申し訳ございません、3レス使います。
◇◆◇
笹の葉から垂れ下がる細長い紙面を見て、私は思う。君は果たして、妻と会うことはできたろうかと。
ネオンライトが目にうるさい。それだけで目が痛くなってしまう。繁華街が賑わう中、街路樹に紛れて独り静かに佇む笹の枝が、駅前の広場に飾られていた。黄色に青色、桃色といった色とりどりの短冊。イルミネーションと違って物静かで柔らかなのに、鮮やかな色彩が目に焼き付いた。
今年もそんな時期が近づいてきたのか。ふと、笹の枝葉の向こう側に、花屋を見つけた。元気そうな若い娘が、閉店間際なのか軒先に並べていた植木鉢を片付けている。夕日を背負った花屋の店先で汗を流す彼女の姿は中々絵になった。
君も今頃は、こんな風になったものだろうか。たなびく雲を見つめた後、しばしの瞑目。そして私は横断歩道を渡り、本日最後の客になることを決意したのだった。用意するとすれば、サルビアがいいだろうか。
私の記憶が正しければ、おそらく何色のものを選んでも問題なかったはずだ。
「ねえ見てお父さん、すっごく大きな笹だね」
子供らしく無邪気にはしゃぐ君の様子を目にした私は、それだけで胸の奥がじんと熱くなった。もう長い事、君がそうやって笑っている姿を目にしていなかったからだ。病院の屋上、バスローブみたいな入院患者用の白い服を着て、自分よりも背の高い笹を見上げてぴょんぴょん君はとび跳ねていた。
時刻は確か、夕暮れと呼ぶには些か暗すぎるような頃だったろうか。宵の入り口、太陽がすっかり帰宅してしまおうとするくらいの時間帯。空に浮かぶ雲たちも、夕と夜の狭間を曖昧に漂っているせいか、紫色に映った。曖昧に境界線上を漂う、その様子が私には、君と重なってしまったせいか、幻想的な空の景色からすぐに目を離した。
その日の日付は、よく覚えている。もう十年も経ってしまったというのに。七月五日、後二日もすれば七夕がやってくるという、夏の中腹。峠の八月に向けて、段々と気温も高くなっていく、そんな他愛もない一日だ。
ただ、目を光らせて深緑の枝葉を見つめる君のおかげで、私にとっては大切な記念日となったのだ。本当に、君の言う通りだ。あの日君が口にした言葉が、今でも胸に刻まれている。
当然その屋上の笹は、七夕のために用意された代物だった。難病に侵され、病室で退屈そうに折り鶴ばかり作っていた君が望んだ、ささやかな望み。天の川に願い事を託したい。それを聞いた院長が、他の患者にとっても気休めになるだろうと、屋上に笹の枝を用意することを、一週間前に約束してくれた。
ちょっとした、子供の背丈ほどのものを用意するのだろう。そう思っていた私の予想を、彼は良い意味で裏切ってくれた。彼が用意してくれた枝葉は、しなり垂れていてそれでもなお、私の目線ほどにはあったのだから。
「何書こうかなー。ねえお父さん、どんな願い事がいいと思う?」
「さあ。それを決めるのは君自身だよ」
「そっかー。あっそうだ、ねえねえ、願い事の数に決まりってある? 一個しか駄目、とかさ」
「ない、かな……? サンタさんじゃないんだしきっといくつ願っても大丈夫だよ」
どうせなら、一番初めに「私の願いを全て叶えて欲しい」と願えばいい。そう教えてやると君は、可笑しそうに笑った。ずるいなぁ、って快活に。弾ける笑顔が、夜空に浮かぶ花火のように思えて。そう思ってしまった次の瞬間、瞬く間に消えてしまう花火などに例えてしまった自分を悔いた。
「でもそれ、頭いいよね。お父さんってば天才」
「ありがとう」
「うーん、お父さんだったら何てお願いする?」
自分が何かお願いをする前に、他の人の意見を聞きたかったのだろう。それとも、ただの好奇心だったのだろうか。私と君はよく似ていた。互いに、自分の要望なんて口にせずに、相手が悲しまない事ばかり考えていた。
「お父さんはね、君が、元気になってほしいよ」
「あー、ま、そうくるよねー。それ以外、私に関係ないことだったら?」
