手紙は何日も前から書き始めていた。
「ンーヌ……ええい此んな物!」
僕は生粋の小説家であるのだ。
僕に書けない文章などね、此の世に有る筈が無いのだよ、有ってはならない。
例えば喜劇を書かせたならば、読者は必ず諸人ワハワハと抱腹絶倒する。文字通り腹が捩れて外科送りになった者がいるのだ、これこれ本当だぞ。
例えば悲劇を書かせたならば、読者は堪らず諸人壱頁目からシクシク泣き出す。中身の切なさ故に胸を掻きむしって、皮膚科にかかった者もいるのだ、なにおう誠であるぞ。
そうだ、昨今流行りのサイエンス・フィクションなるものをほんの試しに書いて版行した時も有ったねえ。此の冊子の読者はこぞって、間抜けでいて、呆けた顔を晒したものだった。これは僕の至極素晴らしい筆致を受け、心を現し世から飛ばさずにいられなかったに違いない。
しかし非常に残念ながら、僕はSFとかいうものに一切興味が無かった。ぽかんと口を開け、新たな物語に畏れと敬いをもってして僕を見詰めた輩には本当に気の毒だがね、あれを書き続けることは永遠にしないのよ。
しかしそんな僕にも、この手紙にだけはどうしても納得のいく言葉を紡ぎ出せぬ、まったくもって自分らしくもない、ちゃんちゃら可笑しい。
否、そもそもねえ、どうしてこの僕が、あんな平平凡凡な女に拘泥しなくてはならないのか。
誰もが喉から手が出るほど欲しがる僕の文章を、彼女だけに捧げる。ンン、何だとう、なんて贅沢な女だ、どうせ僕だけがこのようにヤキモキしているのだろう。彼女も同じように僕のことを考えていなければ不公平ではないか、裁判だ! 極刑を求む!
どうしようもなく腹が立って、気がつけば怒りに任せて百枚目の便箋を破り捨てていた。
「アッ……」
やってしまった! あれは最後の紙だったのに、嗚呼いやだなあ。
淡青色の便箋は、舞い散る花弁のように畳の上に降り掛かった。
復た学園通りの文具屋に足を運ばねばならぬ、有象無象の人混みの中に我が身を投じねば。
至極面倒なことになったぞ。
「ウオッ……!?」
しまった! 袖がインク瓶を巻き込んだ、嗚呼畜生め。
挿しっぱなしにしていた万年筆が机の上に転げ周り、木目に黒い星を燦々と降らした。
書生服の袴にじんじん冷たい黒がずんずん染みる。
ああ、卸したての袴であるのに、果たして汚れは落ちてくれるかい。
台所から膠が乾いたような布巾を取ってきて、机に押し付け押し付けを繰り返していると、やがてひどく惨めな気持ちになった。
どうして僕が此んなことを。
「は、はは。頭が冷えた」
嗚呼そうさ、どうせ彼女は、僕に振り向いてはくれない。
まったくもって嫌なことを思い出す、反吐が出そうだ。痛み、悼み、其ンなものは僕の知ったことでは無い。
こんなにこんなに可哀想な僕を、世間では冷血漢というのだろうね、まあそれも良いだろう。どこか超人的な文豪に相応しい箔が付くじゃあないの、歓迎だ、故郷のとうきびを抱えて迎合してやろう。
故人、恋人、奴の持つ全ての名前に腹が立つ。彼女を先に見つけたのは僕の方だったのに、奴は二年前の夏頃いとも容易く僕から攫っていってみせたのだった。
二人は恥ずかしげも無く人前にて手を繋ぎ、互いに顔を皺だらけにして、歯を出し、笑い合う。誠に下劣だ、どうしてあのように浅ましく公の場で睦み合う事が出来よう。
そして僕はそれを見ていることしか出来なかった、否、途中から急激な吐き気悪寒動悸の病が悪化し、見るのも辞めた。
流石に僕ほどではないが少し文章が書けるくらいでちやほやされた奴と、学部きっての眉目秀麗な彼女。まったくもって釣り合わない。奴より僕の方が彼女と桜並木の下を歩くには相応しいに決まっている、これは今でも不変の事と信じているのであるぞ。
そうして有る時、秋の部誌を発行した一ヶ月後だったか、奴はちっぽけな取るに足らないような出版社に声を掛けられた。残念ながらその時、僕は厄介な夏風邪をこじらせてしまい、皆の渇望する原稿を落としてしまった。
僕が書きかけていた散文を完成させていたならば、その枠は当然僕のものだっただろう。しかしまあ小さな会社だ。どうかどうか一筆頼むと請願されたって、もっと会社を大きくしてからどうだね、と蹴っていただろうね。
しかし奴は浅ましく二つ返事で、その会社の専属になりやがった。
そして一発当てた。
内容は至極単純なミステリーで大衆受けは良かったようだ。しかし僕に言わせれば、その落ちがどうにも頂けない。
読者が犯人だというのだ!
