手紙は何日も前から書き始めていた。宛先はぼくの元から離れて行って、けれど今も遠いところで生きているあなたへ。書いては丸めて書いては丸めてを繰り返した結果、ゴミ箱にはぐちゃぐちゃに丸められた失敗作の山。幾つもの夜を更かし、幾つもの便箋を犠牲にし、残すはあと一行となってぼくはふうと息を吐いた。
ボールペンはインクが切れかけている。この手紙を書くために買ってきた安価なペンだった。ぼくは悩んでいた。あと一行、あと一行、何と書いたらいいだろうか。最後の一行を書いてしまえば、これでぼくとあなたの全てが終わってしまうような気がした。甘い思い出や恋慕の酩酊の残片に、文字通りのピリオドと終止符を打つことになると思った。馬鹿げた話だ。もうとっくに終わってしまったはずなのに。
ボールペンを持つ手がほんの僅かに震えているのに気付く。
二人で選んだ1LDKの部屋を途方もないほどに広く感じた。がらんどう。からっぽの抜け殻のようにも思えた。辺りは無色な静寂に満たされている。自分の呼吸音が耳に入る程に。世界中に僕しかいないんじゃないかと思う程に。部屋の隅にぼくひとりが寝るには不相応なダブルベッドがどかんと置いてある。その枕元には度が強い発泡酒の空き缶が散乱していた。この部屋にはあなたの影が今もうろついていて困る。
あなたと別れてかなりの時間が経ってしまったけれど、未だにぼくはここで止まったままだった。時間が経てば自然にこの思いも色あせてくれるだろうとたかをくくっていたけど、そうはいかなかった。薄まるどころか、ぼくの胸の中でとぐろを巻くように離れてはくれず、今もなおきりきりと僕の中の何かを締め付けている。我ながら女々しい男だとは思う。それで書き始めたのがこの手紙だった。
お茶でも飲もうかと椅子から立ち上がった時、ふとテーブルの上の便箋のそばにあった、あなたが忘れていったセブンスターの白いパッケージと、その近くの100円ライターが目に入った。あなたがここを去ってから何となく触れることの出来なかった忘れ形見だ。横には空の灰皿も置かれてある。
あなたは煙草が好きだった。恐らくぼくのことよりも好きだった。
ぼくは煙草が嫌いだった。煙草を吸う人もあまり好きではなかった。でもあなたは例外だった。
あなたはぼくに気を使ってベランダで煙草をくゆらせていた。その光景は今でもまぶたの裏に貼り付いている。冷たい風に吹かれながら煙を纏うあなたは、今にも消えそうなくらい儚げに見えて、いつか紫煙と一緒にふわふわと飛んでどこかへ行ってしまうんじゃないかと行き場のない懊悩に暮れていた。行き過ぎた杞憂だと信じたかった。だけど、ぼくのその不安は現実になった。
椅子に座り、セブンスターの箱を手に取って開いた。その中から一本取り出す。あなたがそうしていたように、人差し指と中指で挟んで口に咥える。煙草を吸えばあなたのことが分かるような気がした。あなたの気持ちに寄り添えるんじゃないかと思った。近くにあった100円ライターを持ち、カチッとボタンを押して火を灯す。あなたがいつか言ってた通り、フィルターを軽く吸いながら煙草の先にライターの小さい炎を近づける。容易く着火した。火種が燻り悲痛そうに赤く燃えて、急かすようにじんじんと白い灰が少しずつ長くなる。口の中にある煙を肺には入れずにふうと吐き出す。幾重にもつれた糸くずのような白い煙は、ぼくの目の前を通って、ゆっくりと上に登っていく。ふらふらと揺らいで、くらくらとたゆたって、ほどけながら天井まで届いて消えた。
カーテンの向こうで揺れるあなたの髪をすこしだけ思い出した。
何故か目の奥に強い熱を感じる。
再び僕は煙草を唇に咥える。深呼吸するように吸って煙を口の中に含んでから、意を決して肺の中に入れる。喉にガツンとした衝撃のような感覚。やはりというか、ぼくの呼吸器官が警告信号を出した。まずい、と思うよりも早く肺が煙に突き上げられるような感覚。ぼくは一回、二回と激しく咳き込んだ。喉が痛い。口から肺が出てしまうんじゃないかと間抜けた事を考える程だ。頭がくらくらする。眩暈も酷く、手紙に書いた文字が歪んでみえる。14ミリの煙草をいきなり吸えばそりゃこうなるだろと自責めいた事を思った。
かすかに青い色のついた副流煙は、愛しいほどにぼくの鼻孔を刺激した。苦くて苦くて、少し甘いあなたの匂いだ。その煙がぼくを責めるように目にしみる。目頭が熱を持つ。鼻の奥の奥から針で刺すような何かがこみ上げてくる。
「……あれ?」
自分の視界がぼやけている。まばたきをしても収まってくれない。目をこすってみてもその潤みは酷くなるばかりだった。やがて目じりのあたりで溜まった雫がつうっと頬を伝った。雨に降られたみたいにぽつりと便箋にぼくの涙が落ちる。滲む。手紙の黒い文字が滲む。瞼の裏のあなたの残像も滲む。あなたの細くて長い指も、ぼくより小さいその輪郭も、確かにぼくの肌に触れていたその体温も、感情の奔流と共に溶けるように僕の中のどこかで解けた。
強く目をこすった。指に涙が付着する。顔の全体が熱い。深呼吸。今日のぼくはどこか変だ。煙草を灰皿の底に押し付けて虫を潰すように火を消す。銀色の灰皿の中に見苦しく折れ曲がった吸い殻が一つ。
ぼくの書いた手紙が目に入る。縷々とぼくの情けない気持ちが書かれたそれは、今見ると食わせ物のイミテーションめいて思えた。ただの戯言の寄せ集めみたいに思えた。手紙とライターを手に取る。カチリと火をつけてぼくが書いていた手紙を上にかざす。
何の音もせず手紙は燃えた。熟れた蜜柑みたいな色の炎。ぐんぐんと反りながら黒が大きくなる。手が熱くなって焦りながら灰皿に落とした。手を離した後もぼくの恋心と同じように名残惜しく燃え続けた。
教えて欲しかったな、とオレンジ色の火を見ながら思った。
別れを告げる言葉と一緒に、あなたを忘れる方法を。
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初参加です。初めまして、藤田といいます。
敢えて書いたことのない恋愛モノと、苦手な感情描写に挑戦してみました。