「他かい? となるともう、そうそう思いつかないな……」
「えー、つまんなーい。お母さんとまた会いたいとか無いの?」
それは確かに、願えるものなら願っていただろう。しかし、君の前で口にする訳にはいかない、そう思っていた。何せ妻は、君の母は、君を生んだ日に死んだのだから。
彼女が君を生んだことに後悔なんて誰もしていない。むしろ君を産むと決めてくれて、心からの感謝を贈りたい。しかし、君に対してその要望を口にするのは、ひどく残酷なように思えた。だからこそ、言わなかったのに。
「そうだね……会いたい、かな?」
「素直になりなよー。でもねお父さん、最近私は本を読むことで知ってしまったのだ。私達はいつか、お母さんと会えるんだってね」
「あっちの世界に行った時には、会えるだろうね」
「違うんだなあ、これが。人は死ぬんじゃなくて、地球からアーカイブ星に行くんだよ。地球での滞在期限が終わっちゃったら、こっちでは死んじゃった扱いになるけど、アーカイブ星でまた穏やかに暮らしていけるんだな、これが」
「懐かしいな、その言葉。映画でも観たのかい?」
その言葉は、私もかつて聞いたことがあった。と言っても私は君と違って、映画から知った言葉なのだが。忘れもしない、学生時代に妻と初めて一緒に観た恋愛作品において耳にした言葉だから。
「だから、本で知ったの」
呆れたような口調だが、その顔は不満を隠そうともしていなかった。ちゃんと聞いてよねと指摘する姿は、会った事もないだろうに君のお母さんにそっくりだった。
「ああ、ごめんごめん」
「まったくもう。でね、それが本当だったら私達はいつかちゃんと、お母さんに会えるからお父さんのお願い事は叶うんだよ」
「……それは、本当であってほしいな」
しばし私は、答えに窮してしまった。別にそれは、妻と会えるという理屈に感激した訳でも無ければ、能天気な君に対して怒った訳でもない。ただ、一つ目の願いが叶うとは言ってくれなかったことが、悲しかっただけだ。
病室に戻らなければ、短冊も鉛筆も机も無い。それゆえベッドの上に座り、君は長方形の紙片とにらめっこしていた。別に、一枚に限らなくてもいいのにと私が言っても、他の人達も短冊を書くからと主張して君は譲らなかった。
書いては、消して。また書こうとしては、消して。黒鉛とゴムとが、交互に紙の上を往復していた。何を書こうとしているのかなと私が覗き込むと、君は決まって舌を出して、体で隠してしまった。そして、「まだ見せられないから」と、顔を赤くしてしきりに唱えていた。
「病気が治ってほしい、とは書かないのか?」
「えっとねー、そのお願いはさ、他の入院してる人も皆するじゃない? そしたら私の短冊が紛れちゃって願い事が届かなさそうだなー、なんて思っちゃってさ」
「一応、ダメもとでも書けばいいのに」
「いーや。ダメもとで書くんだったらもっと叶いそうなことお願いするの」
短針はもう八を指していた。思えば、かなりの時間考えていたものだ。いつも君は、明朗快活に、ずばっと意志を決めると言うのに、その時ばかりはひどく慎重に言葉を選んでいた。書きたいこと、したいもの、すがりたい人、多すぎて絞り切れず、頭を抱えていた。
さらさら書いては、ごしごし消す。そんな時間がずっと流れている穏やかな病室。君の様子を微笑ましく見守る同室の患者さん達はもういない。他の人がいなくなったのではなくて、君が一人きりの病室に移動してしまったからだ。
ノックの音がこだまする。義父さん達が来ると言う話は聞いていなかったため、誰がきたのだろうかと振り返る。そこには顔馴染みの、看護師長さんがいた。白髪まじりの髪を後頭部で一つに束ねている。院長先生の奥さんでもあるらしかった。
「短冊書いてるの?」
「うん。何か一つ、そう考えたら何にするか決まってくれなくて」
「別にいくつ書いてもいいのに」
「ほんとにいいの?」
「ええ、勿論よ」
