笹の葉から垂れ下がる細長い紙面を見て私は思う。懐かしいな、と。昔はみんな笹の葉に群がり、色とりどりの短冊に思い思いの願い事を書いていた。叶うも叶わないも関係ない。七夕という行事に参加すること自体が楽しかったのだ。織姫と彦星の愛の物語に心をおどらせ、輝く星を瞳に映して、期待に満ちた顔で夜空を見上げた日は遠い昔だ。純粋で無垢な心は色あせて、世界の複雑さに巻き込まれていく。
懐かしさついでに昔よく遊んでいた平野に赴く。そこにはまばらに木があって、静寂を保つ無口な湖がある。何も変わっていない。移りゆく世界の中で、その場所だけ時が止まっているかのようだった。私も、きっと彼も変わったというのに。
湖の向こう側に他よりも少し大きな木がある。昔、秘密基地などと言ってよく木に登って遊んだものだ。
***
「あなた、みないかおね!」
「ん? あー、最近引っ越してきた」
目の前にいる男の子は興味なさげに答えた。
「そう、じゃあトクベツに私の秘密の場所にしょうたいしてあげるわ!」
私は腰に手を当てて仁王立ちで言う。
「秘密基地のこと?」
なるほど、そんな表現の仕方もある。
「!! そう! 秘密基地よ!」
ここは木に登ると目の前の湖がよく見える。空をそのまま映して色とりどりの顔を見せるのだ。夜は特に美しいが、カラスの唄が流れたら家に帰らねばならないから、見れるのはお母さんと一緒にいる七夕の日くらい。つまり、今日だ。
「なんだ、ただ木の上に登るだけ? つまんなくね?」
「な、なによ! せっかく見せてあげたのに! ばかっ!」
「お、おい、泣くなよ」
男の子は私が泣くのを見ていくらか慌てた。
「あんだだって泣いでるじゃん〜」
「お前が泣くから、じゃなくて、な、泣いてねぇよ!」
そのまま二人で木に座ったまま、えんえんと泣く。目の前には鏡面のように静かな湖に溢れんばかりの星がたっぷりと注がれていた。
「あら、降りれなくなったのかしら…」
「うちのこ、泣き虫だからねぇ」
「あら、うちのこもよ〜」
「じゃあ、やっぱり降りれなくなっちゃったのかしらね」
よく気が合いそうな母たちだった。実際この後大分仲良くなっていたのだが。
「マ〜マぁ〜」
「あら、降りてきた」
「降りてきたわね」
***
「ほら、みなさい、結翔(ゆいと)! きれいでしょう?」
今日も二人で秘密基地という名の木の上に来ていた。私はいつもと変わらず得意げに言う。
「うん」
「な、なによ…、素直ね…、キモチワルイわ」
「ひでぇな! 俺にはこの美しさの真価がわかるんだよ! お前と違ってな!」
結翔は初めて会った時よりもさらに生意気で良く喋るようになっていた。だけど、はっきりものを言う私にとって、堂々と言い合いをすることができる関係というのは心地の良いものであった。
「はぁ!? なによ! 第二発見者のくせに! シンカってなによ! ポケモソでもいるの!?」
だが、一つ問題がある。結翔は年上だからといって、少し頭がいいからといって、すぐに調子に乗るのだ。よく私の知らない言葉を使う。
「ぶっ!」
「……!?」
「第二発見者って殺人事件かよ! ポケモソとかおもしろすぎるだろ」
「じゃあ、なによ、シンカって何よ」
「真価はだなぁ…、えーっと」
「わかってないじゃない!」
「そ、そんなことは…」
「じゃあ早く答えなさい!」
「……」
結翔が言葉に詰まる。それを見てつい口角が上がってしまう。
「ふふん、私の勝ちね!」
「何の勝負だよ!」
今日も水に映る夕日を眺める。何色もの表情を見せる空は美しい。思わず、きれいだね、と言った。何の言い争いも伴わずに。
心が浄化されてゆくかのようにじんわりと夕日の暖かさが身体に染みてゆく。カラスの唄はそんな私たちを家路へと急かす。
「ばいばい」
「ばいばい」
また明日。夕日が見えたらまた明日。今日も楽しかったね、って心の中で呟く。
***
また明日、なんて、いつまでも続かないらしい。
「あかね、俺、また引っ越すんだって」
「え……、きーてないよ」
呆然として木から落ちそうになった。まだ二足分しか登ってなかったけど。
「泣くなよ」
「泣いてない」
顔を隠そうとして木にしがみつく。地上からたった15センチくらいのところでコアラのようになってしまった。
「そっか」
最近結翔はなんだか変わった。私を置いて、まるで一足先に大人に近づいているようだった。
「な、なによ! いつもかっこつけて!」
さすがに今度は木から降りて、面と向かって怒鳴りつける。
「あはは、ごめん。あかねはいつも『な、なによ!』って言ってたよなぁ。今も」
「……っ!!」
ほら、また。あんた、そんな喋りかたするような人じゃなかったでしょう?
