Re: 第6回 せせらぎに添へて、【小説練習】 ( No.191 )
日時: 2018/05/24 17:03
名前: 狒牙 (ID: qggtGn0.)

 名前も知らないのに、そんな時分から私は、彼のことが嫌いだった。彼の纏う空気が、貼り付けた笑顔が、浮わついた声が、全部私の鼻につく。
 誰に向かって告げている訳でもないのに、誰にだって伝えられる。そんな透明な愛ばかり口にしていた。愛と呼んで本当によいのだろうか。その甘言はきっと、誰にだって突き刺さる。これはむしろ凶器だ。冷静な部分だけを殺すナイフ、だから誰もが彼を受け入れてしまう。
 しかし私にとって、彼の囁く蜜のような言葉は、言うなれば夏の夜に訪れる寝苦しさのように思えた。暑苦しくて、額の汗を自覚する程に疲れてしまう。しかし圧倒的なマジョリティは、同じものに対し春の陽気さを感じていた。これまで寒いだなんて思っていた分、なおさら。承認欲求を満たしてくれる暖かさが、心地よくて堪らないのだろう。
 夏の夜にしたって、春の陽気にしたって、気温として数字にしてしまえば変わらない。それなのにどうして、こうも印象が変わってしまうのだろう。片や飛び交う蚊の羽音にさえ神経を逆撫でられ、片や川のせせらぎに心も安らぐというのに。


「おっ、佐藤ちゃん前髪切った? 似合ってるよ」
 口先ばっかでそんな事思ってもないくせに。

「ヒデじゃん。聞いたよー、強豪相手に四失点で押さえたんだって? やるじゃん」
 ベンチの連中と、四点も取られてんのかよと笑っていただろうに。

「井上、今回赤点とったんだって? きっついなぁ。まあ学生って勉強だけじゃないからさ、気楽にいこーぜ」
 以前鈴木くんには、やっぱ学生の本分は勉強だよなとか口にしていなかったか。あぁ、矢張りと言うべきか、あっちにフラフラこっちにフラフラ、蝙蝠みたいなあの男が気に食わない。


 しかし私とてそれをわざわざ咎めるつもりもない。彼がどのように日々を過ごそうとそれは彼の自由だ。私がとやかく言えるような事じゃない。しかし、だ。

「りりちゃん今日も仏頂面だねぇ。笑うと可愛いんだからさ。ほらっ、スマイルスマイル」

 しかし、私に話しかけるのだけはやめてくれないだろうか。この男、どの面を下げて私の事を笑えば可愛いなどと抜かしているのだろうな。君の前で一度も笑ったことなど無いというに。
 真意がこもっているかも分からない薄っぺらな態度。いやきっと、これはただの世辞だ。機嫌を窺うその瞳が、やけに白々しくて仕方ない。見せかけだけ、さも自分は本心からそう述べているのだとキラキラ輝く瞳が、どうもこうも不自然だ。でもそれはおそらく、クラスの皆にとっては自然なものに見えるのだろうな。
 もしかしたら、皆それが自然なものと思い込みたいのかもしれない。彼が私達に告げるのは、各々がそれを認めて欲しいと願う、心の底に潜む欲求。自分が請うてでも手に入れたくて仕方ない承認が、上っ面だけの建前でなく本音だと信じたいのだろう。だからそうだ、誰もが彼の仮面を、素顔だなんて思う訳は。
 しかし私は騙されない。眼鏡のレンズを結ぶ架け橋を指でくいと持ち上げて威嚇し、冷たい目で一瞥。呆れたと表情で語る私自身の顔、彼が此方を見つめる角膜に映りこんだ姿が目に入る。彼が両手の人差し指を使って両サイドの口角を上に引き上げて笑みを作る顔がやけに近い。もう少し離れてほしい。彼のワックスのせいだろうか、シトラスの香りがぷんと漂った。清涼感とほど遠い、しつこい芳香だ。

「……今日も元気そうね、無駄に」
「いやー、つれないなぁ。アイスクリームみたいに今日も冷たい」
「それは残念でした。私は、アイスみたいに甘くないから」

 彼は恨みがましそうに、喉の奥に返答を圧し殺した。くぐもった音が織り混ぜられた吐息が漏れる。正しくは上手い返しなど思い付かなかったのだろう。全部口が軽いせいだ、私の心にその声が響かないのは。いつだって私に届くのは、取り繕った甘い響きなどではなくて、シンプル故に心を揺らす、そんな真っ直ぐな決意だ。
 そしてそれは彼に欠如している代物だろう。可哀想なことに、何故だか彼は私の冷たい鋼鉄の仮面を外すことに躍起になっているのに、それは叶わない。鉄仮面でなく鉄面皮だったら彼自身が付けているというのにな。

