笹の葉から垂れ下がる細長い紙面を見て、私は思う。困った。この行事が何であるのかはわかるのに、書かれている言葉は私が知っているものと全く違うのだ。角ばったり、丸かったり、アルファベットを崩したような曖昧さと、イメージとしても浮かびにくい抽象的な文字らしき何かが、短冊に書かれている。今日は七夕のはずだから、きっとこの短冊の全てに、何かしらの願い事が書かれているのだろう。
私は笹竹が用意された地元の公園をぐるりと見回す。見慣れた公園ではあるけれど、そうではないような、不思議な感覚がした。初夏の湿気を含んだ暑さとはまた違った、安心できる温かさがこの公園にはある気がする。それがどういったものであるのかは分からないが、安心できることは確かだった。
七夕の大公園にはたくさんの子どもたちが集まっていた。子どもたちに混ざるように、私みたいな大人が何人か見受けられる。子どもたちと話している様子から、きっと兄弟なんだろうなと想像ができた。手に持ったまま白紙の短冊を揺らしながら、皆可愛いなぁと笑顔になる。公園の中央に用意された立派な笹竹の近くに子どもたちが集まってきたのに合わせ、一人、端にあるベンチへと移動した。
楽しそうな声をあげて、子どもたちが我先にと短冊を飾るのが見える。私ももう少し若かったらなぁと、願っても叶わないことを思う。そうした想像を楽しめる年齢になってしまったことは切ないが、楽しめるなら、まあ年を重ねるのも悪くないのかもしれない。
「おい、姉ちゃん」
「ん?」
背中をつんつんと押され振り向く。Tシャツと短パンを着た少年と、大きくカラフルな花柄があしらわれたキャミソールワンピースを着た少女が立っていた。男の子は少し太り気味で、小さめのTシャツが窮屈そうに見える。
「私のこと呼んだの?」
そう問うと、男の子は数回頷く。
「今年ね、五条の森でね、肝試しするって! すっごいこわいって言ってた!」
「え、あ、そっか」
大きな身振り手振りで教えてくれたが、今まで肝試しなんて催しあっただろうか。回覧板を読んでいないせいで、私だけ知らないのかもしれない。今後は面倒がらずに回覧板の内容も読まないといけないと思いながら、肝試しかぁと独り言がもれる。
「おにーさん怖いのぉ?」
「いやー……怖いってわけじゃないけど、ほら、何かあった時の責任ってどうなるんだろうと思って」
町内会の催しである以上、運営者は参加者の怪我がないようにしたいはずだ。七夕を行っている会場から離れた所で肝試しをやるなら、なおさら。
「わたしむずかしいこと分かんない!」
「僕もー! ねー早く行こーよー」
手を引かれ半ば強引に立たされる。子どもの体だというのに、力は大人も同然で、掴まれた左腕に痛みを感じた。もしかすると太っているだけだと思っていた少年は、筋肉で膨らんでいるのかも。少女は私たちを先導するように進む。五条の端から端までの移動は、普段徒歩移動をすることがない私には辛いものがあった。
住宅街を抜け、大きな道路を一本越える。細い、蛇のように曲がりくねる道を進むと、五条の森が見えた。アーチ状の看板に『坂嶋町内会肝試し会場』と書かれている。土地開発が進んでいた街の隅、堤防沿いに五条の森はある。誰の土地かは分からないが、初夏から秋口にかけて、地域の子どもたちが遊んでいる噂は聞いたことがあった。
吹きさらしの野原を進み、ゲートへ向かう。晒したふくらはぎに、背の高い草があたる不快感。虫もたくさんいそうで気味が悪い。しかし元気な子ども達は私の手をぐいぐいと引っ張る。五条の森は鬱蒼と木が生い茂り、日も傾き始めた今、踏み込むには勇気がいりそうだ。
「君たち何番のくじだい?」
「いち!」
クリップボードを持った白髪のおじさんが話しかけてきた。すかさず少年がポケットからくしゃくしゃの紙を渡す。いちということは、もしやトップバッターか。おじさんが手に持っていたクリップボードに、ペンで何かを書いている。
