名前も知らないのに、私はその子を放っておけなかった。
夏休みが始まったばかりのある日のことだ。しばらく雨が続いてからの突然のかんかん照りで、体調を崩している人が沢山いた。ママもパパも弟の看病につきっきりで全然構ってくれない。それがとても面白くなくて私は家を飛び出した。
さて、どこへいこうか? コンビニは冷房がきついし、図書館は場所を知らない。プールに行くにも水着は置いてきた。じりじりとした陽射しを避けられる場所を目指しているうちに、私は近所の公園に着いていた。
公園には人っ子一人いない。今時わざわざこんな暑い日に外に出かける子供なんて私のような除け者ぐらいだ。腰掛けたブランコは熱かった。
別に私だって分かっていない訳じゃない。弟は体が弱いから私より手がかかるのは仕方がない。弟だって可愛くないわけじゃない、普通に大好きだ。でも、今日の私はどういう訳かいつも通りの「今大変だからあっち行ってて!」に腹が立って仕方がなくて。一人ぼっちでブランコを漕ぐのは寂しくて、ついセミの鳴き声にイライラしてそちらを睨みつけた。
そこには、私と同じくらいの女の子がベンチに横になっていた。
遠目から見ても凄く綺麗な子だと分かった。お人形さんみたいな長い金髪がベンチからだらんと垂れて、真っ白な肌が赤くなっている。
周りを見てもその子の家族らしい人はいない。ぐったりとしている様子なのを放っておけなくて、私は急いで近くのコンビニに駆け込んでアイスとポカリを買った。
アイスをおでこに乗せてポカリを脇の下に挟み、自分の帽子でぱたぱたと扇ぐ。小さい頃海で具合が悪くなった時にお母さんがやってくれたことをそのまましただけだったけど、しばらくすると女の子は目を覚ました。
「うーん……」
「わ、大丈夫? いきなり起きて」
「大丈夫。だいぶ楽になったから。ところでこの落ちてるやつ何?」
「アイスだけど……知らないの?」
「ああ! アイスは知ってるわ。でもこれは食べにくそうな形ね」
「半分こするんだよそれ。一緒に食べる? あ、でも先にこれ飲んだ方がいいかも」
「それもそうね。……変な味ねえ。これ全部飲むの?」
「全部じゃなくてもいいけどたくさん飲んどいた方がいいよ」
すっかり元気になったようで一安心した。それにしても日本語上手いな。
でもこんな子は見たことがない。夏休みに入ってから越してきたのだろうか。
「そうだ!」
女の子は突然立ち上がりそう大きな声で言った。
「あのね、私あなたにお礼をしようと思ったんだ。私の家で遊びましょう!」
「それはいいけど、家近所なの?」
「すぐよすぐ! ほら、後ろに乗って!」
そう急かされてベンチの傍に置いてあった自転車の荷台部分に腰掛ける。ピカピカした新品で真っ赤で可愛いくて、正直羨ましい。
アイスを咥えた私を乗せて自転車は公園を飛び出して、その向かいにある神社へ勢いよく飛び込んだ。砂利道をがたがたと駆け抜けてそのまま鳥居の柱へ一直線に──
「待って待ってこれぶつかる止まって!」
「大丈夫ぶつからないから! それより振り落とされないようにしっかり掴まってて」
スピードを落とす気配が全くない! 私はアイスを噛み締めて、衝撃に備えて目を閉じることくらいしかできなかった。
目を閉じる直前、車輪の周りが緑色に光った気がした。
「ほら、着いたわよ」
頭をつつかれて目を覚ます。自転車から降りて体を見回しても何処にも怪我は無かった。
「いきなり何するの──」
文句を言おうと顔を上げるとそこには、
まるで絵本の中のような世界が広がっていた。
三角形の屋根をした家々の煙突からは煙が上がっている。その間を縫うように不思議な生き物たちが飛び交って、道端では杖を振って綺麗な光を出して遊んでいる子がいた。
「どう? ここが私の住んでる町。魔法の町よ!」
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それから、自転車で飛び回っていろんなものを見せてもらった。お汁粉とカスタードを合わせたみたいな味がするのに真っ青なアイスや、絵が本当に飛び出して動く絵本(彼女は「話によっては開く場所を選ばないと戦いで部屋がめちゃくちゃになる」と言っていた)だとか、新鮮で楽しいものがたくさんあった。カラスの形をした風船には髪をめちゃくちゃにされた上逃げられたけど。
遊びまわって暗くなりかけた頃、いよいよ家に案内してもらった。彼女は玄関からじゃなく、なぜか二階のベランダから部屋に上がった。
「なんでそんなコソコソしてるの?」
「いや、ちょっと色々あって……そんなことよりちょっとこれ見てみて!」
勉強机の下から出てきたのは「し作ひん」と貼り紙がしてある木箱だった。彼女に勧められてその中の一つ、紫色の煙が入ったフラスコを振ってみる。するとフラスコの中の煙がすうっと消えていって、人影が映りはじめた。見たことのないひらひらした服を着ていて、綺麗な真っ赤の何かを口に運んでいる──私?