僕は遂にあんぐり口を開けるしか無かった。平生より可笑しな文章を書いていると思ったら此れだ。僕が犯人だとう、莫迦なこと言うんじゃあない。此のようなことはあってはならない。そうか、手前の初心者に毛が生えた程度の筆致にて騙される大衆を、奴は笑っているに違いない、非常に腹が立つ。残念だったな、僕は其ンな莫迦ではない、騙されたりしない。そもそも此んな終わり方、創作理論が崩壊している。許されない。
僕なりのストーリーを組み立ててやった後、朱色を持ち出したところまでは憶えている、しかし其れ以降はうん、からっきしだ。
そして奴との別れは唐突にやってきた。
其の末路はというと、去年の春、文字通り、奴の描いたシナリオ通り、読者、否、どこぞの誰かに心臓を一突きされちまったのだ。
彼の出版社にて落ちこぼれだった外回り営業人が、博打に手を出し、見る間も無く生活に困って、新鋭奴の印税を掠め取ろうとしたのだと、風の噂で耳にした。
その時の僕の気持ちか、うん、そうさなあ、嗚呼勝ち逃げか、許さないぞ、と。
唯、此れだけだった。
ええ、彼女の姿かい、僕も忙しくてね、特別気をつけて見てはいないが、おそらく通夜葬儀の類いにて、一度も見ていないよ。
「此んな物も」
奴が実に仕様もない理由で毒者から人生を奪われる前、下宿先に送りつけてきやがった分厚い紙の層。彼女の好きな色をした便箋も付いていたが、裏に移った鏡文字の筆跡一文字一文字にさえ腹が立って、勿論読まずに破り捨ててやった。
屑籠に放り込んだのも束の間、奴の直筆が僕の部屋で息をしているという気色の悪い事実に蕁麻疹が出そうになって、住処の傍を流れる、褐色の二級河川に流した。
本については、全頁心理情景描写文法技法人物の動かし方のみ摘まみ上げ、僕直々に赤インキで盛大に添削してやった後、酷く疲れてしまい、部屋の隅に放ったままである。
埃を被った其れが、今は妙に目について、今一度腑が煮えくりかえった。怒りで手が震えた。
僕の目に届くところに居るんじゃあない!
むんずと背表紙を掴み取って、襖に向かって投げる。
どさん、と余りに面積の広い音を立てたものだったから、紙の壁を穿ってないか、冷やりとすると共に、少し後悔した。
しかし幸いにも、襖には傷一つ無く、僕は嘆息した。此んなオンボロ、退居する際に追加で支払ってやるのは癪に障るからである。
厚紙を悪戯に重ねたような、安っぽい、地に堕ちた装丁はだらしなく両の腕を広げるのみで、その場に
横たわる。
決してやり返してくる事ない紙の束を見て、深く息を吐いて、再度脱力するしかなかった。
いつしか奴とは喧嘩らしい喧嘩もしなくなったんだ。
記憶の中で奴と討論、論争、それこそ喧嘩をした思い出なぞ、脳味噌の何処を引っ掻いても出てきてくれなかった。
僕の隙が無い正論に怖じ気づいて、奴はただ中身の無い謝罪を繰り返していただけだ、そうに決まってる。
実に張り合いのない奴だった。奴一人家からいなくなったって同じだ、まったくもって清清する。
こーんな人生、全てそう思い込まなければやってられないのだ。
彼女の方は、というと最近は文芸部にも顔を出すようにもなった。
彼女が奴と出会った場所、僕が彼女を見つけた場所。
一時期は塞ぎ込んでいたのか知らないが、講義にもその姿を見なかった。
時折であるが、業務連絡や、会話する際、元の可憐な笑みを僕にも見せてくれるようになった。
奴にだけ見せた顔、遠巻きに眺めることしか出来なかった顔。ふ、ふふ。
「食事――誘ってみるかア……」
結局、便箋を買いに行くことはしなかった。
*企画運営御中に今一度敬礼を