「フビライハンとエビフライの違いを教えてくれ」
黒い、光沢のあるコートを着て、頬に古傷を残した男がいきなりそんなことを言うものだから、僕はその滑稽さに少し笑ってしまった。その幼い問いは、元刑事ですとでも言うような鋭い眼光や、今まで何人も殺してきたような貫禄と威厳のある様とは、違い過ぎた。その形相が怖いとは思わない。男の怒りが爆発するようなことがあっても、こんな公共の場で法にふれることをしたら、法律が僕を守ってくれるはずだからだ。たまたま声をかけてきただけの通りすがりの初対面だし、法的に有利なのは確実にこっちだ。しかし実際追い詰められてるのはこっちの方で、男は隣にいる僕なんて気にせず煙草を吸ってる。飄々と。これには、塾に通い詰め教師に何を聞かれようと完璧に答える僕も、答えに詰まる。フビライハン? エビフライ? 何も感じない本の読書感想文を埋めることは造作ないけど、これには前例がない。このような問いを受けた人物が、この世界で他にいるんだろうか……? これは僕が第一号かもしれないぞ、そんなときはどうすればいいんだ、誰にも教わってないぞ。先生おかしいじゃないかこっちは毎月高い授業料を払ってるんだぞと、思わず眉根を寄せていた。口を開きかけては閉じ、口を開きかけては閉じる僕を、男はひたすら無表情で見つめる。次第に、なんで、と思い始める。なんで優等生のはずのこの僕がこんな問いをされて、あたふたしているところを見られなきゃいけないんだ。こんな木枯しの吹く、寂しげな公園のベンチで、こんな初対面の強面の男と並んで。むっとする。僕もよく知らないけど、この男はあんまりいいことをしている類いの人間じゃないらしい。特定の職業には就いてないだとか。この服もどこかの金持ちの家から盗んできたとか。盗まれたのは一着服がなくなっていることにも気付かないちゃらんぽらんなのだから、盗もうが問題ないだとか。そんは男に出された問題に答えられないなんて、傍から見たら、僕が馬鹿な子供みたいじゃないか。こちらが……。だけど怒った方が負けという理論は理解しているから、頭を冷静にするように努める。必死で答えを探していると、男が言う。
「もしかして、フビライハンを知らないのか。……ああ。お前はまだ小学生だったか、それならまだ知らないな。ええとフビライハンというのは人名でな、歴史上の人物なんだ。元冦……」
「……それくらいは知ってる。今のご時世、それくらい知っていないとやっていけないんだよ。小学生でもね。それにその言い方も少しむっとする。まるでこっちが馬鹿みたいなさ……」
まともに働きもせずに悪さばかりして、僕みたいな息苦しさを知らないあんたに言われたくないよ。そんな皮肉を込めて言ったのだけれど、男にはちっとも伝わらない。それどころか僕の怒りに直接、素手でべたべたと触れるような言葉を返してくる。
「馬鹿のよう? 実際そうなんじゃないか? お前にとって「頭がいい」と「馬鹿」の区分は、他人に聞かれたことにきちんと答えられること、なんだろう。そう考えると今のお前は馬鹿にあたるんじゃないのか」
腹が立って、頭がうまく働かず、いつものような論理的な反論ができない。感情論だけが先行して、単純に思ったことだけが頭の中に並べたてられていく。ああなんでわかんないんだよ、うるさいなこっちはお前のその煙草のせいで副流煙を吸いまくりなんだよ、今深刻な問題になってるんだぞ、ニュースでもやってただろ、新聞も読んでないのか。上手く操作できない頭のまま、あ、あの、だから、と無様な声だけが流れる。
「だから、その、僕は立派な大人になるために頑張ってるんだよ。でもその服も盗んできたって言ってたし、そっちは立派な大人になるための努力をしてこなかったんでしょ。だから立派に働けてない、悪いことしかできない、そんな人に馬鹿なんて言われたくないって話だよ。もういい、僕帰る。僕だって忙しいんだよ。そっちと違ってさ。っていうか、エビフライとかフビライハンとか下らないしどうでもいいし。」
「そうか。最近は寒いからな、確かに早く家に帰った方が得策だな」
「……それじゃ」
引き留められるとは思ってなかったけど、やっぱり呆気ない。出会って数分の人間に、こんなに心を乱されるなんて最悪だ。なんて一日だったんだろう。僕も人間と揚げ物のちがいとか、自分で考えろとかなんとか、適当に言っときゃよかったんだ。
……考えてみれば、全く知らない人だし、答える義理なんてなかった。……誰だったんだあいつは。そんな疑問だけが、風に流されて飛んでいく。エビフライ同様たいした問題じゃないので、まあいいだろうと自分らしくない判定を下す。家に入るのに鍵を使うのが、なんとなくさびしい。家に母はまだ帰っていない。電話をかける。
「おかあさん。今日エビフライだから」