私なら若返りたいって三十枚くらい書くわねと、冗談めかして彼女は言った。看護師長さんと仲がいい君は、ケラケラとただ笑ってた。じゃあ、明日沢山書こうと君は言って、そうしたらあの人も喜ぶわと彼女も応じていた。あの人、というのは立派な笹を支度してくれた、院長を指していたのだろう。
何せ彼自身、幼くして難病と闘い続けながらも笑顔を絶やさない、君を孫娘のようにかわいがってくれていたのだから。多分に、我儘を言わない君が隠し続けた願い事で、あの大きな笹を彩って欲しいだなんて思っていたのだろう。
「じゃあ、明日沢山書こうかな」
「そうするといいわ」
「とすると、お父さんには見せてくれないのか」
「ざーんねんでした。でも、それなら帰って来てからゆっくり見てね」
翌日と、さらにその次の日、私には出張の予定が入っていた。長野の田舎に私達は住んでいたのだが、東京の会社と新規の契約を結ぶことになっていた。それゆえ、その日だけは休みをもらって、君と二人で七夕をフライング気味に楽しんでいたのだけれど。
そのまま帰ろうかと思っていたのだけれど、君は僕を引き留めた。七夕は、短冊を飾るまで終わらないって言い張って。白紙の短冊を握りしめた君は私と再び屋上へと向かった。当然、院長先生たちの許可は貰っていた。
今日だけはちゃんと、お父さんと一緒に七夕を終えたいから。そんな事君に言われたら、従うしかない。君が転んだりしないように手をとって、踏みしめるように階段を上る。その階段は何だか長く感じられて、天に昇っているような気がして、私の心臓も不安げに震えていた。
けれども、その不安を吹き飛ばすように、扉を開けば夜の闇が広がっていた。薄い霧みたいな雲が天蓋を覆う様な空だった。朧げに輪郭が滲んだ上弦の月だけが顔を見せている。天気も悪く、顔を合わせたものは宵闇だというのに、其処が天国でない事に安堵してしまった。
けれども、今にして思えば黄泉の入り口だったのかもしれない。
眼下に伸びる道を照らす街灯は遠く、明かりなど無い屋上の景色は弱弱しい月明かりだけが頼りだった。暗がりの中に揺れる笹は、恐怖心が煽ったせいか柳のようにも見える。そんな事にもめげないで、明るい表情のまま君は、笹の葉の足元まで小走りで寄って行った。そしてそのまま、何も書いていない白地の短冊をくくりつける。まだ君は、願い事など一つも書いていなかった。
多すぎて、一枚に書ききれないから。ちゃんと明日には全部書き留めるつもりだと言っていた。けれども今は、まだこれで構わない、って。たった一枚の紙きれには、書ききれない大切な想いを、握りしめてこめたから。私の娘であるのが驚くほどのロマンチストに君は育っていた。
夜の闇、その漆黒の中で君が結びつけた真っ白な紙は、夜空の一等星みたいに鮮やかに存在感を示していた。何度も何度も書いては消してを繰り返したせいで、表面は少し薄汚れていた。想いをこめたのはあの葛藤の時間だったのではなかろうかと私は苦笑し、早く病室に引き返そうと踵を返そうとした。夏とはいえ、もう夜だった。体を冷やしてしまう訳に行かない。
けれども君は、探し物をするみたいに上空彼方に焦点を合わそうとしていた。あいにくの曇天。しかも、病院周りには街灯が多く、星なんて大して見えないのに、だ。自宅付近ではそれはそれは綺麗な星空が広がるものだが、ここでは最も明るい星すら見えそうにない。唯一、月だけが私達を見守っていた。
「見えないね、天の川」
大好きなおやつを食べ終わった時みたいに、名残惜しそうに君は唇を尖らせた。この天気ならば仕方ないさと、私は諭す。けれども彼女は、仕方なくなんて無いと私の諦めの速さを否定した。かと思えば、すぐさま機嫌を取り戻して、語尾を高くしながら君は尋ねたんだ。
「ねえお父さん、どうして天の川があんなに綺麗か知ってる?」
「……知らないな」
「ふふ、ならば教えてあげよう」
