、私はあなたを忘れない、と。我ながら実に未練がましい。”忘れない”のではなく、”忘れられない”のだ。
時計を見上げた。現在の時刻は午前十時頃。ちょうど街が動き出す時間だ。私はスターチスの花を買って、久しぶりに彼を訪れることを決めた。
***
病院の受付のナースに今日は面会の意思があることを告げる。
「えっと、あの…、とても言いにくいことなのですが…」
急に鼓動が速くなるのを感じた。心臓がうるさい。落ち着くんだ。
「彼…つい、この間…」
まさか。
考えるよりも速く、足は彼の病室に向かっていた。番号と場所は記憶している。部屋に駆け込むと、そこには空席のベッドがあるだけだった。
いなくなったんじゃなくて――?
思考は停止していた。秒針の音が響く。
「亡くなりました」
意識の奥でナースの声が響く。
亡くなった? 彼が? 失ったのは記憶だけじゃなかったのか。命までも失ったのか。いや、彼はその前にもっとたくさん失っていたのかもしれない。
自由とか、感情とか、笑顔とか、私の知らない何かとか…。
にわかには信じられない。
だけど、心のどこかで彼の死を受け入れていた。私の中で、彼はもうずっと前に死んだ。あの事故で彼は消えた。魂を失った肉体だけが、まだこの世に存在していた。
虚ろな眼で私に、君は誰だと問いかけた。
あの時にはもう、彼は生きていなかった。
あの事故で全てを失ったのは彼ではなく、私だったのかもしれない。
ふと、目の前の引き出しに何かが挟まっているのが見えた。遺族が持ち帰り忘れたのだろうか。
私は破れないようにそれを引っ張り出した。
これは――。
これは、私が彼にあげた手紙だった。昔の自分の手紙を読むのは、いささか気が引けたが、私は手紙を開く。
そこには、
『あなたのことを思い出せなくてごめんなさい』
懐かしい彼の字でそう書き足されていた。
『あなたは今、どこにいるの? 私は寂しいです。あなたのことを愛していました。今までも、今も、――』
これからも、と書きかけてやめた。わからぬ未来の約束はするものではない。
私は手紙から顔を上げて、目の前の花瓶に飾ってあるスターチスの花を見る。
あの日、行き場のないありったけの気持ちを込めた花は行き場をなくしてしまった。
だから、持って帰ってきた。時々こうして眺めるのだ。枯れるまで。私の想いが枯れるまで。この花は私の心に宿り続けるのだろう。ロマンチストな彼の代わりに。
最後にありふれた愛の言葉で締めくくった手紙をヒコーキ型に折る。
私はベランダから外へ出た。空は蒼く澄み、何もかもを吸い込んでしまいそうであった。
私はヒコーキにしたそれを、全力で空に向かって投げる。
思っていたよりも遠くへ行って、空に吸い込まれるようにして、消えた。
私は願いを込める。
「せめて、彼の魂に届きますように――」
と。
はじめまして! 月 灯りです。つき あかりと読みます。初参加で何が何やら、投稿方法があっているのかひたすら心配です。
このお話は私なりの美しさを追求してみました。みなさんに少しでも伝われば幸いです。