笹の葉から垂れ下がる細長い紙面を見て、私は思う。ああ、そうか。もう七月なんだ。
あの日からまるっと一年が経って、私が今当たり前のように生きているこの奇跡も日常に変わった。
「……先生は、元気かな」
「お前はそればっかだな。知らねーよ、あの人は俺らにもう興味がなくなったんだから」
ふいに漏らした言葉に反応した仁くんは、興味なさげにもう帰ろうと呟いた。もうちょっと待ってという私を無視して彼はスタスタと歩いて行ってしまう。追いかけながら、ふいに見えた短冊に「幸せになりたい」と書かれてあって、なんとなく一年前の私たちならそう書きそうだなって思った。
「仁くんっ、歩くの早いよ」
「お前が遅いんだろ。さっさと歩けよ、クズ」
何回言っても仁くんが私のことをクズ呼ばわりするのは変わらない。これも一年前からだ。一年前に私が仁くんと先生に出会ってから、あれから何一つ変わらない。
変わってしまったのは、私と仁くんを捨てて先生が消失してしまったことだけ。それももう三か月も前のことだ。先生はどうして私たちを置いていったのだろう、一緒に連れて行ってくれなかったんだろう。先生が生きてるかも死んでるかもわからない。もどかしくて毎日がただ只管に苦しい、一年前のあの頃に戻ったような感覚が時々蘇って私は泣きたくなった。
「ねえ、仁くん。さっきね、短冊に……」
「うるせえ、お前の女々しい話を聞いてやる義理はねえ」
「ねえ、仁くんっ」
先を歩く仁くんの腕を捕まえて無理やりこっちに振り向かせた。彼が少しだけ傷ついた顔をしていたことに気づいて、苦しいのは私だけじゃないんだなって思った。
私は無性に感情が昂っていつの間にか仁くんに抱き着いていた。「やめろ、きもいわクズ」と私をひっぺがそうとする仁くんの表情はさっきとは全く別物に変わっている。良かった、いつもの仁くんだ。
「ねえ、仁くん」
「……なんだよ」
「もしさ、私たちが短冊に願い事書くとしたらさ、先生にもう一度会いたいってなるのかな」
「それはお前だけだろ。俺はあの人に会いたいなんて思わない。俺らを平気で捨てたあの人なんかに」
私たちは飼われていた、先生に。
名前も知らない、職業も知らない。先生は一体どんな人間で、どんなふうに生きてきて、どういう経緯で私たちのことを拾ったのか、私は何にも知らなかった。仁くんと出会ったのはその時。私より一週間前に先生に拾われたらしい。何にも知らない私たちは「家族」のように一緒に時間を過ごした。一緒に買い物に行って、一緒にご飯を作って、一緒の食卓でご飯を食べた。私たちが経験したことのない日常を先生が全て教えてくれた。
私たちは先生が好きだった。先生なしでは生きていけないと思っていた。
だけど、私たちは先生がいなくなった今でも当たり前のように生きている。先生なしでも生きていけるんだってそんな証明がしたかったわけじゃないのに。
「前にね、先生が言ってたの。私が織姫で仁くんが彦星だったら、なんか笑えるねって」
「なにそれ、意味不明。ってか俺らは恋人同士じゃないし、お前に会いたいなんて俺は絶対に思わない」
「知ってるよ、でも。先生はなんとなく、私の好意に気づいていて、だからそんなこと言ったのかなって思ったの。仁くんのこと好きになったほうが幸せだって言いたそうだった」
二人で歩いて一緒に住んでいるマンションの鍵を開けた。先生と一緒に住んでいたこの場所も、先生がいなくなってから二人きりだ。私たちはここで先生が帰ってくるのを待っている。ずっと、ずっと。
□
生きている。私は生きている。――そのことで毎日死にたくなった。
仲が良かった友達を何かのきっかけで怒らせて、私はハブられた。ねちっこい陰口を毎日吐かれ、窓から外の景色を見てはここから飛び降りたら死ねるかなって常にそんなことを考えた。言葉の暴力は残虐だ。毎日ここから飛び降りて自分がぐちゃぐちゃの跡にも残らない死体となって、私をいじめたあいつらが後悔で息もできなくなる未来を願った。
親は私を救ってはくれなかった。私は透明人間だった。生きるのに飽きて、やっぱり死のうって思って廃墟になったビルの屋上で裸足になって下を見ていると、その人は私に声をかけてきた。
「勿体ない。君の人生はそれで終わりかい?」
先生は私を子馬鹿にしたように笑った。これから死のうとする私を、嘲笑うように口元を緩ませた。私の腕を勢いよく引っ張って抱き寄せた先生は耳もとで「君のその時間をわたしに頂戴」と囁いて、私はうっかり恋に落ちてしまった。捨てようと思った残りの時間を全部この人にあげたいと思った。それくらいに、私の死を笑った先生は魅力的だった。
そこで私は彼に出会った。名前は知らない。先生が「仁」と呼んでいたから私も彼のことを仁くんと呼んだ。本当の名前が仁なのか、それとも別なのか、そんなのどうでもよかった。私たちは先生に生かされて、先生に飼われたただの野良猫。
私たちは先生が望むことならなんでもした。先生が死ねというなら死ねたのに。
「先生がいなくなっても、私は今日も息をしてる。不思議だよね、仁くん」
「うるせえ。鬱陶しいこと言うなよ」
「先生は帰ってきてくれるかな。私たちがまた死のうとしたら、きっとまた止めに来てくれるよね」
「知らねえ」
仁くんがビールの缶を開けた。プシュッと音が鳴る。仁くんがビールをグラスに注ぐ手つきは慣れている。泡が綺麗にたって、仁くんは一気にそれを飲み干した。私はそんな仁くんを見ながらちょっとだけ笑って、今日も日記を書いた。先生が帰ってきたらこんなことがあったんだよって報告するために。日記帳に万年筆で文字を書いていると、腕に何かついていたのか紙面が赤く染まった。
「やばい、さっきの返り血がまだ残ってる」
「早く洗い流して来いよ。きたねえ」
「うん、ごめん」
先生のためなら何でもできた。私たちはあの人のためなら死ぬことでも生きることでも。なんでも。
日記を書き終えて私は今日も鍵をする。私は××を殺したときについた掌の血液を舌で舐めとり、ごくんと唾と一緒に飲み込んだ。ビールを飲む仁くんに「美味しい?」って聞くと彼はどうでもいいように「うるせえ」と相槌を打ってテレビをつけた。違和感は私たちを今日も凝視している。いつか警察がここを発見して私たちが捕まったら、そう考えるとわくわくした。
先生大好きだよ。日記を机の中に片づけて、仁くんの飲んでいたビールを一口飲んだ。やっぱり苦くて私は好きじゃないなって思った。
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添へて、のお題がとても好きです。お久しぶりです、前回参加できなかったので今回こそはと思い、早めに投稿させていただきます。また時間ができましたら感想を書きに来たいと思います。
運営様、今回も素敵なお題をありがとうございました。