君は、自分が分からないことを空想して、私に語るのを好んでいた。海が青いのは、昔の人が沢山絵の具をこぼしてしまったからだ、などと。
「織姫と彦星を別れさせた神様はね、企んだんだよ。このまま織姫と彦星が、それぞれ別のものに目を奪われてしまえばいい、って。そしてね、二人を分かつように、硝子玉を敷き詰めたんだ。ほうら、キラキラして綺麗でしょう、って」
「これはまた、随分と輝かしいお話だ」
「むう、何さ。またその大人ぶった顔なんてして」
「そんなつもりじゃないさ。……でも、そうだね。もし天の川が、夜空に硝子玉を添へて、そうして出来上がったのだとすると……それはさぞかし、綺麗なはずだ」
「へへへ、でっしょー?」
私が肯定してみせると、途端にまた、大輪の花を顔の上で咲かせて見せた。
けれど私は知っている。その笑顔の裏で君は、寂寥に暮れていたことを。
分かっていたさ、私だって。君があの夜、天を仰いで、アーカイブ星を探していた事くらい。
だって私は、君の父親なのだからね。
そして私達は病室に戻り、お別れの時間がやってきた。明日と明後日は出張だから、八日の夜にまた会いに来るよと君に告げた。いざ、鞄を持ち上げた時の事だった。君はふと、思いつきをそのまま口にするように、早口で私に声をかけた。
「ねえお父さん、今年から、七月五日は七夕記念日だね」
「何だいそれは」
苦笑して後に、私はふと、そのフレーズが頭に引っかかった。はて、どこかで馴染みのある言葉だが、一体どこで耳にしたものかと振り返る。けれども、中々その答えは出てこない。
まったくもう、勉強が足りませんぞ。などと教師然で人差し指を虚空に向けた。テストに出ると言ったでしょう、そんな冗談まで口にして。
「俵万智だよ。サラダ記念日」
「ああ」
そこでようやく私も思い出せた。有名な近現代の短歌だ。
「大好きな人がね、この味がいいねって言ったから、七夕前日の、何でもないような一日でさえ記念日になっちゃう、そんな意味なんだよ」
「そうだったか」
「そうだったよ」
だから、お父さんと過ごせた今日は、本当は七夕でも何でもないけれど、七夕記念日なの。ほら、七夕とサラダ、って全部アの段の言葉じゃない? そっくり!
生き生きとしている君は本当に元気そうで、病気だという事を忘れるくらいだ。現に、最近は病状も安定してきていた。治る見込みは未だに無かったけれども、それでもしばらくは大事ないだろうと、私も医師も安堵していた。
今度こそ帰らなくてはならない。明日の朝は早いから。そんな風に言い訳して私は部屋を後にした。また、明々後日の夜に会おう、って。
けれども私達が次に顔を合わせたのは、本来の予定を繰り上げた、二日後の七夕の夜であった。出張先から私は、一番早い新幹線の便で、飛行機でもないのに飛ぶような勢いで長野へと戻った。
待ってくれと、何度も。何度も何度も、何度も何度も何度も何度も、声には出さないまま心の中で、数え切れないくらいに叫んでいた。反響が体の中全部埋め尽くして、何も手につかず、時間の流れすら感じない。気づけば空も私の心模様と同じく真っ黒で、座っているシートはというと電車の座席からタクシーのものに変わっていた。
あんなに元気にしていたじゃないか。
あれだけ笑っていたじゃないか。
苦しそうな素振りなんて、つゆほどもしていなかったのに。
薬だって効いていたというのに。
また、八日になったら会おうと誓ったばかりだというのに。
私達はその約束を反故にして、七夕の夜に出会った。祖父母四人に囲まれた君の顔の上には、真っ白な布が被さっていた。
そう、皮肉なことに私達は、織姫と彦星が一年に一度出会える日、七夕の夜に永劫の別れを迎えたのだった。
私はその場で、泣き崩れるようなことはしなかった。けれども代わりに、怒り狂った。
別段医師や院長に理不尽な罵倒はしていない。どこに向かって唾を吐いているのか分からなかったけれど、きっとそれは天に向かって吐いていたのだろう。
