Re: 【第5回】絢爛を添へて、【小説練習】 ( No.173 )
日時: 2018/04/14 15:59
名前: 神原明子 (ID: 6Cofq6II)

「フビライハンとエビフライの違いを教えてくれ」
 それこそが僕から彼女への告白、それに対する彼女の返答であった。この方は何を言っているのだろうかと、僕は言葉に詰まる。今しがた、僕が告げた言葉は「好きです、付き合ってください」だったはずだ。それなのにどうして、こんな訳の分からない問いを返されなければならないと言うのだろうか。
 大学の敷地内、人通りもそれ程多くは無いが、道行く人々はあまり他人の声に耳など傾けない。要するに背景にこそ人はいるのだが、誰も僕の愛の告白など聞きもしない場所で、意を決して想いを告げたのであった。真夏の日差しが、じりじりと僕のうなじを照り付けている。それはまるで、この居た堪れない空気に焼け焦げる僕の精神を物理的にも焦がしているようだった。
 つぅと僕の首筋を垂れる汗、少しくすぐったい。これは果たして夏の暑さに茹だる故だろうか、それとも羞恥の熱さに火照った故だろうか。それとも返事も出来ず、ただ口を噤む僕を憐れむ冷や汗か。さっぱり分からないけれど、汗一滴にすら不安を覚える僕のことを彼女は楽しんでいるようだった。
 「ふむ」と小さく息を吐き出し、どこか採点をする審査員のようにまじまじと僕の一挙手一投足に注目しているようだ。熱気をかき回すような、ちいとも涼しくない風が一つ。絹の糸のように艶めかしい、彼女の髪がサラサラと揺れた。そよ風の抑揚に合わせて、たなびく髪はその表情を変える。ふわりと、嗅ぎ覚えのある花の香。脳裏に紫色の花畑が一面に広がった。そうだこれは、美瑛で見た。ラベンダーの香りだとすぐに気づく。嗅いだのは数年前、修学旅行の行き先でだ。
 そんな僕だが、いつしか彼女の素っ頓狂な問い等よりも、その美貌に見惚れてしまっていた。細く柔らかそうなその髪に、ぱっちりとしたその二重の目に、顔の上で綺麗な丘陵を為すその鼻立ちに、健康的な赤い唇に。一年で最も暑いような時期であるので、ノースリーブのシャツにホットパンツと肌の露出は多く、布で遮られることも無く目に焼き付く色白の肢体は僕の瞳には眩しすぎた。それでも目で追ってしまう、そんな性を抱えた自分が悲しい。これだから男は、なんて軽蔑する姉の声が聞こえるようだ。
 彼女とは同じサークルに所属していた。学年も同じで、学部こそ違えど同じ文系であるため、同じ科目を取ることもあり、その度に軽く挨拶くらいはしていた。
 正直なところ一目惚れであったため、普段どの程度交流しているかなどあまり関係なかったように思う。四か月ほど共に過ごしてきて色々彼女本人から聞いたのだが、彼氏は高校時代に一人、大学の入学の際に彼女が上京してしまったため遠距離恋愛に。そのまま疎遠になりつい先月別れたのだとか。
 その話を聞きつけた男は一定数いたようで、先日まで彼氏がいるからと興味も持たずにいたような先輩たちが彼女に積極的に話しかけるようになった。それだけではない、サークルの中だけにとどまらず、同じ授業を取っている人たちも、こぞって彼女に話しかけるようになったのである。そもそも美人だとずっと評判になっていた女性であるため、それも当然だと言えた。
 だから、他の人たちを出し抜くためにも早いところ想いを告げなければと急いてしまったところがある。ただの友人としてしか接してこなかったため、適当にあしらわれる様な気がしてならないとは思っていた。しかし、こんなあしらい方だとは流石に思っていなかった。
「答えられないか?」
