長い沈黙が訪れたのは、今この瞬間も同じだった。僕はこんな話を聞かされて、何を伝えればいいのだろうか。何を想えば正解なのだろうか。
さっきのフビライハンとエビフライの違いだって難解だったけれども。気を紛らわせようと蝉の声にでも意識を向けようとする。でも、あんなに五月蠅かったその斉唱が、全く僕の耳には入ってこなかった。
過去の人を思い返す彼女の声は、心底楽しそうだった。その様子だけでよく分かった、彼女は自分からあまり熱くならないタイプの人間に分類したが、その熱はただ断熱材に阻まれているだけで、胸の内には人並みの感情の火が揺れている。でもきっと彼女は、自分で言うように臆病だから、その火を曝け出すことが怖いのだろう。
だけど、先日別れた元彼氏は、彼女の本心を映し出す鏡だったのだろう。鏡と言うと少し違和感がある。メディアと言った方がいいだろうか。彼と言葉を交わすことで、彼の様子を離すことで、彼女が彼女足り得る何かを世界へと発信できていたのだろう。
蝉の声が聞こえない理由が、分かった気がした。そんなものよりずっと大切なものを、聞き漏らさないためだ。ようやく顔を見せた本音を、余すことなく見届けたかったからだ。
そんな姿を映し出せる、彼のことが羨ましいと僕は思った。競うこともできず、会うことも張り合うことも能わない、蜃気楼みたいに大きく見える、どこまで行っても幻影に変わりない彼。彼女が好いた彼というのは、きっともうどこにも居はしないのだから。
僕の人生には、ちいとも関係ないのだ。彼と言う人間は。
それはもう、とっくの昔に死んでしまった、フビライハンと同じだろう。
だとしたら、僕は。
「僕は、どちらかと言うとエビフライの方がいいな」
気づいていなかったのだけれど、僕の心の呟きはいつしか声となって垂れ流しになっていた。無意識に呟いたものだから、きっと彼女にしか聞こえなかったろう。
ずっと黙っていただけかと思えば、不意に対抗心を燃やしたような僕の言葉に、彼女は驚いたようである。このまま気まずくだんまりを貫いて、何事も無かったように別れて、また明日友人として会うんだろうな、だなんて思っていたに違いない。
不思議そうにして少し目を見開いた彼女だったけれど、何やら面白そうだと目を細めた。珠でも磨いたのかと尋ねるくらいに綺麗な白い歯が覗いて。その微笑には、モナ・リザだろうが敵いはしないだろうな、なんて下らないことも考えたりして。
「それはどうしてだい?」
その声は、弾んでいた。先ほど、僕の知らない彼の昔話をしていた時と同じように。この声は、サークルでも、授業でも聞いたことが無い気がする。何だか僕は、彼に並べたような気がして、誇らしくて仕方がない。
「フビライハンはさ、君の生活に何一つ影響を及ぼしていないと思うんだ」
「概ねそうと言えるね」
「だけどさ、エビフライだったら君も食べるだろ?」
「そりゃあたまにはね。揚げ物は苦手だけれども」
「ちょっとでも、関係があるならそっちの方がいいなって」
とどのつまり、好いてしまったものは仕方がない。僕は彼女にとって、大昔アジアで国を支配していただけの見ず知らずの王様よりは、洋食屋で姿を見てもらえるような近しい平凡なものでありたい。好意なんてそんなものだ、恋愛だけじゃない。友情だって、親愛だって、全部一緒だ。君と関わりたい、傍に居たいと願うくらいは許してもらえはしないだろうか。
「それにほら」
「何だい?」
「フビライハンを選んだ彼は、今となってはもう会わない人だろう?」
自分はそうはなりたくない。それこそが、伝えるべきことなのかと、不安に思いながら僕はそのように纏めた。
それが君の答えかと、確認するように彼女は復唱した。