どうして急変なんてしたのか。それは誰にも答えられなかった。医者も看護師も、私とて、君の病気は静かにしていると信じていた。そんなもの、病巣の気まぐれに過ぎなかったと言うのに、所詮その正体は、君を蝕む悪魔に過ぎなかったというのに、まだしばらくは大丈夫だなんて、信じ込んでいた。
壁を思い切り殴りつけ、ふざけるなとだけ溢していた。悪い夢を見ているだけだと誰かに認めて欲しかった。別に、不謹慎な冗談でも何でもよかった、後になればいくらでも笑い話にできるのだから、ドッキリ大成功とでも言って、起き上がって欲しかった。
だって君は、急変して病死したっていうのに、いつも昼寝をしている時みたいに、穏やかな天使みたいな顔をしていたから。それが、白い布をどけた君と対面し、初めに思ったことだった。頬をつねれば起きるんじゃないかなんて期待して、その頬に触れる。けれども、その身体はとっくに人肌と思えないくらいに冷たくなっていた。あれだけ柔らかかった頬なのに。
血が出るほどに、拳を壁に打ち付けた。他の患者に迷惑だったろうに、止めさせるべきだったろうに、誰もが私のその行動を止めようとはしなかった。それで気が済むのなら、そう判断しての事だったろう。
滴った血が、床を汚した辺りでの事だった。重苦しい空気の中、院長先生と看護師長さんとが私の肩を両側から叩いた。多分、荒々しい返事をしていたのだと思う。けれどもそんな私に気を悪くすることなく、彼らはついてきてくださいとだけ口にした。
何処へ向かうのか私はきっと尋ねたのだろう、短冊のところだと二人は言った。七月六日、君はせっせと願い事を書き続けたらしい。思いついてはすぐ書いて、大切な願い事も、ささやかな願い事も。ほんの少し、ふざけたような願い事も。
見てあげて欲しいと、二人は言った。君の祖父母たちも、もう既に目にしたのだろう。行っておいでと、ただ、静かな四重奏が私の背を押した。
やぶれかぶれ、だろうか。それとも、僅かに残った君の残滓を確かめるためだろうか。いいや、違う。抗うだけの気力が無かっただけだ。怒ってる風に見せかけて、壊れかけた精神を何とか奮い立たせていた。死してなお、苦しそうになんてしていない君の前で、膝を折ってしまわないように。
風が強く薙いでいた。横殴りの風が、ざらざら音を立てて乱暴に笹を揺らす。折角君が書いた願いが飛ばされやしないだろうかと、少しだけはらはらした。と同時に、吹き荒れるとは何事かと、強風への強い苛立ち。きっと私は、君に顔向けできないほどに歪んだ表情であったことだろう。
先日、柳のようだと思ったことを思い返す。幽霊でいいから、君と会いたかった。
その願いが通じたのか、あるいは私を歓迎してのことだろうか。屋上への扉を開くと同時に、風は次第に弱まって、笹の足元に辿り着く頃には、もうとっくに風は凪いでいた。
七夕なのにそれは、クリスマスツリーのようだった。赤色、黄色、青色、橙、桃色に緑、グレーや水色、紫色の短冊もあっただろうか。色とりどりの長方形が、何枚も何十枚も、たった一本の枝葉を彩っていた。
綺麗だ、などと思う頃に、ようやく私の頭は冷静さを取り戻しつつあった。怒りで誤魔化した、己の脆弱さも次第に自覚し始める。私は果たして、あの子の声を全て読み切ることができるだろうかと、痛む目頭に耐えながら目を見開き続けた。
「実は、他の患者さんは短冊を書こうともしなかったんですよ。これはまず、このまま貴方が見るべきだ、って」
院長の言葉に誘われるように、私は適当に、目の前にあった真っ赤な短冊の願いを読み上げた。
『お花屋さんになりたい』
将来の夢など、一度も語ったことの無い君だった。そうか、花屋さんになりたかったのかと、私は一人溢した。君が死んで初めて、君が未来のことについて語らったことはほとんど無い事に気が付いた。
今度は、青い紙片を手に取った。そこには、また別の願い事。
『お菓子が作れるようになりたい』
また次の、短冊を手に。
『お友達と遊んでみたい』