 顔立ちこそ崩さないまま、彼女はしびれを切らしたのか、掌を見せつけるようにして、五指を伸ばした右手をこちらに突き付けた。細くて、白くて、真っすぐな指にすら目を奪われる。彼女と話していると女性のイデアが目の前に現れたように思えるのだ。強いてあげるならば言葉遣いが少し強すぎるきらいがあるところが欠点だろうか。それでも、彼女の凛としたところを示すその語調が、僕にはむしろ好ましかった。
 ゆっくりと、その親指が折りたたまれ、第一火星丘と火星平原の辺りを覆い隠した。そして初めて僕は、それがカウントダウンであると察した。察してすぐに人差し指も親指を覆うように折りたたまれる。残り三秒、そういうことだろう。
 答えられないかとわざわざ聞いてくるということは、彼女にとってこの質問は意味があるという事だ。だから僕は、足りない知恵を振り絞って必死に考える。さっきまであんなに暑いと思っていたのに今や肌寒くて仕方がなかった。
 彼女のカウントダウンは、声も伴わずに進んでいく。静かながらも厳正で、容赦もなく削られる思考時間。黙って見つめられるその中で、僕の心臓だけがやけに五月蠅かった。左胸の肉を突き破って外に飛び出すのではないかと心配するほど、それは力強く暴れ狂っている。
 気づけばもう、最後の一本である小指の爪が顔を見せ始めていた。その指先が彼女のその掌に触れたその瞬間が、タイムアップの合図だろう。
 せめて、何か答えなければ。意を決して口を開く。何でもいいから答えるんだ、僕。フビライは人間でエビフライは食べ物、それで十分だ。
「……あっ……ぅあ……」
「時間切れ。少々難題だったようだな」
 意を決して口を開いた。そのつもりだったのだが、僕に覚悟できていたのは口を開くところまでであった。その後何を口にするのかなど自身などまるでなく、答えられようにも無いという不安と、気の利いたことを言わねばと言う焦りがない交ぜになり、僕は日本語らしいものを発することができなかった。
 魚が水面で口を開け閉めするように、声と言うよりもただ空気を漏らすのみで。みっともない裏声が僕の喉から捻り出ただけだった。
 何も用意できなかった自分が、歯がゆくて、みっともなかった。ばつの悪くなった僕は目を伏せる。またしても目に入る、白く柔らかそうな彼女の肌。直視するのが申し訳なくて僕はそれすら見ぬよう斜め下に視線を向けた。
「恥じ入る必要は無いさ。こんな問い、答えらしい答えなど無いのだからね」
 むしろ、君の勇気に率直な言葉で答えることができない私を許してほしいと彼女は腰を折って頭を垂れた。追随するように、髪は垂れて、また引き上げられる。あまりに細く滑らかで、簡単にたなびくその髪は、一度のお辞儀で乱れてしまう。顔の横に出しゃばって、耳を隠すようなその黒の長髪を掻き上げて、耳の後ろにかける。その姿さえも絵になった。
 ふわりと舞うように髪の毛が踊るその様子に、またラベンダーの花の香が、僕の元へ。
「私自身がこう、つまらない人間だからね。面白い人が好きなのさ」
 自分が綺麗だと言う事実は自覚していると彼女は言う。それは以前から、幾度か聞かされていた。否定する方がいい時もあるが、多くの場合はその言葉を受け入れるべきだと。謙遜が皮肉になることも数多く存在するのだと彼女は言う。これまで彼女が歩んできた道のりをちいとも見ていない僕には想像し辛いが、麗人ならではのいばらの道も歩んできたのだろう。
 綺麗な花に虫が寄るように、多くの男から言い寄られることがあると言う。けれども、自分はあまり口が得意な方ではない。そのためきっと、並の男であれば付き合っていても楽しくなどないと思うだろうし、思われてしまうだろう。
 だから私は、この人とならば面白そうだと想える人としか付き合わない。それが、先刻の見当違いな問いかけをした顛末であった。
「手の付けられないような無理難題すらも、飛び越えて楽しませてくれる。そんな人を探してる」
