平成最後の夏、僕こと矢野碧(やの あおい)は、親友の中山水樹(なかやま みずき)を殺した。
「で」
「で、って」
「その死体と、その返り血と、その部屋と、その存在証明を、私に? どうしろと?」
蒸し暑い熱帯夜、何処からか入り込んできた蚊を排除すべく部屋中を蚊取り線香で燻蒸し、その煙を排出し終わってようやく眠れるとベッドに飛び込んだ矢先に、これである。苛立ちも露わに不在着信まみれのスマートフォンを放り投げ、弓月陽(ゆづきひなた)は矢野の名前どおり青くなった顔を見下ろした。
おどおどとした目が部屋を見回す。映るのは変わらない現実――そうつまりは、矢野と水樹がくだらない焦燥と劣情をもつれさせた果てに、逆上した矢野がその胎を滅多刺しにして殺し、挙句のはて興奮も極まってその屍骸をはずかしめたという。床の上には下を脱がされて無惨な傷口を見せる女の屍骸がごろりと足を広げられて転がっていて、効きすぎたクーラーの下で血は既に固まりはじめ、さんざ逃げ回ったのであろう、床中は引きずったような血痕で足の置き場もない。
象徴をめちゃくちゃにされ、貞操も尊厳までも貫かれた同性の屍骸の姿は、陽の精神をむしろ玲瓏たるものに仕上げてくれていた。中途半端に情の残った死に方だと動揺するから、ここは矢野の下劣で品性の欠片も見当たらぬ下半身の高ぶりに感謝すべきだろう。
陽はその妙に回転の速い頭脳で、普段ならとても意識に上らないような下品な言葉を幾度も思い浮かべた。要らぬことにまで想像を働かせる度に、陽のこころは夏だというのに極北の極致のように冷え込んでゆくのだった。
「ひ、ひな」
「凄いよねお前。平成最後の夏。高校生最後の夏だよ、お前」
「陽」
「お前どこ志望? 東大? 京大?」
「……あ、」
「私と同じところ、だったっけなぁー。どうよ、全部台無しにした気分は?」
陽自身、今の表情はとても残酷なまでに、いい笑顔だと認識する。
矢野のことは、親友だった水樹と繋がりを持っているだけの空気である。というより、陽にとってはありとあらゆる男がそのような存在でしかなかった。陽にとっては水樹こそが至高であり、それと幼馴染という時の縁をもって繋がっていたとしても、矢野は所詮空気だった。
だから、矢野が水樹を振り捨てて寄せた好意は、気付いていても何も嬉しくなかった。
だから、矢野が水樹を殺して向けさせた興味は、矢野ではなく水樹にだけ向けられた。
だから、矢野が水樹を殺して求めた救いの手は、取る必要性そのものを感じなかった。
きっと勘違いだろう。矢野は陽を好きだが、陽は矢野のことなど眼中にもない。こうして縋ってくるのは、きっと陽も自分を好いてくれているのだという、根拠のない幼稚な自信によるものだろう。
けれども、もしも矢野が陽の気を知っていて此処に呼びつけたなら?
「陽、助けて、おれを、助けて」
「は、何で?」
「だって今までも助けてくれただろ!?」
あの試験勉強のことだろうか。勉強を投げ出そうとする水樹にせめて範囲のところだけでも教えようとしていた時、矢野が横槍を入れてきたことがあった。水樹がそれを歓迎したから自分も反対せず、結局のところ三人の中で一番成績のよかった陽が二人に平等に教えた。分かっている。途中で水樹は勉強に飽きて寝てしまい、赤点は回避できるからまあいいかとそのまま寝かせたから、後半は水樹に教える予定の内容をなぜか矢野に教えていた。それを「二人きりになっても教えてくれたいい人」と誤認したのだろう。
それとも、あの夏休み初日の海のことだろうか。どうにかテストを無事に終わらせ、追試や補講も切り抜けて、水樹は矢野と海に行っていた。そこで何故か水樹は陽も海に誘い、水樹のいうことだからと一緒に海辺を楽しんだ。分かっている。うっかり海藻で足を滑らせて潮だまりに落ち、危うく溺れそうになった矢野を水樹と二人で引っ張り上げた。滑らせた足は潮だまりの岩で切っており、二人はそんなことに備えていなかった。したたる血に矢野は目を回していて、水樹がどうしたらいいのかと泣きさけぶから、陽は持ってきた水で傷を洗って絆創膏を張り付けた。それを「おれをわざわざ助けてくれたいい人」だと思い違ったのだろう。
全て水樹のためだ。水樹が矢野を好きだから、水樹が矢野を助けてほしいと冀ったから、陽はその通りに手を動かしただけで。
「水樹は何か言ってた?」
「なん……! い、今水樹のことは関係ないだろ!?」
「何か、言ってた?」
「知らねぇよ、水樹のことなんか! それよりも陽、お前は」
ジャアジャアとくまぜみのように喧しいのをさらりと聞き流して、陽は一度ベッドに放り出したスマートフォンを拾い上げる。じっとりと冷たい湿気が指に触れて、嗚呼直前までは睦まじかったんだな、と、特に感慨もなくそれだけ思った。
ほぼフル充電を保ったスマートフォン。その緊急通報ボタンを押して、陽は迷いなく一一〇番を押した。陽はためらいなく、素早く、自分の名前と矢野の家の住所を口にして、すぐに窓の外へ放り投げた。
血まみれのカッターを握りしめた矢野が飛び掛かってきたのはその直後で、陽は咄嗟に掴んだシーツを矢野に頭から被せた。
「水樹なら、捕まえてって言うんだろうね」
もし矢野が自分ではなく他の誰かに同じ昂りを向けたなら。きっと水樹はそう言う。
「つかまえて。そう、捕まえて」
それを解釈するのは、陽の自由だ。
シーツを踏ん付け、もんどり打って倒れた矢野の背を、陽は両脚で踏み付けた。そして座り込み、外でまだ通話が繋がっているはずのスマートフォンに向けて、思い切り、出来る限り悲痛な叫び声を上げてみせた。じきに矢野は水樹を殺し、その現場に呼びつけたか居合わせたかした陽も殺そうとした、憐れで下品な男として警察に認識されるだろう。逮捕はされるまい。この間抜けな男は倒れた時に肺を一突きしてしまった。警察の御登場まで、救急車の御到着まで、果たしてこれのいのちはあるかどうか。流石の陽にもそれは分からなかった。
だが、そんなことはどうでもいい。
陽はただ、ただ真顔で叫んだ。
後にも先にも、片思いにフられて泣き叫ぶことなど、もう無いだろうから。
悔いのないように、陽は精魂込めて慟哭した。
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どもどもども三度目です
液晶の人です
今宵は百合と平成を冒涜しにきたよ
夏はいやですね
あついし
蟲がわくし
死体はすぐ腐るし
クーラーが効いてても
恨み事めいて暑い暑いと
思わず言いたくなっちゃうね
百合の花はもう枯れた