次。
『かっこいい男の子と恋をしてみたい』
次、次、次。短冊を見てはまた次のものを手にする。君が言えなかった我儘を、一つでも多く知りたかった。
そして願わくば、記していて欲しかった。君が、生きたいと願っていたその意志を。死にたくない、って。病気が治って欲しいと、君に書いていて欲しかった。
『修学旅行に行きたい』
『お泊り会をしてみたい。できれば女子会がいいな』
『お嫁さんになりたい』
『テニスをおもいっきりしてみたい』
『オリンピックを生で見たい』
『お父さんの仕事をしている姿が見たい』
『お母さんに会いたい』
『おじいちゃん家に行ってみたい』
『もっと学校で勉強がしたい』
『妹が欲しい。って流石に無理だよね』
『色んな服を着てみたい』
『お金が沢山欲しい』
『蚊に噛まれない体になりたいなあ』
めくれども、めくれども、私の望む声なんて何一つ見当たらなかった。お母さんに会いたい、その願いが鋭く私に突き刺さる。二日前の夜に交わした会話を思い出していた。それじゃまるで、君が死にたいと願っているみたいだった。
文字が書いてある短冊、その全てに目を通した。それなのに、最後の最後まで、生きたいだなんて書いていなかった。死にたくないと言ってくれなかった。病気が治って欲しいなんて、聞こえなかった。
生まれた時からずっと、我慢ばかり強いさせていた。週に一回は病院で検査。半年に一回は入院、小学校に上がるまではずっと、そんな生活だった。しかも、通院費のために私は働き詰めであったし、独りぼっちにさせることも多かった。
もっと、我儘で、自分勝手に育ってもよかっただろうに、ある夜疲れた私に君は、なんと声をかけたか覚えているかい。待っているだけじゃ暇だから、家事を教えて、だったんだ。毎日夜中に洗濯して、早朝から弁当を作っているのも、全部負担になっていると君は申し訳なさそうにしていた。全部私が、自分で選んでいた事なのに。
甘えて、押し付けてしまったのがいけなかっただろうか。いつからだい、君が死にたいと思い始めたのは。尋ねても、答えてくれる訳なんて、もう無いのに。
茫然と、空を見上げた。ビー玉と同じ、真円になりきれていない不良品の月が浮かんでいた。天の川は、今日も見えない。最期にもう一度くらい、見せてやりたかったものなのに。
泣く気にもなれなかった。むしろ、空に昇れたことを、祝福するべきだろうか。そんな事ばかり考えて、私は項垂れる。あんなに眩しく笑っていたのも全部、虚構だったのかなどと、ありもしない幻想が私の不始末を耳元で責めていた。
もう、去ってしまおうとしていた。しかし唐突に視界に入り込んだ『それ』は異彩を放っていた。赤、橙、黄、緑、青、藍、紫。その他様々な短冊が、それぞれ何枚も何枚も飾り付けられていると言うのに。真っ白な短冊は、一枚しか無かった。
あの日と同じで、暗闇の中でその一枚だけが、存在感を強く示していた。それはまるで、夜空に輝く一等星のように。他の数多の星に負けることなく、強い光を放ち続けていた。この短冊は、二日前に君が私の前で戦っていたものだった。
そう言えば、どうせ白紙だと思ってこれはまだ見ていなかったな。どうせ何も記されていないだろうに、仲間外れにするのが嫌で、それも手に取る。
その晩も、一昨日と変わらないように思えた。しかしその日は、雲に遮られることなく月光が降り注いでいた。それゆえ、あの日見えなかった言葉が、その夜は目にすることができた。
悪戯っぽく舌を見せて、まだ見ちゃダメだと隠した君。どうしても私に見られたくなかったのか、ある時は覗き込もうとしたら途端に消されてしまった。トイレに立つ時も、持ち歩いてしまう始末。
あの日、是が非でも隠そうとした、最初の一枚。結局全部消してしまったはずなのに、幾度も君は同じ言葉を書いて消していたのだろう。あの時君は、何を願うか悩んでいたのではなくて、この言葉を形にするか否か、悩んでいたのだろう。