 きっと私は恋人に、自分が持っていないものを求めるタイプなのだろう、と。不思議と、その理屈に納得しかけていた。それゆえ、緊張と期待とで、暴れていた心臓も今では静まり始めている。まだ、トクトクと打つその勢いは強いけれども。
 すっかり落ち着いた心音は、僕の耳にはもう届かない。喧しいほどに反響する蝉の鳴き声にようやく気が付いた。振られた自覚のないこの僕の代わりに、大声を上げて泣いてくれているようにも思えた。とはいえ、僕は流石にこんなに大声で泣くつもりはないけれど。
「前の彼氏はどう答えたの?」
「最初は詰まらなさそうだと思うような答えだった。ただ、即答だったね。迷いもしなかったどころか、考えてもいなかった。脊髄反射に近かったねあれは」
 一から十まで全部違うじゃねえか。そう言ったらしい。ただ、嫌な顔もしなければ、困惑すらもしなかった。朗らかに、友人のボケを拾うように、極めて自然に振る舞ったそうだ。
「その後だったね、私が彼を気に入ったのは」
「まだ何か言ったの?」
「でも俺は、その二つならフビライハンになりたいなとか言い出したのさ」
 どっちになりたいかなんて、聞いてもいないのにね。あのフビライハンの肖像画を目にして、どうして自分もああなりたいと思えたのだろうかと彼女は、可笑しそうに思い出し笑いをした。きっと彼女にとって、彼に初めて好きだと言われた日の事は未だに特別な思い出なのだろう。
「何でさって聞いたらね、フビライハンって確かどこかの王様だろ? って。エビフライだけじゃなくて何でも食い放題じゃん。とか言ってさ」
 食べる以外に君に欲は無いのかと尋ねると、宝石とかに興味は無いしなと見当違いな答えが、また。
「その、考えなしで向こう見ずなところがね、保険ばっかかける小心者の私に足りない潔さがあって、私は彼を気に入ったんだよ」
 ただ一番私にとって面白かったのはね。そう前置いて彼女が言うには、最も面白かったのは一通り馬鹿みたいな事を言ったくせに、最後はとても照れ臭そうに、顔を真っ赤にしちゃって、目もろくに合わせられないまま、王様だったら好きな人とずっと居れるだろうと、か細い声で主張したところなのだとか。
 普段は茶化したお調子者で、クラスのムードメーカー。そんな彼が偽ることなく、道化になろうともせずに、自分の想いをストレートに伝えてきた。その、普段と違う様子に本気なのだなと確信したらしい。
「とまぁ、そんなこんなで付き合い始めたけど、今どきの高校生にしてはプラトニックに付き合っていてね。キスくらいが限界だった訳なのだけれど」
 案外恋愛というのは難しいものだと彼女は言った。自分も一緒にいるうちに段々と彼に惹かれていたはずなのだが、こうして進学し、遠く離れた地へ来てしまうと段々その熱が冷めていく。物理的な距離が心理的な距離に干渉してきた。
 会えないもどかしさと寂しさと、生来の冷え切った人格とがごちゃ混ぜになって、心の中には冬がやって来た。段々芽生えた好意も、愛の供給が絶たれて萎れてしまった。季節は夏で、暑苦しいと言うのに胸の奥には空洞が出来て、むしろ寒気を感じるくらいだった。
「そうして別れを切り出したんだよ。我ながら怖くなったね、悩んでる時はあんなに苦しんでたのにさ。映画行こうよ、って言うくらいの軽い言葉で、別れようが口をついて出たんだ」
 長い沈黙の後に相手も、分かった、とだけ。それがつい先月のお話さと彼女は言う。別れた報告を、お互い高校以来の近しい友人に報告して、もうその話は必要な分だけ広まったのだとか。大学で、不必要なところにまで拡散される噂なだけはあるなと、僕は納得した。

>>174

Re: 【第5回】絢爛を添へて、【小説練習】 ( No.174 )
日時: 2018/04/14 15:58