「凄いでしょそれ! 今はまだ2時間先までしか見えないけどそのうち1日先まで見えるように……」
そこに映っている私はいかにも"こっちの世界の子"って感じで、ママやパパや弟の事なんてすっかり忘れちゃってるみたいで、それがなんだかとても怖くて、ブレーキが外れたように悲しくなった。
「なんで泣いてるの? と、とりあえず顔拭いて落ち着こう?」
泣きわめいているとふいに部屋の扉が開いた。綺麗な銀髪のお姉さんだけど今はいかにも怒ってますって雰囲気でおっかない。お姉さんは私に目をやるとぎょっとして、女の子の腕を掴んだ。
「あんたいつの間に帰ってきてたの……まあいいわ、話があるからすぐに1階へ来なさい」
そう言って二人は降りていった。しばらくすると下から怒鳴り声が聞こえてきた。
「あんたまたママの杖勝手に持ち出したでしょ! 転移魔法は危ないんだから子供だけで使うなって学校で習わなかったの!? それに向こうの子まで連れてきちゃって……」
しばらく経って涙も落ち着いてきた頃にお姉さんは私を1階に呼びにきた。連れられて階段を降りる。
「うちの妹が迷惑かけて本当にごめんね。すぐに帰れるから。聞けばあの子向こうで倒れてたんだって?」
頷いてから気づく。あの子はまたお説教をされるんだろうか。
「そっかー……ありがとね、助けてくれてさ。あいつガラクタばっか作ってる変わったやつだから自由研究手伝ってくれる友達もいなくて、そんであんな無茶苦茶やって……」
「私、友達です!」
これ以上あの子を否定されたくなくて、気付いた時にはそう叫んでいた。
「……そうかそうか! そんな心配する必要もなかったかー」
「どういう事ですか?」
「いい友達できたなって話! それはそれとして帰り道つながったってさ」
玄関のドアには大きな緑色の魔法陣が描かれていた。ここを開けたら魔法の世界とはさよならだ。振り返ると、あの子は静かに泣いていた。
「ねえ、ちょっといいかな」
「……なあに?」
「名前教えて!」
彼女はびっくりした様子で顔を上げた。
「大丈夫、名前分かったらまたきっと会えるから! 私はナツキっていうんだ。きみは?」
「……私はね────!」
女の子は笑顔で答えた。
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あのドアは親切にも私の家の玄関につながっていた。ただいまを言うとママが駆け寄ってきて私を抱きしめた。あの後私がいつのまにかいなくなっていて家中大騒ぎだったらしい。開きっぱなしのドアの向こうには見慣れた住宅街と夕焼け空が広がっていた。
私はすっかり忘れていたけど今日の夜はおでかけをする予定だった。まだ少し熱のある弟は少しむくれながら私とパパを見送った。
ひらひらした浴衣ってやつを着て手を繋ぎながら神社へ向かう。昼間自転車で突っ込んだあの神社だ。そこはいつもの静かな感じと違って大勢の人で騒がしくて、見たことのないものが沢山あった。買ったばかりの綺麗で真っ赤なりんご飴をかじって周りを見ると、鳥居の大きな柱が目の前にあった。
「また会おうね。オルトレ」
そう呟いた声はすぐに縁日の音にかき消される。パパの手を引いて私は次の屋台へ駆けだした。