名前も知らないのに、彼女はじっと僕だけを見つめていた。
夕方の駅のホーム。人通りはかなり多く、乗り換え案内のアナウンスの声をかき消すくらいのざわめきが僕の周りを渦巻いている。わらわらと蠢く虫の大群みたいな雑踏の中、その女の人は階段の手すりの前で、まるで石像のようにぴくりとも動かずに、その人々の流れの中でじっと僕をその両目で睨め付けている。
不思議なのは、階段に向かって押し寄せる人たちがその女の人が見えていないかのようにぞろぞろと歩みを進めている事だ。この波の中で1人でも立ち止まってしまえばただちに通行の邪魔になる。それなのに誰も彼女に気付いていないかのように、俯いたり疲れ果てたような顔をして次々と階段を下っていく。
革製の鞄を持つ手にぐっと力が入る。彼女はまだ僕を見ている。嫌らしくまとわり付く梅雨のじめじめした空気みたいな視線。つう、と背筋を冷たい汗がなぞった。首元のネクタイを少し緩める。僕は歩みを止めないでその流れる人混みに身を委ねているため、彼女との距離が少しずつ、少しずつ近くなる。左方に逃げようと試みたが、人混みのレールは脱線することを許してくれない。
目を合わさないように下を見て、女の人の横を通り過ぎようとした時。
にゅいっと手が伸びてきて、彼女は僕の手首を握った。蛇に巻きつかれたんじゃないかと思うほどの強い力だった。掴まれたところから体内に向けてぞわりと嫌なものが走る。思わず僕は立ち止まって顔を上げてしまう。
「道を聞きたいんですけど」
そう彼女は言った。目と目を合わせてしまう。真夜中の海面みたいに真っ黒で、呑み込まれてしまいそうな不気味な瞳だった。
脇から人々がぞろぞろと僕を見ながら追い越して行く。迷惑そうに舌打ちをする音が聞こえたが、舌打ちしたいのはこっちだ。
「……は、はい」
額に汗が滲むのを感じる。ぎりぎりと、掴まれた手首が締め上げられる。
「幹本駅にはどうやっていけばいいのでしょうか……?」
無表情のまま彼女が言った言葉に僕はぎょっとした。そこは僕の自宅の最寄の駅だったからだ。ごくりと口の中の唾を飲み込んでから「……3番ホームの那須行きに乗ったらいいですよ」と言った。
すると彼女はその掴んでいた手をフッと離した。身体の強張りが少し緩まる。大げさに「ありがとうございます」とおじきをして、フラフラと歩きながら階段の雑踏の中に消えていった。その後ろ姿が見えなくなってから、僕は安堵のため息をついた。手首にはうっすらと赤い痕がついている。
「なんなんだよ……」と一言吐き捨ててから、ようやく階段に向かって足を進めた。さっきまで人で溢れかえっていたホームも、今は数えられるほどの人数しかいなかった。これから僕も3番ホームに行って乗り換える予定だったのだが、電車に乗る気にもなれず、タクシーで帰ることにした。
階段を降りて、すぐ横の改札をくぐり抜けた。誘並駅ビルの一階はこの時間帯だと僕と同じ仕事終わりのサラリーマンで賑わう。その活況に何故か僕も少し安心する。
駅の東口のロータリーにはタクシーが数台止まっていた。その中の先頭の一台に目をつけ、後部座席に乗り込む。年配の運転手が疲れたような面持ちで振り向いて「どこまで行かれますか?」と僕に尋ねた。
「幹本駅の前まで」
「幹本ですね」
ゆっくりとドアが自動で閉まる。さっき変な汗をかいたからか、肌がベタベタと不快な粘着性を持っていた。少ししてタクシーは発進した。じんわりと慣性の法則に従って緩い重力が僕の体を車のシートに押さえつける。車のカーステレオからアナウンサーが地元の野球チームがリーグで優勝した、というニュースが流れていた。赤信号で車が停車する。フロントガラスに横断歩道を横切る人々の姿が映る。
「幹本……ですか」
運転手は前を向いたまま車内の沈黙を埋めた。
「は……はい。どうかしました?」
「二週間ぐらい前に幹本駅で人身事故がありましたよねぇ」
「そうなんですか?」