「でも、私がアイスだったなら……さしずめあなたは天婦羅かしらね」
「ん? どゆこと? 天婦羅は油で揚げてる熱々のものだから正反対ってこと?」
「いいえ、ただ君にそっくりなだけよ? 軽くて薄っぺらい衣を身に纏っているところ」
「そいつぁ手厳しい」

 開いた手のひらを打ち付けるように額に当てて、わざとらしく肩を落とす彼。全く、この男はどんな風に思いながらこんな白々しい演技などできるものなのだろうか。どうせ私からどう思われようとさして気にも留めないだろうに。
 もう一つ意味はあるけどね。そう告げて携帯へと視線を落とした。緑色のアイコンをしたトークアプリに、お気に入りのカフェのクーポンが届いていた。好きなケーキが30円程値下げされている。最近行けてなかったから、今日にでも美夜あたりを誘って行ってみようかな。
 写真を見ながらそんなことを考えていると、その味が舌の上に再現されてしまった。別にお腹なんて空いてないけれど、唾液が舌下から滲んでくる。
 そんな私の耳小骨は、耳障りな声に未だ揺らされていた。鼓膜といいうずまき管と言い、この男の声を刺激として受け取っているのはとことん度しがたい。なぜこれほど私は頑なに受け入れることを拒んでいるのだろうか。正直なところさっぱり分からなかった。強いて挙げるなら勘と本能だし、趣味や嗜好とも言えた。好きになる理由がまるで無い。
 うーん、うーんと止めどなく唸るがままの彼。悩むのは勝手だがそろそろ立ち去って欲しい。目の前で立たれると注目されるし、無視し続ける私の立つ瀬もない。いや、初めから座ってはいるのだけれど。

「何? まだ用があるの?」
「もう一個の理由が分からなくてさー。考えてんの」
「自分の席で考えてくれるかしら」

 ここに居続けられると、居心地が悪い。これから本でも読もうかとしている以上、早いところどこかへ行ってくれないだろうか。顎に手を当てて探偵ぶってるその様子も、わざとらしくて見てられない。引き下がるまで睨み付けようとも思っていたが、不快さが勝ったが故に目を逸らしてしまった。
 精一杯の疲労をこめて、嘆息を一つ。と同時に指を打ち鳴らす警戒な音一つ。アイガディット、なんてネイティブぶった発音で、得意気な声。普通に、分かった、とでも言えばいいものを。好い顔しいの同級生が、馬鹿っぽく見えて堪えきれない。

「中に熱いものを抱えてるってとこだろ!」
「自己評価が高いことは尊敬するわ。ただ、それだと冷めたら食えたものじゃないから気を付けなさい」

 皮肉も通じてくれないとは、私の渾身の例え話も報われない。我ながらそこそこ上手いこと言えたと思ったのだけれど、彼の理解の範疇を超えてしまったようだ。家庭的な教養くらい、持っていて欲しいものである。
 小説に目を落とす。幼い頃からずっと追っている、大好きなファンタジーの新刊。罪と欠陥とを背負い、自らの犯した物事を悔やみながらも、懸命に生きようと努力する物語。そこに生きる彼らは、力強く本心を口にして生きてきた。だからだろうか、張りぼての鎧で身を守る人間が、こうも情けなく見えてしまうのは。
 予鈴が鳴り、朝練後の吹奏楽部の子達がワッと教室へ押し寄せる。ここに留まってももう私が相手をしないと察したのだろう、次々現れる他の級友達のもとへ向かい、躊躇うことなくまた甘言。甘ったるくて舌全体がしつこくなりそうだ。そんな気がして私は、イヤフォンを耳につけた後、大好きな曲に包まれながら脳裏のスクリーンに小説を再生し始めた。



