Re: 【第5回】絢爛を添へて、【小説練習】 ( No.169 )
日時: 2018/04/12 18:30
名前: ヨモツカミ (ID: E2txNEyU)

「フビライハンとエビフライの違いを教えてくれ」

 畳の上に敷かれた布団の中、ゆっくりと問いかける老人の声は今にも消えてしまいそうなほど弱々しく、けれど優しかった。
 傍らでその枯れ枝のような掌を握り締める老婆もまた、優しげに頬を綻ばせる。互いに見つめ合っているのに、もう殆ど見えない二人の双眸には、ぼやけた相手の輪郭が映るだけ。最後くらいはあなたの顔を見たかったのに、なんて言葉は口にしたところで寂しさが募るだけだから、胸にしまいこんだまま。

「教えておくれよ。何が違うんだい?」

 横たわる老人の掠れ声が問う、馬鹿げた質問。教えてくれの言葉の中には、覚えているかい? という疑問が含まれている。当然、老婆がそれを忘れるはずがないのだ。老人と老婆を繋いだ若かりし日の不思議な会話。
 思い出に浸りながら、懐かしむように笑みを浮かべ、彼女は答える。

「空を飛べるか、飛べないかですよ」

 それを聞くと、老人はにやりと歯を見せて笑う。いくつか抜け落ちて、残された細い歯も黄ばんで、その身に刻まれた年月を感じさせる。
 老婆は開いた障子の隙間から覗く空に目をやった。景色はやはりぼやけて見えるが、あの日と変わらない晴天がそこにある。冬の終わりを告げる暖かい日差しに、かつての自分達を見た。





「エビフライはね、空飛ぶエビなんだよ」
「……揚げ物でしょう?」

 もう何年も前の会話だ。互いが学生服に身を包んでいた。
 授業を一緒に抜け出してきて、社会科資料室で暇を持て余していた。鍵のかかってない空き教室がそこくらいしかなかったのだ。そこでなんとなく開いた教科書にあった顔を見ながら、彼がそんなことを言い出した。
 彼は不思議な人だった。時々、何を言っているのかわからない。

「つまりね、フビライハンとエビフライの違いは、空を飛ぶか飛ばないかなんだよ」

 時々というか、いつも何を言っているかわからない。今も得意げに違いを語っているが、なんかこう、もっと他にあるだろう、と彼女は思う。彼にはこういうところがあるため、友達も少なかったし、からかわれることも多かった。いじめられていた事だってあった。本人は、いじめられていることにも気付かなかったが。彼女が変わり者の彼の側にいようとしたのは、人と違う独特な感性に惹かれたから……だったかもしれない。
 今となっては思い出せない。でも、彼女にとってはただ側にいるだけで心地良いと思えた。

「フビライハンとエビフライ……? ああ、語感がちょっと似てるよね。小学生のとき、初めてフビライハンって習ったとき、エビフライみたいな名前だなって思ったよ」

 そう言いながら彼女が教科書を覗きこんだときには、彼はもう教科書なんか見ていなかった。視線の先を追うと、どうやら窓の外を見ていたらしく、暖かい日差しに照らされた校庭と快晴の空が広がっていた。
 彼女は彼の横顔を見た。いつも優しい表情を浮かべている人で、その柔らかい目元を見つめるていると、鼓動が加速する。病的に白い肌と、よく通る鼻筋に、思わず見惚れてしまう。

「空飛ぶエビを見るとね、幸せになれるんだよ」

 フビライハンのことはもう、どうでもいいのか。彼がそんなことを言い出す。幼い子供が思い浮かべそうな突飛な話。それを阿呆らしいとあしらってしまうのは簡単で、とてもナンセンスな選択だ。だから彼女は笑って話を聞く。

「そんな話初めて聞いたよ」
「それじゃあ、空飛ぶエビはいないのかなあ」
「さあ……。もしかしたら、いるかもしれないよ」

 そうして彼の話を信じてみる私もまた、頭がおかしいのかもね。声もなく彼女はつぶやいた。
 彼が彼女の瞳を覗きこむ。彼の色素の薄い虹彩が澄んだ水面のように揺れていた。

「じゃあさ、探しに行こうよ。二人で」
「どこにいるのよ」
「わからない。でも、いないって断定はできないなら、どこかにいるはずだよ。だから、探しに行こ」

 途方もないことを言い出すなあ、と彼女は苦笑を浮かべて訊ねる。

「それ、何年かかるの?」

 彼は少し首を傾げて、たっぷりと間を開けてから静かに口を開く。

「何年だろうねえ。でも、何年かけても見つけたいんだ」

 彼が少し気恥ずかしそうにはにかんで、彼女の耳元に顔を寄せる。吐息がくすぐったくて、頬が火照る感じがしたけれど、彼の囁き声を聞き逃さないように、口を噤む。

「君と一緒にさ」

 しばらくは目を丸くさせていたが、彼女も釣られて笑った。

「探そっか。二人でね。何年かかっても」

 高校を卒業して、何年かかけて、日本中の色んなところを飛び回った。空飛ぶエビを探して。ただの観光をしていたような気もするが、美味しい料理を食べたり、美しい景色をみたり、二人きりの時間を過ごせるなら何でも良かったのかもしれない。
 いつか、彼と「空飛ぶエビ、見つからないねえ」と話しながら入った定食屋で食べたエビフライのことは、よく覚えている。彼が箸で摘んだエビフライをじっと見つめて、不意に喋りだしたのだ。

「君は飛ばないのかい? そうか、そうか。今は飛ぶ気分ではないのか。だが、君の意志など関係ないのだよ。どうする気だって? 聡明な君にはわかるだろう。さあさあ、翼はなくとも羽ばたく気持ちさえあれば、空は掴めるだろう! 勇気を持て、ゆーきゃんふらーい!」

 等と話しかけて、店内にエビフライを放り投げて、店員さんや他のお客さん奇異の目を向けられたことがあった。
 綺麗に清掃された床に転がるエビフライを見て、彼女は慌てて店員に謝るでも、彼を叱りつけるでもなく、腹を抱えて笑っていた。そうして、二人揃って白い目で見られることになったが、彼女は意に介さなかった。




 老人はくっくっと笑う。遠い日を思い出して。少し寂しそうに。

「見つからなかったねえ、空飛ぶエビ」
「見つかりませんでしたねえ。でも」

 老人の弱りきった視力でも、傍らの彼女が微笑んでいたのがわかった。きっと皺だらけで張りのない肌の彼女は、まだ高校生だったあの日と変わらずに、ずっと綺麗だと思えた。

「幸せは見つかりましたよ」

 老婆の言葉に、目を丸くして、それから老人はもう一度くっくと笑う。

「ああ。僕も見つけたよ」

 人生の終わりには、何を思うのだろうか。老人はそんなことを考えたことがあった。案外、後悔や恐怖は無く、脳裏を駆けるのは彼女の笑顔ばかり。僅かに幼さの残る制服姿の彼女もいれば、顔に皺を刻み始めた彼女もいる。そのどれもが幸福を噛み締めるみたいに、優しく笑っていた。

 ゆっくりと閉ざした瞼の裏に、空を切る赤いものを見た。


*天駆ける幸福

***
我ながらクソみたいなお題を考えたなと思います。フビライハンが何を成し遂げた人かは知りませんが、名前の語感が好きです。一番好きなのはフランシスコ・ザビエルですが。
エビフライは美味しいですよね。今回はエビFlyな話を書いてみましたが、なんかよくわかりませんね!