「いつか帰ってくるし」
「ほんと!? いつ!?」
あまりの嬉しさにその言葉に食いつく。
「……い・つ・か。耳悪いんですかー?」
結翔は少しだけ真剣な顔をしたけど、そうだったと感じさせないほどすぐに、いたずらっ子の顔を作った。
「はぁあ? あんたこそこのタイミングで頭おかしいんじゃないのー?」
「じゃあ、俺以下の知能レベルのあかねはもっと頭おかしいってことだわ」
「……!! あんたなんか大っ嫌い!! 早くいなくなっちゃえ!」
こういうことしたいんじゃないのに。最後なのに。
「お、おい!? あかね!?」
自分の気持ちがよくわかんないや。
「どうしよう……。ホントはす、……………………すきなのに」
「嫌われた、かな…………ははっ……」
それからもう結翔はこの場所には現れなかった。
一言、ごめんね、って伝えたかっただけなのに。
だから、ずっとずっと待った。三カ月。流石に幼心にも一向に現れない人をこんなにも待つのはばかばかしいとわかっていた。それから三年。初めて会った七月七日、七夕の日に毎年ここに来たけれど……。待てども待てども君は現れない。
それからさらに数年たった今だって。
「いつか、っていつ?」
空に向かって吐き出す。
君が、ばーか、と言う声が聞こえたような気がした。
「ばーか」
え?
「耳悪いんですかー?」
うそ!?
私はばっと声のした方を振り返る。
「あかね、お待たせ」
「遅いよ」
雫が一粒零れて落ちた。
「うん、ごめん」
「ううん、私こそ、大嫌いなんて言ってごめん」
「いや、俺も悪かったし。でも1つだけ聞かせて」
結翔は私の頬を拭いながら言った。驚いた、キザになっている。
「何?」
「おれのこと嫌い?」
「ううん、……好きだったよ」
「…………今も?」
じっと瞳を見つめてきた。私が結翔の瞳に映り込んでいるのが見えるほど。私は途端に恥ずかしくなって目を逸らした。
「わ、わかんないよ! ずっと会ってなかったし! ば、ばかじゃないの!?」
「あはは、ごめんごめん」
ほら、たくさん変わったところはあるのに。こういうところは変わらない。
「なあ、あかね」
「な、何?」
「大人になったな俺たち」
結翔は星を見ながら言った。
「うん」
私もつられて空を見上げる。夜空が抱えきれなくなった星が、溢れて溢れて降ってきそうだった。今までで一番美しいと思った。
「あかね」
「何!」
あかね、あかねってさすがにしつこい。今度は何の用だ。
「結婚してよ、俺と」
「………………は?」
驚いて言葉がでない。言いたいことがありすぎて、言葉と言葉が脳内で絡み合って、適切な一つを取り出せないのだ。
迷いに迷った末に出てきた言葉はまぬけなものだった。
「いや……、だって私たちまだ高校生だし」
私が本当に言いたかったことはこれじゃないことだけは確かだ。まるで高校生じゃなかったらOKみたいじゃないか。
「俺、今日で18になったし」
「……おめでとう」
「そうじゃなくて」
沈黙が訪れる。彼は私の返事を待っているのだろう。
「……い、嫌っ!」
「えっ………………」
湖に映る天の川が傍目に見えた。ショックを受けている結翔も見えたけど。
いくら七夕だからって! いくら久しぶりに会えたからって!! いくら私が結翔のことを好きだからって!!!
「わ、私と付き合ってからにして下さい!!」
目の前の彼はたいそう驚いた顔をした。それからすぐに優しい表情に戻って、
「喜んで」
と微笑んだ。
流れ星が一つ、天の川を横切った気がした。
***
こんにちは。月 灯りです。今回は新しいことに色々挑戦してみました!
運営さま、いつも素敵なお題をありがとうございます。