ペンの頭をノックした、カチッという音がした。おじさんが紙を切り取り、私に差し出す。戸惑いながらも受け取れば、"五条の森 左経路"と書かれているのがわかる。左ということは、もしかすると右経路もあるのかもしれない。
「それじゃあ君達すぐだから。ゲートの係にその紙渡して、肝試ししてきてね」
おじさんはそう言い、ほかの参加者の元へと向かっていった。五条の森に集まってきたどのペアも、子ども二人に大人が一人という、親子のような組み合わせだ。
「姉ちゃん早く行こーよ! 早く早くー!」
「お兄ちゃんはーやーくー!」
「あーうん分かった分かった」
二人に手を引かれ、数数メートル先のゲートを目指す。それぞれに腕を掴まれているせいで、腰が曲がった状態なのが少し辛い。少年が私の手からひったくった紙を、係員に渡す。時間をかけずに目を通したらしい係員は、小さな声で「お気をつけて」と私たちに言った。陰鬱な印象を与える森に、侵されてしまったのか。これから森へ踏み入れる私や、この子どもたちは無事で戻ってこれるのだろうかと不安になる。
けれど私の不安を知らない二人は、左矢印が描かれた看板を目印にぐんぐん進んでいく。名前を知らないせいで、ちょっと、と呼びかけるしかできない。
青々と茂る草木の隙間から見える空は暗く、目を凝らさないと遠くまで見渡すことが難しくなっていた。足元の折れた枝が、私に踏まれて鈍い音を立てる。等間隔に設置された看板だけが頼りなのに、看板も見つけにくくなっていた。
「ねえ、本当にこっちであってるの?」
大きな声で二人に呼びかけるのに、なんで無視するの?
「ねえってば!」
手を伸ばして背中をつかもうとしてもダメ。二人は五条の森に入る前よりうんと足が速くなった。子どもなのにどうして。私とあんまりかわらないのに、二人は全然つかれていないみたいだった。わたしは息も絶え絶えで、横っ腹の痛みにたえるくらい必死だ。
それでもわたしのことをほうって進んでく二人に、もう声もとどかなくなってしまった。立ち止まって前かがみになり、からからに乾いた喉で必死に息を吸う。のどがくっつき虫になったみたいで、つばを飲むと痛かった。
足はぼっこみたいに細くって、あの二人のように走れそうもない。すっかり薄暗くなった森に一人でいるのは心細くて、疲れていても足を止めることはできなかった。もっと先へ。もっと急いで、あの人たちに追いつかなくちゃ。
孤独だった。誰もいない、後から追ってくる人はいつまで経っても来る気配はなかった、怖いと一度思ってしまえば、風で葉が揺れる音や、葉っぱ同士が触れ合い生じた音にも、過敏に反応してしまう。狐がいることは、昔話に聞いていた。もし出会ってしまったら、生きていけるのか。そんな不安は心細さを感じる私を、簡単に飲み込んだ。
それでも足を進められたのは、等間隔に並んだ質素な看板のおかげだった。二人がいなくなってから、一体いくつの看板を見ただろう。心が壊れてしいそうだ。誰もいない、頼りになる人も、パパもママも。
「お嬢ちゃん、こっちだよ」
「ぼく、頑張ったね。もう少しよ」
名前は呼ばれなった。それでも良かった。
「パバ! ママ!」
誰の声かは、分かるから。
声がする方へ、走る。足の裏はきっと真っ赤だ。喘ぐように息をして、涙があふれる。パパとママだ。二人から差し出された手。大きく骨ばった手、細く白い手。大好きなパパとママの手だった。必死に手を伸ばす。ずっとずっと先に居て、きっと私を待ってた。
伸ばした手はうんと小さかった。
「もう少しで会えるから」
「一緒に頑張ろうね」
パパとママの手を、強く握る。二人も、私の手をぎゅっと力強く握ってくれた。あったかくて、胸に抱いてほしくなった。五条の森の出口に向かって一緒に走る。肝試しはもう終わり。ゲートの先は証明で明るくて、自然と目が細まった。
■「元気な女の子ですよ」
早くママの温もりに戻りたくて、必死に泣いた。知らない人の手は心細くてしかたなかった。
「頑張ったね、七海」
ママの体は暖かかった。