 正直今日のところは、もう絡まれることなんてないだろうと高をくくっていた。それゆえ油断していたと言えるだろう。委員会の用事があるらしい美夜と駅前で四時に落ち合う約束を取り付けた私は、幾分か暇になったものだと今朝読んでいた本の続きを進めることに決めた。
 そう、安直だった。どうせならさっさと駅前に向かい、本屋ででも暇を潰せば良かったものを。学校になんか留まるものだからまとわりつかれる。
 不意にひらりひらりと揺れる手のひらが、開いたページを遮って視界に映りこんできた。

「何読んでるの?」
「小説だけど」

 目線を上げるとまたあいつの顔。上げるまでもなく、生クリームみたいな印象の声ですぐ正体が分かる。甘ったるくてこちらを絡めとってきて、そのまま塗りたくって埋めつくそうとしてくる。短く返答して後、すぐに視線を活字へと戻した。

「ねーぇ、そうじゃなくてさぁ。もっとこう、あるじゃんか、ジャンルとかタイトルとかさ」
「ファンタジー、タイトルは教えない」
 君に同じ本を読まれたくないから。
「ファンタジーかぁ。俺もよく読むよ、例えばしゅ……」
「私が好きなのはハイファンタジーだから」

 この男に限らず、多くの友人達はローファンタジーを好む。きっと似たような世界に住んでいる者の方が、おなじような悩みを抱えるからか感情移入しやすいのだろう。けれども私はこの世に実在してはくれない、夢のような魔法の国が昔から好きだ。
 それゆえ私は噛み付く勢いで彼の二の句を遮る。二種の幻想譚、その違いくらいは知っていたのかつまらなさそうに黙りこんだ。下唇を突き出す不満げな顔つきは珍しく本心のようだった。

「私、もうすぐ待ち合わせに向かうからあまり相手はしてあげられないんだけど」

 皆部活や委員会、あるいはバイト先へと向かってしまった。それゆえ三時過ぎの明るい教室には、主去ってなお机上に散らばるプリント以外には、私たちくらいしか見当たらない。隣のクラスもシンとしていて、廊下と隔てる曇りガラスには誰かの影が写る様子もない。
 この男と、二人ぼっち。何も嬉しくない。せめて学級委員長の真面目そうな彼の方が、口数は少なく、会話も成立しないだろうが、それでもまだ楽しめそうだ。

Re: 第6回 せせらぎに添へて、【小説練習】 ( No.192 )
日時: 2018/05/24 17:59
名前: 狒牙 (ID: qggtGn0.)

「えぇー、冷たいなぁりりちゃんは」
「馴れ馴れしく下の名前で呼ばないでくれる?」

 彼氏どころか仲良くもないのに不愉快だ。私はそう軽々と男に、下の名前で呼ばれたくない。そもそも私の名前は、こんな性格とは裏腹に璃梨だなどと比較的可愛らしい響きの代物であった。女の子らしい可愛さに満ちて育って欲しかったのだろうか、一先ず親には一度謝ろう。

「それで用はあるの? 無いの?」

 無いなら相手はしないとまでは伝えなかったが流石にそれは察したようである。慌てた口振りであると即答して、鞄の紐を肩にかけた私を一心に見つめている。見つめている、ように見える。
 けれども実態は穴が開くほどに覗き込まれている、そんな嫌悪感がした。別に心を開いてなどいないのに、その奥底を勝手に透かして把握されているような。踏み入るなと声を荒げようにも、むしろその反応を楽しまらてしまいそうだ。
 どうせ彼には私の深淵を見透かすことなど能うまい。事実観念したようであり、小さな息を弱々しく吐き出して俯いて見せた。

「何か俺、嫌われてるのが分かんなくてさぁ……どこが悪いか教えて欲しいんだよね」

 皆と仲良くしたいんだけど、私だけが仲良くしてくれない。そんな愚痴をぽろぽろと漏らす。ご機嫌を窺うようにのらりくらり、へらへらと対人関係を築いているのは臆病だからだと彼は言う。

「俺さぁ、末っ子なんだ。兄貴達から可愛がられなきゃって必死にやってたからさぁ……仲良くするのは得意だと思ってたんだけどなぁ」
「そう。私ごますりはあまり好きじゃないから」
「いやいや、ごまなんてすってる訳じゃないって。ちょっとオーバーにお世辞言ってるように聞こえるだけさ」

 疎外されるのがやけに怖いのだと彼は主張する。だからこそ周囲の目を気にかけるし、取り入ることができるよう媚びた態度になってしまうのだとか。別段私にとってそんな言い訳などどうでもいいのに、どうしてそのような事を。