名前: 神原明子 (ID: 6Cofq6II)

 長い沈黙が訪れたのは、今この瞬間も同じだった。僕はこんな話を聞かされて、何を伝えればいいのだろうか。何を想えば正解なのだろうか。
 さっきのフビライハンとエビフライの違いだって難解だったけれども。気を紛らわせようと蝉の声にでも意識を向けようとする。でも、あんなに五月蠅かったその斉唱が、全く僕の耳には入ってこなかった。
 過去の人を思い返す彼女の声は、心底楽しそうだった。その様子だけでよく分かった、彼女は自分からあまり熱くならないタイプの人間に分類したが、その熱はただ断熱材に阻まれているだけで、胸の内には人並みの感情の火が揺れている。でもきっと彼女は、自分で言うように臆病だから、その火を曝け出すことが怖いのだろう。
 だけど、先日別れた元彼氏は、彼女の本心を映し出す鏡だったのだろう。鏡と言うと少し違和感がある。メディアと言った方がいいだろうか。彼と言葉を交わすことで、彼の様子を離すことで、彼女が彼女足り得る何かを世界へと発信できていたのだろう。
 蝉の声が聞こえない理由が、分かった気がした。そんなものよりずっと大切なものを、聞き漏らさないためだ。ようやく顔を見せた本音を、余すことなく見届けたかったからだ。
 そんな姿を映し出せる、彼のことが羨ましいと僕は思った。競うこともできず、会うことも張り合うことも能わない、蜃気楼みたいに大きく見える、どこまで行っても幻影に変わりない彼。彼女が好いた彼というのは、きっともうどこにも居はしないのだから。

 僕の人生には、ちいとも関係ないのだ。彼と言う人間は。
 それはもう、とっくの昔に死んでしまった、フビライハンと同じだろう。
 だとしたら、僕は。

「僕は、どちらかと言うとエビフライの方がいいな」
 気づいていなかったのだけれど、僕の心の呟きはいつしか声となって垂れ流しになっていた。無意識に呟いたものだから、きっと彼女にしか聞こえなかったろう。
 ずっと黙っていただけかと思えば、不意に対抗心を燃やしたような僕の言葉に、彼女は驚いたようである。このまま気まずくだんまりを貫いて、何事も無かったように別れて、また明日友人として会うんだろうな、だなんて思っていたに違いない。
 不思議そうにして少し目を見開いた彼女だったけれど、何やら面白そうだと目を細めた。珠でも磨いたのかと尋ねるくらいに綺麗な白い歯が覗いて。その微笑には、モナ・リザだろうが敵いはしないだろうな、なんて下らないことも考えたりして。
「それはどうしてだい?」
 その声は、弾んでいた。先ほど、僕の知らない彼の昔話をしていた時と同じように。この声は、サークルでも、授業でも聞いたことが無い気がする。何だか僕は、彼に並べたような気がして、誇らしくて仕方がない。
「フビライハンはさ、君の生活に何一つ影響を及ぼしていないと思うんだ」
「概ねそうと言えるね」
「だけどさ、エビフライだったら君も食べるだろ?」
「そりゃあたまにはね。揚げ物は苦手だけれども」
「ちょっとでも、関係があるならそっちの方がいいなって」
 とどのつまり、好いてしまったものは仕方がない。僕は彼女にとって、大昔アジアで国を支配していただけの見ず知らずの王様よりは、洋食屋で姿を見てもらえるような近しい平凡なものでありたい。好意なんてそんなものだ、恋愛だけじゃない。友情だって、親愛だって、全部一緒だ。君と関わりたい、傍に居たいと願うくらいは許してもらえはしないだろうか。
「それにほら」
「何だい?」
「フビライハンを選んだ彼は、今となってはもう会わない人だろう?」
 自分はそうはなりたくない。それこそが、伝えるべきことなのかと、不安に思いながら僕はそのように纏めた。
 それが君の答えかと、確認するように彼女は復唱した。