「フビライハンは、無関係の過去の人で、エビフライであれば私とも触れ合える、と?」
その表現が本当に僕の伝えたかった言葉なのか、彼女にも僕にも分かりはしなかった。そもそも問いが不完全すぎる。違いを答えろだなんて質問、そもそも比較する両者に類似点があるべきなのに、それが一つも無い。
だけれどもそう、無関係な昔の人になりたくないという意志は正しかった。彼女との繋がりは捨てたくないし、どうせならもっと近寄りたい。
フビライハンを選んだ彼がもうとっくに破局している事からも僕は、そちら側になりたくない。
「それが君にとっての、両者の違いという訳か」
君はこんな七面倒な問いかけにもきちんと回答を残すんだねと、彼女は笑う。告白されるたびに同じ質問を繰り返してきた彼女だったが、真面目に答えようとしたのは僕が初めてだったらしい。
大体皆、「全然違う」と言うか、ただ単に『元の皇帝』だとか『食べ物』だとか答えるだけ。ありきたりで何も得るもののない、つまらない人間ばかりだったらしい。
例の彼も詰まらなくなかったというだけで、自分の言葉で両者の差異など答えようなどとしなかった。きっと彼女だって答えようなどとしないだろう。根が小心者で、思いついた答えなんて、恥ずかしくて口に出せやしないだろうから。
「ふむ、少々粘着気質で恐ろしいところのある答えだったが」
「それは手厳しい」
「けれども、好かれた事実は理解できた」
一目惚れで申し訳ないと思う。我ながらとても軽薄なようにも思えるが、初めて顔を合わせてその瞬間に落とされた訳なのだから、いっそ清々しいと認めて欲しい。綺麗だと理性が把握する前に心を奪われたのだ、もう抵抗などできるはずも無かった。
「少しずつでいいかな?」
「何が……?」
「君を異性として見るのがだよ」
以前の彼にしたってそうだったのだけれどねと彼女は添へる。これは、了承を貰えたとのことなのだろうか。
「執着とも呼べるような好意は初めてだからね。それもやはり、私には足りていないものだ」
確かに彼女はずっと、自分に足りないものを求めていると主張していた。なるほど確かに淡白に見える彼女にとって、僕の抱いたこの感情はどう見てもしつこく、自分の持ち合わせていないもののように映るはずだ。
今一、受け入れてもらえた実感がわかない。きっと僕は喜ぶだろうって予測していたのだけれど、途中、これは無理だろうなと思ったがために受け入れられた現実が納得できなかった。
「というか、ほんとにそれだけの理由で付き合えるんだね……」
「それだけでは無いぞ? 君は入学した頃からずっと仲良くしてくれていたからな、それなりに君と言う人となりは見てきたつもりだ。信頼できる人間だとは思っている」
最近になって急に視界に入り始めた連中はどうにも好きになれん、と一言。鳥肌の浮いた肌をさすりながら彼女は身を竦める。その、風刺的な姿はいつもよく見る、クールでかっこよくて、とても美しい彼女の斜に構えたともとれるような姿を思い起こさせた。
ああ、そうか。僕はこんな彼女に惹かれていたのだな。一目惚れした事実こそあれど、話せば話すほど焦がれた理由は、きっと僕も同じなのだろう。僕に無い格好良さを、美しい芯の通った生き方に憧れた僕は、日を追うごとに蟻地獄の中心に吸い寄せられるようにして、より深く落ちていったのだ。
私から見た君も、魅力的ではあったという訳さ。
破顔して、溌溂とした声を発して。目の前に彼女の顔が現れる。
揺れる彼女の前髪が、僕の鼻先をくすぐった。一際強いラベンダーの香りに包まれて僕は、くらくらして天にも昇りそうになる。
そうか。驚き、受け止めきれないように見えても、僕は嬉しくて仕方がないんだろうなと納得した。
蝉の声なんて、やっぱり僕の耳には一切届いていなかった。