「だからさー、こうやって冷たくされるの慣れてないんだよね」
「へえ、優しくされたいんだ」
「いや、優しくっていうか……仲良くしたいっていうか……」

 歯切れの悪い物言い。まだまだ夕陽と呼ぶにはほど遠い白い陽光を受けた彼の頬は紅潮している。視線を泳がせ、頬を掻く。もう一方の手も落ち着かないのか、開いたり閉じたり。
 いつもの威勢はどこへやら、ギャップの激しい彼の姿。普段が愛想の良い忠犬だとすれば、今この瞬間目の前にいる彼は、緊張に身を包んだ借りてきた猫だ。
 時計を見る。もう少しだけ猶予はありそうだった。

「はぁ……分かったわ。もうほんのちょっとだけ、話聞いてあげる」
「ほんとに?」

 さっきまでおじおじと縮こまっていた彼の体が、パッと開いたようだった。抑圧されていた心がパッと弾けて、声に明るさを取り戻す。いや、むしろ普段よりも陽気と言って良いだろうか。

「随分な豹変ぶりね」
「豹変なんてとんでもない! 嬉しいなって思ってさ」
「そう、それは良かった。それで私からも、聞きたいことが一つあるんだけど」
「いいよ、何でも聞いて」

 鼻唄を鳴らす訳でも口笛を吹いているでもない。それでも、歓喜の音楽が聞こえてくるようであった。それにしても、凄いものだと思う。


 そう、あまりに洗練された演技力だ。



「さっきの話、どこまでがほんと?」
「……………………えっ?」

 その問いかけに、彼は目を丸くした。えっ、と声を漏らしたきり、開きっぱなしの口がだらしない。何か口にしようと口を閉じ、思い直し何も言わずしてまた口を開く。酸素の足りていない魚みたいな仕草が、やけにコミカルだった。普段の彼よりもずっと、私に朗らかな笑みをもたらしてくれる。
 またしても彼は私から視線を逸らした。先程の照れ臭そうな演技とは違う。その視線から胸の内を読み取られないためにだ。全く、ポーカーフェイスが成っていない。私にはその眉からだけでも、隠しきれぬ動揺が窺えると言うに。

「さっきの話、嘘もいいところね」

 気づいてないとでも思った? 眼鏡のレンズごしに差し出した冷徹な目。中てられた彼はというと一歩退いた。本当に、失礼極まりない。私はただ、本心から君の事を見てやっているだけなのに。

「バレてないと思ったの? 君のお世辞にわざわざ喜ぶ人達を見て、貴方が蔑んでること」

 作り話を言い当てられた動揺に、何とか取り繕おうとする焦燥、はたまたどうして見抜いたのかという疑念が入り交じった彼の表情に止めを刺す。案の定と言うべきか、その言葉は何一つ間違っておらず、彼はというとその顔を硬直させてしまった。もう、ピクリとも眉は動かない。
 少しの間、静けさが訪れた。その後唇がぴくぴくと震えたかと思うと、次の瞬間大きく息を吐き出した彼は、粗野な様子で近くの机を椅子がわりに腰かけた。髪をかきあげ、頭をがりがりと掻いて、虚偽の仮面なんて着けないまま苛立った眼光を投げ掛けてきた。

「ったく、何なんだよてめーはよ」
「ごめんなさい。取り繕ってる人ってすぐ分かっちゃうの」
「ちっ、こんな芋臭い窓際の地味女なんかに指摘されるとか思ってなかったわー」
「それは残念ね。名前も知らない頃から私は見抜いていたわ」

 嘘をついている臭いまみれだった。笑いかたから、口振りから、仕草から、全てが演技臭かった。あまりに気に障りよく観察しだすようになってから分かったことに、時おりその目の光が侮蔑の色に染まっているのを見つけるようになった。なるほどこの男は、ばか正直にご機嫌とりの言葉を受け入れる連中を見下しているのかと理解するのは難しくない。
 そんな風に、誰かを軽んじるようなこの男が、私はずっと嫌いだった。

「隅っこの石ころ女のくせして、何得意気にしてんだか」
「私を下に見るほど、その女に看破された貴方が惨めになるけど、そんな事言って良いの?」
「るせぇな、わーってるよんな事」
「でも、言わなきゃイライラが収まらない」
「間違ってないけど一々勘に障んだよ、わざわざ見透かしてんじゃねぇ」
「ついでに教えてあげる、間違ってない『から』一々癪に思うの」
「そういうところだって言ってんだよ」
「そう」