「フビライハンは、無関係の過去の人で、エビフライであれば私とも触れ合える、と?」
 その表現が本当に僕の伝えたかった言葉なのか、彼女にも僕にも分かりはしなかった。そもそも問いが不完全すぎる。違いを答えろだなんて質問、そもそも比較する両者に類似点があるべきなのに、それが一つも無い。
 だけれどもそう、無関係な昔の人になりたくないという意志は正しかった。彼女との繋がりは捨てたくないし、どうせならもっと近寄りたい。
 フビライハンを選んだ彼がもうとっくに破局している事からも僕は、そちら側になりたくない。
「それが君にとっての、両者の違いという訳か」
 君はこんな七面倒な問いかけにもきちんと回答を残すんだねと、彼女は笑う。告白されるたびに同じ質問を繰り返してきた彼女だったが、真面目に答えようとしたのは僕が初めてだったらしい。
 大体皆、「全然違う」と言うか、ただ単に『元の皇帝』だとか『食べ物』だとか答えるだけ。ありきたりで何も得るもののない、つまらない人間ばかりだったらしい。
 例の彼も詰まらなくなかったというだけで、自分の言葉で両者の差異など答えようなどとしなかった。きっと彼女だって答えようなどとしないだろう。根が小心者で、思いついた答えなんて、恥ずかしくて口に出せやしないだろうから。
「ふむ、少々粘着気質で恐ろしいところのある答えだったが」
「それは手厳しい」
「けれども、好かれた事実は理解できた」
 一目惚れで申し訳ないと思う。我ながらとても軽薄なようにも思えるが、初めて顔を合わせてその瞬間に落とされた訳なのだから、いっそ清々しいと認めて欲しい。綺麗だと理性が把握する前に心を奪われたのだ、もう抵抗などできるはずも無かった。
「少しずつでいいかな?」
「何が……?」
「君を異性として見るのがだよ」
 以前の彼にしたってそうだったのだけれどねと彼女は添へる。これは、了承を貰えたとのことなのだろうか。
「執着とも呼べるような好意は初めてだからね。それもやはり、私には足りていないものだ」
 確かに彼女はずっと、自分に足りないものを求めていると主張していた。なるほど確かに淡白に見える彼女にとって、僕の抱いたこの感情はどう見てもしつこく、自分の持ち合わせていないもののように映るはずだ。
 今一、受け入れてもらえた実感がわかない。きっと僕は喜ぶだろうって予測していたのだけれど、途中、これは無理だろうなと思ったがために受け入れられた現実が納得できなかった。
「というか、ほんとにそれだけの理由で付き合えるんだね……」
「それだけでは無いぞ? 君は入学した頃からずっと仲良くしてくれていたからな、それなりに君と言う人となりは見てきたつもりだ。信頼できる人間だとは思っている」
 最近になって急に視界に入り始めた連中はどうにも好きになれん、と一言。鳥肌の浮いた肌をさすりながら彼女は身を竦める。その、風刺的な姿はいつもよく見る、クールでかっこよくて、とても美しい彼女の斜に構えたともとれるような姿を思い起こさせた。
 ああ、そうか。僕はこんな彼女に惹かれていたのだな。一目惚れした事実こそあれど、話せば話すほど焦がれた理由は、きっと僕も同じなのだろう。僕に無い格好良さを、美しい芯の通った生き方に憧れた僕は、日を追うごとに蟻地獄の中心に吸い寄せられるようにして、より深く落ちていったのだ。

 私から見た君も、魅力的ではあったという訳さ。
 破顔して、溌溂とした声を発して。目の前に彼女の顔が現れる。
 揺れる彼女の前髪が、僕の鼻先をくすぐった。一際強いラベンダーの香りに包まれて僕は、くらくらして天にも昇りそうになる。
 そうか。驚き、受け止めきれないように見えても、僕は嬉しくて仕方がないんだろうなと納得した。
 蝉の声なんて、やっぱり僕の耳には一切届いていなかった。