七夕記念日の話をした時、君は珍しく未来について語っていたね。きっとあの言葉は、私のためを想って手向けてくれたものなのだろう。不意に脚が脱力する。そんな事にならないようにと、気を付けていたはずなのに、膝から崩れ落ちてしまった。何とか手で踏ん張って、また立ち上がろうとするけれど、力が入らない。
声にならない嗚咽が漏れる。とびきり熱い雫が、次々と目の前のコンクリートを濡らしていた。
そして私は、ようやっと望んでいた言葉を手に入れることができたのだ。
鉛筆の芯で薄汚れた白い紙。そこには、何度もなぞって跡が残ってしまった願い事が、浮き彫りになっていた。それはきっと、間違いなく、私の願望などではなくて、絶対に君が真っ先に浮かんだ願い事なのだと自信を持って言えた。
君は、生きたいと願っていてくれたんだと。
『お父さんが、独りぼっちになりませんように』
こんな時まで、君の願いは暖かい。自分よりも、私を優先してくれた。
自分が死ねば、私が一人になると分かっていたから。悲しむと分かっていたから。だから生きていたいと願ってくれた。
多分彼女は、幼い日々にたった一人の寂しさを知ってしまったから。広い家に自分しかいない苦痛を、私に伝えたくなかったから。そんな事を、書こうか書かまいか悩んでいたのだろう。
滝のような、否、川のような雨がひたすらに降り注いでいた。私の号哭は月夜にこだまし、それはまるで激流が岩肌を打ち付けるようだった。落ちゆく雫は月明かりを受け、煌いた。光瞬く硝子玉が、とめどなく次々と降り注ぐ。
あの日君が見たいと願った天の川は、奇しくも君が地球を立ち去った日に現れた。
深い悲嘆に暮れる中、君の愛情が破裂してしまいそうな私の栓を開け、壊れる前に涙させてくれた。聖夜の贈り物、と呼ぶには少し切なすぎるけれども、君の言葉は、確かに届いた。叶いこそしなかったけれど、願ってくれたその事実だけでどうしてこんなに心安らぐ。
この短冊を全て、私が貰ってもいいものだろうかと院長先生にお願いすると、快く受け入れてくれた。君の本音の詰まったそれは、紙きれでありながらも、確かに君の分身と呼ぶにふさわしい。
ひとしきり慟哭して後、私は看護師長たちに導かれるまま、両親たちの所へと戻った。去り際に、見えざる記録の星に想いを馳せる。
願わくば、君たちが出会えている事を。
そんな想いだけ、夜の中にそっと送った。
家につき、ドアを開けるより先に、庭の方へと向かった。そこには、小さな墓標があるからだ。あの日貰った君の欠片を、アルミの箱に入れて土の中に埋めた。我が家にある、小さな君の墓標。寂しくないようにと、ちゃんと妻の使っていたスカーフも共に入れておいた。
先ほど買ってきた、サルビアの花をそっと置いた。色とりどりの花を見ていると、あの日の短冊を思い出す。何色がいいか店員に尋ねられた私は、やはりあの日の笹を思い出し、様々な色の花弁に満ちた、綺麗な花束を所望した。
ご家族にですか、と尋ねた花屋の店員は、きっと本当に花のことが好きなのだろう。娘のためだと教えると、それは素敵ですねと一本サービスしてくれた。
奇跡的なことに、サービスしてもらったそのたった一本の花は、唯一真っ白な花弁を誇っていた。
自宅付近は街灯も無くて、その分運転に気を付けなくてはならないのだけれど、綺麗な星空が自慢だった。月だけじゃなくて、天の川だっていくらでも見える。
どこにあるのか分からない、アーカイブ星に問いかけた。そっちじゃ元気にやっているかい、と。
一陣の風が走り抜ける。供えた献花が揺れている。
ぴょこんと飛び出した細い茎が、上下に揺れている。
笑顔みたいな花が、頷いたように揺れていた。
◇◆◇
ごめんなさい、とても長くて。
それと申し訳ないのですが、今回書いたもの、我ながら気に入ってしまったので自分の短編集のスレッドにも投稿してもよいでしょうか。
一応こちらの企画に参加したものだとも明記するつもりですので。