全く知らない話だった。聞いたことも無かった。最近仕事が繁忙期に入り、こんなこと耳にも入らなかった。
「ええ。なにやら、若い女性が男性と肩がぶつかった勢いでホームから転落して、通過した快速電車に轢かれたとか」
「へえ……」
「即死だったみたいですよ。全国ニュースにも報道されたみたいです。そのぶつかった男性は以後足取りが掴めないんだとか」
「へえ……」
そこで車内の会話は途切れる。ただの運転手の与太話だ。だが何故だろう。さっきの不気味な女の人の声がぐちゃぐちゃと澱を沈めるように僕の中を回る。温もりが感じられない冷たい声。
何だったんだろうと悩んでいる内に30分ほど時間が経ち、タクシーの厚い窓から見える景色は見慣れた風景へと姿を変えた。「幹本駅ですねー」と運転手が言う。どうやら目的地に到着したみたいだ。
メーターに表示されていた2000円を丁度で払い、僕はタクシーから出た。エンジン音を響かせて、車は大通りの方へと姿を消して行った。もう日も落ちて、辺りは人気が無く閑散としていた。ぽっかりと穴の開いたみたいな静けさ。名残惜しくタクシーが過ぎていった道路を見つめた。
ここから歩いて10分ぐらいのところに僕の住んでいるアパートは建っている。すぐ近くだ。
そして気付いた。どこかから気味の悪い気配を感じる。見えない手で首をゆっくり締められるような、息苦しくなるじとりとした感覚。
胃の中に決して消化できないようなものを詰め込まれたような嫌な気分だ。急ごう。早く帰ろう。そう思った時に、後ろから不意にがっと強く左の手首を掴まれた。さっきと同じ感触。どくん、と自分の心臓の音が聞こえた。汗が眉間からじわり、と一筋。
「すいません、人探しをしているのですが」
背後から声がした。振り向くと、やはりさっき駅のホームで会った女の人がそこにいた。
なんでこんなところに、と言おうとしたけど咄嗟に声は出ない。息が詰まる。
髪は顔を隠すくらいに長い。だがその前髪の間から確かにその目は僕だけを、じっと、じっと見つめていた。
「……な、なんでしょうか……?」
「西島正紀、という人をご存知でしょうか」
心臓を掴まれたような気がした。
それは僕の名前だったからだ。
「ど、どうして……?」
自分の脈の音と荒い呼吸音がやけにはっきり聞こえた。どくん、と胸が苦しい。
彼女に掴まれた腕が心なしか少しずつ力を増して行く。
「ずっと、あなたを探してたんですよ」
そこが限界だった。僕はもう片方の手に持っていたカバンを思いっきり振り上げていた。
「あ……あああああああああ!」
彼女の横っ面めがけて全力でぶつけた。うっ、と蛙が潰れるような呻き声。僕の手首を掴んでいた力がふっと弱まったのを感じた。今しかない、無理矢理に手を振りほどいて、僕は一目散に自宅の方向まで逃げ出した。成人祝いに買ったスーツがとても窮屈に思えた。邪魔な鞄は途中で投げ捨てた。
永遠とも思える時間を経て、やっとの思いで見慣れたアパートにたどり着いた。走っている時間は5分にも満たないだろうけど、とても自宅へと道が長く思えた。
熱に煽られた頭で後ろを振り返ると彼女の姿はどこに見当たらなかった。ほっと胸をなでおろす。
僕の部屋はここの一階の一番端だ。ポケットからキーケースを取り出す。鍵は閉まっているようだ。荒れた呼吸を鎮めるためにはあと息をついて、鍵を捻った。
中に入る。
電気をつけると同時に声がした。
「西島正紀という人をご存知ですか?」
*
どうも藤田浪漫です。この名義では初ですね。
この短編を書いてる途中にパソコンが突然フリーズを起こしました。窓を開けていないのにカーテンが揺れる、空き部屋のはずの隣からすすり声が聞こえる、シャワーから赤い水が出てくる、などの怪奇現象が起こりました。嘘です。
主人公はエビフライ回の時に使った別名義のジャンバルジャンなんじゃん!?の語り部のマサくんと同一人物す。どうでもいいですが。
運営の御二方に敬意と感謝を添へて、藤田がお送りしました。