 自然と笑みが漏れてきた。奇しくも、今朝彼が笑えと言った通りに口角が持ち上がってくる。唇が弧を描いているのを、どうにか拳を押し当てて隠そうとするも、やはり隠しきれない。
 いつもの彼とは違う、むき出しの敵意が可愛らしく見えてしまう。

「何笑ってんだよ」
「いや、ごめんなさい。君は他人に侮られたくないんだよね。だから認めてあげることで、自分に心を許してもらったら、優位に立てたみたいで安心するんだよね」

 舌打ちが一つ聞こえてきた。そうだよと、ぶっきらぼうな声。もう隠すつもりもないらしい。

「ったく、この地味メガネが」
「ふふ、褒める語彙はあるのに、貶す語彙は乏しいんだ?」
「何かおかしいかよ」
「いいえ、思いの外可愛いなって」
「あぁ? そりゃ影みたいなお前よりかは可愛いよ」
「憎まれ口も叩けるんだ。でも、残念」

 眼鏡のつるに手をかけて、パッと顔の上から取り去る。嫌いな男への嫌がらせを兼ねて、彼の座る椅子へと詰め寄った。胸ポケットに折り畳んだ眼鏡の丁番をひっかけ、彼の鼻先に自分の顔を突きつけた。静かな吐息すら顔にかかってしまう距離、その生暖かさがやけに気持ち悪い。ただ、彼の嫌がるその顔が、気分の悪さに勝る優越感をもたらした。
 彼の腰かける机に手を置き、体を逸らしていく彼を逃がすまいと、私も前傾する。本性を見せてから強がっていたのに、こうして遠ざかろうとする様子はどうにも情けない。爽やかなシトラスの香りが、機嫌よく私の鼻をくすぐる。

「よく、眼鏡を外すと別人って言われるのよね」
「はぁ? いや、そうかもしんねぇけど、近ぇよ、離れろって……」
「認めてくれるんだ、ありがとう」

 萎縮している目の前の少年が、挑発を受けてほんの少し戦意を取り戻す。それでも、私の顔が少し体を揺らすだけで触れてしまいそうな距離にあることを思いだし、また縮こまる。

「散々地味って言ってくれたけど、今の私はどう?」
「……知るかよ」
「最大級の賛辞ね」

 目をこちらと合わせようともしない態度、緊張に震える声、赤らんだ耳、全てが正直に告げていた。だからこそ私は、それ以上の意地悪をやめて、解放してあげることにした。私自身、美夜との待ち合わせが迫っている。涼しい風が、彼の吐息に暖められた頬を撫でた。とても心地よく、毒気が浄化されていく心地だ。

「安心して、貴方の本性をわざわざばらす気はないから」
「そりゃどうも」

 代わりに明日からは話しかけないでね。そう告げると素直に、分かったよと応じてくれた。私には敵わないとでも思ったのだろうか、その声は弱々しい。
 いつも傷のついてない笑顔のマスクを着けているのに、その素顔はこの短い時間だけで傷だらけになっていた。まあそれも、普段他人に愛想ばかり振り撒く裏で、こちらを見下していると思えば正当な代価だろう。
 去り行く私の背中に、未練がましい声でお前は嫌いだと吐き捨てる声。負け犬の遠吠え、と聞こえなくもなかったが、その声はむしろ普段の取り繕った仮面と同じ臭いがした。嘘を吐いている、そんな色が透けて見える。
 だから私は、眼鏡をかけながらその横顔で、精一杯破顔してみせた。

「そうね、私も嫌い。だって今朝言ったじゃない」

 私がアイスクリームなら、彼はさしづめ天婦羅のようなものだ。近頃はどうにも、アイスクリームの天婦羅なるものが現れたせいで、そんな常識が損なわれつつあり、そもそも科学的な根拠など無いようだけれど、昔から両者はこう言われている。

「知らないでしょ? 覚えておきなさい、アイスと天婦羅は食い合わせが悪いのよ」

 胸焼けしてしまって堪らない。時間も押してきたため、私は彼を一人取り残し、駅へと向かい始める。
 四時前の青空は、いつもと変わらない色をしていた。